第8話 父の思い

「あれ?」


リビングに入ると、そこには誰もいなかった。洗濯物とアイロンセットがあり、父さんが先程まで作業していたことだけ把握できる。


「母さんは?」


休日は遅くまで眠っていることの多い母さんだが、今は午後4時。さすがに眠っているということはないだろう。普段ならテレビの前を独占してゲームをしているはずなのだが。


「お母さんならノノさんの家に遊びに行ってるよ」

「えっ、1人で?」


ノノさんというのは、母さんの唯一と言ってもいい友人のことで、高校の時から仲良くしているらしい。僕も何度か会ったことがあるが、丁寧な言葉遣いに敬意を表して『ですわババア』と呼んでいる。


しかし驚いた、あの母さんが1人で休日に外出するなんて。僕としょっちゅう父さん争奪戦をするくせに、僕が居ない時に父さんと一緒に行動しないなんて。明日は雪でも降るんじゃなかろうか。オーストラリア辺りで。


隆雄たかおくんがね、失恋しちゃったらしいんだって」

「失恋? 随分ませてるなあいつ」


隆雄くんとは、ですわババアの1人息子で今は中学1年生だったはず。幼いながらになかなか凜々しい顔付きをしていた少年というイメージだったが、フラれたのか。


「ずっと好きだった相手に好きな人ができちゃったんだって」

「馬鹿め、さっさと想いを伝えないからだ」

「それでお母さん、今日慰めに行くらしいよ」

「人選ミスでしょ……」


ですわババアは一体何を考えているんだ、ウチの母親に思春期少年の機微を察することなんてできないぞ。父さんとゲームのことで容量が埋まってるポンコツなんだから。


多分あの人、何も考えてないな。何故かウチの母親大好きみたいだし、会えれば理由なんてどうでもいいんだろう。可哀想な隆雄、恋心をダシに使われてるじゃないか。


「父さんも行ってあげればよかったのに、いつも一緒に行ってるじゃん」

「お母さんにも一緒に行くよう言われたんだけどね、断っちゃった」

「えっ……」


さらっと父さんは言っているが、廣瀬家トップ3に入るレベルの大事件である。父さんが母さんの誘いを断るなんて、僕の知る限り今までなかった。それだけ父さんが母さんを溺愛してるわけなんだけど、どうして今日に限って。


僕の瞳が理由を求めていたようで、父さんはいつもの優しい笑顔で教えてくれる。



「今日はゆーくんの帰りを待ちたかったから、それだけだよ」



――――ああ、本当に勘弁してくれ。


いろいろと混乱させられて、辛い気持ちになって参っている時に、大好きな人からそんなことを言われたらあらゆる感情が溢れ出してしまう。おかしい、僕はこんなに弱い生き物だっただろうか。


「お父さんと話したいこと、あるんだよね?」

「……うん」


落ち着け僕、全ては父さんと冷静に話し合った後だ。母さんが居ないならちょうどいい、誰にも邪魔されずに話すことができる。


僕は父さんと向かい合うように食事用の椅子に座る。赤裸々に話し合うことのできる2人だけの空間で、僕は勉強合宿中ずっと気になっていたことを質問した。



「どうして父さんは、僕を勉強合宿に参加させたの?」



桐田朱里の件、御園出雲の件、苦悶させられている時ずっと、僕はこのことが気になってしかたなかった。


「父さんは知ってるよね、僕がずっと人を遠ざけてること。友達なんていらないって思ってること。それなのに、父さんは梅雨の相談を引き受けて僕を勉強合宿に向かわせた。僕に嘘までついて」


正直、ものすごく悲しかった。父さんのことだから悪気はないのは分かってる。


でも、僕の事情を知っている父さんが、それを踏みにじるように行動したのは納得できなかった。僕の嫌がることをするような人ではない、それだけは確信を持って言える。


だから、父さんが何を考えているか今すぐに知りたかった。



「ねえゆーくん、覚えてる? ゆーくんがお父さんに友達を作りたくないって言ったとき、これだけはやってほしいって言ったこと」

「勿論、『尊敬の念を抱いたら心のままに動いて欲しい』だよね?」



父さんは、個人を遠ざけることはしても、個人を見ないことは止めて欲しいと僕に言った。綺麗な人がいれば綺麗だと思ってほしいし、尊敬できる人には敬意を払ってほしい、それが父さんの願いだ。


それを怠ったつもりはない。陽嶺高校の部活動だってそれで選んだようなものだし、自身を曲げずに雨竜に想いを向ける蘭童殿には敬意を表している。友情は否定しても感情は否定しない、僕は父さんの言葉を忠実に守ってきた。


でも、どうしてそんなことを聞いてきたんだろう。



「じゃあゆーくん、どうしてお父さんはそんなお願いをしたと思う?」



僕の質問に返答がないまま、再度父さんから質問が投げられた。頭を悩ませてしまう質問だった。


そんなこと、今まで1度も考えたことがなかった。


父さんはいつだって、僕のことを考えて行動してくれる。僕が泣いたら寄り添ってくれて、僕が笑ったら自分のことのように笑ってくれる。


友達なんて要らないって言ったときも、ずっと僕の言葉を親身になって聞いてくれた。父さんが居なかったら、今の僕は居ない。本気でそう思える。


そんな父さんの言葉を疑ったことなどない。だから、理由を言及したことはない。


僕の頭は、父さんが納得するような答えを持ち合わせていなかった。


「ヒントを出すとね、お勉強の件と一緒かな」

「お勉強……」


勉強の件といえば、少なくとも1教科は真剣に取り組むよう言われていることだろうか。理由はシンプル、勉強をしたいと思ったときにそれまで怠けていたらスタートが遅れるから。


それと一緒ということは、僕が何かを始めるために心配することがあるということ。疎かにしていてはダメなことがあるということ。


『尊敬の念を抱いたら心のままに動いて欲しい』、父さんはこう言った。勉強の件とは違って抽象的な内容、パッとイメージできるものがなかった。


逆に考えてみる。父さんの言葉がなかったら、僕が他人を見ることはなかった。他人に関心を持つこともなかった。人そのものに、興味を持たなくなっていたかもしれない。



『雪矢さんがその程度で人を嫌いになるわけないじゃないですか』



何故か僕は、先ほど梅雨にぶつけられた言葉を思い出していた。


確かに僕は、人を遠ざけて過ごしてきた。時には罵倒を交えながら行動を起こした。


しかしながら、その人たちが嫌いだったからではない。関わりたくないと思っていただけで、その人を悪く思っていたわけではない。



――――父さんのお願いが、ずっとあったから。個人を遠ざけることはしても、個人を見ないことは止めて欲しいという言葉があったから。



僕はずっと、だけはできていた。



「さっきのゆーくんの質問、僕が投げてる質問の答えとほとんど一緒なんだよ」



父さんの前置きによって、僕は少しずつ理解する。


人を尊敬することは、人に興味を持つということ。それをずっと続けるということは、人に興味を持ち続けるということ。人を好きになることと同義と言ってもいい。


だが、人に興味を持つことと人を遠ざけることが同居することは難しい。次第に遠ざけることが億劫になる。それを分かっていながら、父さんは僕にお願いをした。



全ては、父さんのたった1つの思いのために。



「お父さんがゆーくんにそうお願いをしたのはね、ゆーくんがいつ友達を作りたいって思っても問題ないようにするためなんだ」



いつも笑顔を浮かべる父の瞳が、僅かに潤んでいるように見えた。

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