第29話 ここから始まる物語
青八木家に長男として生を受けた青八木雨竜は、幼い頃から父に厳しく育てられていた。良く言えば期待されていたのだが、雨竜はそこまで好意的に捉えたことはない。
というのも、雨竜への指導が厳しくなったのは、姉である氷雨が父の方針に従わなくなってきたからである。
姉は幼いながらに、古くさい父の教えに否定的だった。伸び伸びと自由に活動したい姉と保守的で規律を重んじる父の相性は良くなかった。
そういうわけで父は姉に期待することを止め、雨竜へ指導を施すようになる。そして雨竜は、それに応えるように多くのことを吸収していった。
この生活を、雨竜は辛いと思ったことはない。父は厳しいが、理不尽なことを言うわけではない。上手くできるとよくやったとしっかり褒めてくれる。だから雨竜は、決して否定的になることなく父の教えを吸収していった。やがて父から直接的に指導を受けることはなくなり、自ら多くの成功を修めるようになる。
雨竜にとってはそれが当たり前で、疑うことはなかった。人当たりはよく友好的で、決して他人を見下さない。見習う人がいれば、コツを聞こうとコミュニケーションを取る。そうして雨竜は、さらに一歩ずつ成長していく。
人としては完成されていく雨竜は、心の奥底で物足りなさを感じていた。何一つ不自由な生活は送っていないのに、何故か窮屈に感じていた。
当時の雨竜はそれを気のせいと一蹴し、まともに取り合おうとはしなかった。
父の教えの下成長してきた自分に不安などない、そう信じ切っていた。
「お兄ちゃんさ、友達っていないの?」
ある日、妹の梅雨とリビングでレースゲームをしていると、唐突にそんな質問をされる。
「いや、前連れてきただろ」
つい先日、引退試合を終えたバスケ部の友人を連れてきたばかりだというのに、おかしなことを言う妹。雨竜には、梅雨が何を言いたいのか分からなかった。
「えっ、前の人たち友達なの? ただの部活の付き合いとかじゃなくて?」
辛辣な物言いに言葉に詰まる雨竜。動揺したせいで、コースから僅かに逸れてしまった。
「なんでそんなこと言うんだよ」
「ええ、分からないの?」
梅雨は大きく溜息をつくと、ゲーム画面から目を逸らさないまま雨竜に言う。
「だってお兄ちゃん、全然楽しそうに見えなかったし」
雨竜は再び、操作ミスをしてしまう。梅雨の言うことが見当違いなら、ここまでゲームに影響することはなかっただろう。
「私やお姉ちゃんと話してるとき、もっと素に見えるし気が楽そうに見える。他の人と話してるお兄ちゃん、媚び諂う営業マンみたい」
「……」
「お父さんに毒されちゃったんだろうな。その場にいるようで、自分さえも一歩引いて見てる。どういう状況が最善か、そんなことばっかり考えて、自分がそこにいない。何にも楽しくない」
梅雨も雨竜と同じように、父の教えを受けながら生活していたが、そこまで厳しく躾けられたわけではなかった。
それもあり、梅雨にとって父はそこまで絶対的な存在ではない。だからこそ、父に縛られて自分の感情を優先できない兄を不憫に思っていた。
「空気を読んで行動するのが悪いって言わないけど、もっと自分を出せる友達を見つけた方が良いよ。来年になったら高校行くんだし」
「……うっさい。俺のことより自分の心配をしろよ」
「べー、わたしはもう仲の良い友達が2人いますー!」
「それはよかったな」
「だからわたしのことはいいの、それよりお兄ちゃんが心配で」
「梅雨、思い切り壁にぶつかってるぞ」
「えっ、あれ!?」
梅雨の意識をゲームに戻し、話をうやむやにする雨竜。
梅雨の言ったことを、理解できなかったわけではない。
確かに雨竜は、例えクラスメートでも、同じ部活の仲間でも、完全に気を許したことはなかった。
それは父の教えに準じているところがある。人とは一律に仲良く、特別は作らない。バランスを取るように動き、笑顔を振りまくだけ。
だが、それで本当にいいのだろうか。
『だってお兄ちゃん、全然楽しそうに見えなかったし』
梅雨の言葉が頭から離れない。
雨竜は確かに笑っている、笑って皆と過ごしている。
でもそれは、本当に楽しかっただろうか。心の底から楽しんでいただろうか。
――――本当は、気の置けない友人を求めているのではないだろうか。
ゲーム画面を見ながら、雨竜はぼんやりと考える。
自分のことでありながら、雨竜は自分がどうしたいのか明確に答えを出せないでいた。
―*―
陽嶺高校に入ってからも、雨竜の生活はそれほど変わらなかった。中学の時とは違い、目の引く生徒は何人かいたが、自分の立ち回りは結局変わらない。平等に皆と仲良くし、平等以上のものは何も求めない。必要以上を求められれば、角を立てないよう一歩引く。そのせいか、バスケ部の友人を家に連れてきても、妹の気持ちが晴れることはなかった。
いつも通りを安堵する自分と、物足りなさを感じる自分。決して感情は表に出さずに、仮面を被り続けていく自分。長く染みついた習慣を変えることは決して容易ではなかった。
そんな生活がこれからも続くのだろう、高校生活にも慣れ始めそう思った時、雨竜にとって大事件が起きる。
「……また」
雨竜はかつてないほどに困惑していた。
2学期が始まったばかりの授業、夏休み明けの実力テストの返却を受けながら雨竜は呟く。
どのテストもそうだが、テストの返却を終えると、教師から今回のテストの平均点と最高得点を伝えられる。1学期の頃はそれを聞いて雨竜はホッとしていたものだが、今の雨竜はひたすら戦慄させられている。
3教科テストを返されたが、どの教科も最高得点を取得できずにいたのだ。
実力テストは、定期考査と比べて明らかに難しかった。夏休みボケしている生徒たちへ喝を入れることが目的なのだろう、平均点も10点近く下がっている。
それにも関わらず最高得点は100点、3教科とも100点。仮にこの満点を同じ人間が取っていたなら、既に雨竜とは18点差が開いていることになる。
一体誰なのか、クラスで勉学が優秀な御園出雲や月影美晴と話したが情報はない。さすがにそれを知るためだけに洗いざらい人を当たるわけにはいかない。
そんな疑問が払拭されたのは、朝礼で成績表を配られた直後だった。
「どうだ見たかクソババア!!」
クラス中の視線が一気に集中する。視線を向けられた生徒は、そんなことを気にする様子も見せずにガッツポーズをしていた。
廣瀬雪矢。同じクラスの男子生徒。雨竜と交流はなかったが、いろんな意味で目立つ生徒だった。
第一に、平気で授業に遅刻する。第二に、入学して2ヶ月ほどで腕を骨折していた。そして最後に、中間テストでは物理を、期末テストでは保健体育で満点を取っていた。
教室内では目立つような行動はしていないが、結果として目立っていることが多いという印象だった。
そんな生徒が、あまりに堂々と喜びを表現している。その場で腿上げをするほど歓喜している。
それに満足したかと思うと、廣瀬雪矢は突然帰り支度をし始めた。
「先生、体調不良なので帰ります。じゃ」
「おお」
そう言うと、返答をもらう前に雪矢は教室の外へ出て行ってしまった。
置いてきぼりをくらった1-Bのクラスで、最初に言葉を発したのは委員長である出雲。
「い、いいんですか先生!? どう見ても元気でしたけど!?」
堂々とサボりを実践した雪矢にもの申す出雲だったが、担任である長谷川は面倒臭そうに頭を搔くだけ。
「まあいいんじゃないか、今日くらいは。教師陣だって偉く喜んでたしな」
「えっ、何のことですか?」
「ホントはこういうこと言っちゃダメなんだが、どうせ後で貼り出されるしな。お前たちにも見習って欲しいから、今言わせてもらう」
そう前置きした長谷川は、1度雨竜に目を向けてから、教卓に両手を着いて言った。
「今回の実力テスト、廣瀬がオール満点で1位を収めた。過去例を見ない、ぶっちぎりの快挙のようだ」
―*―
翌日、雨竜は成績表が貼り出されている学年掲示板の前で、腕を組みながら満足そうに頷く廣瀬雪矢の姿を見つけた。
この成績表が貼り出されたとき、1年の中でかなりざわついていた。しかし話題の中心である雪矢がその場にいなかったため、ざわつき自体は長く続かなかった。1日経った現在、掲示板前は随分落ち着いたものである。
「廣瀬君、こんにちは」
雨竜は早速、廣瀬雪矢に声を掛けた。もともと異質な雰囲気を醸し出していた男だったが、昨日を以て確信する。彼は、知り合っておいて損することはない人間だ。
「実力テスト、完敗だよ。32点も差を付けられたんじゃ言い訳もできないね」
そう言って、雨竜は雪矢に向けて右手を伸ばす。
「次の中間試験では負けないから、互いに切磋琢磨して競い合おう」
握手を求めるように伸ばした手。今後は交流をしていきたいと差し出した手。
――――それに手を重ねられることは、決してなかった。
「君、気持ち悪いってよく言われないか?」
「えっ……?」
そう言われて、初めてはっきり前に立つ生徒の顔を見る。
廣瀬雪矢は、とてもつまらなさそうに雨竜の顔を見ていた。
「そのへらへらした顔、見るに堪えられん。僕が誰かに負けようものなら、そんな顔絶対できないけどな」
「……」
「負けても平気だなんて思ってる奴と握手なんてしたくない、悪いがその手は一生引っ込めてくれ」
雨竜の顔が焦りで歪む。まったく予想をしていなかった言葉を並べられ、どう返答すれば良いか分からなかった。
「まっ、優秀な人間を早速取り込もうとする姿勢は嫌いじゃないがな。でも、意味ないことはやっても意味ないだろ」
「……? どういう意味?」
「これ以上勉強に勤しむつもりはない、君をテストで圧倒した僕は今後生まれないということだ」
「はっ!?」
雪矢のカミングアウトに驚きを隠せない雨竜。限りなく素に近い声が出たことに、雨竜はまったく気が付かなかった。
「そ、それはどうして?」
5教科全て満点など、努力だけで到達できるレベルではない。勉強というジャンルにおいて確実に才能があるのに、それを放棄しようとする雪矢の言い分が理解できなかった。
「どうしても何も、ノートパソコンは手に入ったんだ。勉強なんて必要ないだろ?」
しかしながら、理由を聞いても謎が深まるばかりで、雨竜の脳はますます混乱してしまった。この男はいったい、何を言っているのだろうか。
「しかし僕も愚かなものだ。勉強などせずともバイトさえすれば容易にノーパソは手に入ったというのに、随分遠回りをした。夏休みの間1日12時間勉強して買ってもらったのが15万円のノーパソだからな、時給換算で420円ってコスパ悪すぎだろ」
陽気になっているのか、聞いていないことをどんどん語ってくれる雪矢。そのおかげで雨竜は、雪矢が言わんとしていることをなんとなく理解する。
恐らく彼は親と話して、テストで1位を取れたらノートパソコンを購入してもらうと約束をしたのだ。だからこそ自分を超えるような成績を叩き出したし、目的を達成した以上勉強する必要はないと言いたいのだろう。
「でも、だからって……」
それでも雨竜は納得がいかなかった。優秀である散々評価を受けてきた自分を上回る人間が容易にそれを捨てようとしている。彼に期待した多くの人間から、失望の眼差しが向けられることになる。それにも関わらず、どうして雪矢は勉強せずにいられるのだろうか。
「君の疑問が何だが知らんが、僕を一般人と一緒にするな」
そう言うと、雪矢は恥ずかしがることなく堂々と言った。
「勉強なんてしたくなった時にすればいい。他人の思いなんて僕の知ったことか」
雨竜の中で、かつてない衝撃と出会った瞬間。周りの目を気にしすぎてきた雨竜では、絶対に思い付かないこと。
どれだけ周りの注目を浴びようとも、期待されようとも、全ては自分のペースでやり遂げる。姉に似た、もしくは姉よりも強烈な性格の持ち主を見つけてしまった。
「というわけだ、学年1位復帰おめでとう。祝ってやるから僕には関わるな、そんなことしても意味ないからな」
雪矢は軽く手を振ってその場を立ち去った。同じクラスの人間相手に言う言葉ではないと思うほど、拒絶されていた。
「……はは」
だがしかし、雨竜には関係なかった。彼の頭にあるのは、遠ざかる小さな背中を決して見逃してはいけないという警告だけ。
『もっと自分を出せる友達を見つけた方が良いよ。来年になったら高校行くんだし』
妹の言葉が反芻する。その機会の到来に、自分でも驚くくらい高揚していた。
彼ならば、互いに遠慮なく会話をすることができるだろう。その片鱗は、先ほどの会話だけで充分理解できる。
きっとこれから、梅雨にも誇れるような、楽しい時間を迎えることができるはず。
これは始まり。青八木雨竜にとって前へ進むための、新しい物語の始まり。
そのために雨竜は、その小さな身体を追いかけて、思いきり背中を叩いてみせるのであった。
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