第42話 許容できないこと
「はっ?」
一言一句逃さず聞いていたはずなのに、僕の脳はまったく理解を示さなかった。ただの音として、耳の中を右から左へと流れてしまっている。梅雨を恋人にできない理由を言及している途中で、話が明らかに飛躍した。
桐田朱里は今、僕に何と言った?
「えっと、聞こえなかったかな?」
冷静に1つ1つの言葉を紡いでいるように見えた桐田朱里だが、顔は朱に染まっていた。まるで、恋する乙女のように。恋する乙女が、恋している相手と話しているかのように。
「聞こえている。ただ、意味が分からなかっただけだ」
『私にも入り込む余地はあるのか』、桐田朱里は確かにそう言った。
どうして梅雨と付き合う云々の話で、そんな言葉が出てくるんだ。それだと桐田朱里が、僕と付き合いたいみたいに聞こえるじゃないか。
僕と付き合いたいから、梅雨との動向が気になって。僕と付き合いたいから、梅雨の告白を了承しない理由を聞いてくる。そう考えれば、不可解だった桐田朱里の言動にも説明がつく。
だが、それはあり得ない。
桐田朱里は、雨竜のことが好きなんだから。1ヶ月ちょっと前、僕は屋上へ続く踊り場で相談を受けた。1度は挫折しかけたが、再び相談に乗ってほしいと言われた。桐田朱里の好意は雨竜に向いているのだ。
なのに、どうしてあんな言い回しをする?
「そっか、確かにちょっと分かりづらかったよね」
元は温泉旅館だった和室の一室。桐田朱里は上げていた浴衣の裾を元に戻し、呆然と立ち尽くす僕に目を向けたまま、自分の右手を胸の上に置いた。
「私――――好きなの。廣瀬君のことが、好きなんだ」
幻聴じゃなかった。聞き間違いでもなかった。先ほどのような曖昧な表現ではなく、小学生でも分かるシンプルな言葉だった。
そしてそれは、間違うことなく桐田朱里から僕へ向けられた言葉。
「……冗談だろ?」
しかしながら、それを受け入れられるかどうかは別の話である。
何度だって言う、桐田朱里が好きなのは青八木雨竜だ。
「そうでなきゃ思い切り相手を間違えてるな、僕は雨竜じゃないぞ?」
「廣瀬君」
「それとも告白の練習か? そういうことなら受けて立とう、僕が拒む理由はな……」
「廣瀬君!」
「っ!」
桐田朱里が、強く僕の名前を呼ぶ。横道に逸れようとする僕を咎めるように、僕の言葉を遮った。
そして、
「冗談でも間違いでもない。私が好きなのは廣瀬雪矢君、あなた」
彼女は改めて、自分の気持ちを僕に向けて伝えた。
「ホントはこんなに早く伝えるつもりじゃなかったんだけど、梅雨ちゃんのことがあったから。何も言わないままでいたら、手遅れになるかと思って」
「……なんでだ?」
照れ臭そうに話す桐田朱里の言葉を、今度は僕が遮った。
想いを伝えようと思った経緯なんてどうでもいい。そんなことより、教えて欲しいことはいくらでもあった。
「お前は、雨竜が好きだったんじゃないのか? だから僕に相談したんじゃなかったのか?」
桐田朱里の主張を聞いた上でも、僕は未だその想いを信じられずにいた。
だって彼女は、陽嶺高校の伝説にさえなり得る男、青八木雨竜に恋をしていたのだ。去年の球技大会からその想いは募り、ずっと膨らみ続けてきたはず。
それがどうして、僕を好きだなんて言い始めているんだ。
「勿論、最初はそうだったよ。青八木君が好きだったから、廣瀬君に相談したんだ」
桐田朱里は軽く顔を伏せ、祈るように両手を胸元で結んでいる。
「初めはさ、相談したこと後悔したよ。とても真剣に向き合ってくれてるように思えなくてさ、青八木君のこと諦めようと思った。でも、『手紙読んだ』って青八木君に声を掛けられて、うまくいかなかったけどデートまで誘ってもらえて。廣瀬君のアドバイスがなかったらきっと、そんな展開夢のまた夢だって、思うようになったんだ」
桐田朱里から言われたことは、別に特別でも何でもない。自分がどんな人間か分かるように手紙を書き直せと指摘して、修正したのは本人だ。結局手紙の内容は知らないし、雨竜の気を引くことを書けたのも彼女の力量で、僕は何もしていない。『恋するシュリちゃん』も見せられずに終わったわけだし。
「そこから、廣瀬君にすごく背中を押してもらった。緊張して何もできない私に、何度も心強い言葉を掛けてくれた。デートのときだってそう、廣瀬君の優しさにずっと支えられてきた」
「優しくなんかない。僕はお前と雨竜をくっつけるために」
「分かってる。だからこそそれが廣瀬君の素なんだよ。誰かのためにぶつくさ言いながら動けるのが廣瀬君なんだよ」
違う、妄想だ、そんなものは僕ではない。僕は他人の意志なんて尊重しないし、僕のためだけに動いてきた。他人が、僕を知った風に語るな。
「それに気付いたらね、青八木君の隣を歩いている自分を想像できなくなった。あんなに仲良くなりたいと思ってた相手のことが、気にならなくなった」
「……」
「いつの間にか、廣瀬君の隣にいる自分を想像するようになった。廣瀬君の隣を歩きたいって思う自分がいることに気が付いた」
「……」
「最初は戸惑ったよ、あんなに奇天烈だと思ってた相手に何をって。でも、今なら自信を持って言える。私が好きなのは青八木君じゃなくて、廣瀬君だって」
桐田朱里の長い告白を聞いて、確かに僕も理解した。彼女が好きなのは雨竜ではなく僕。僕と接していくうちに、雨竜から僕へ心変わりしたのだと。
先程まで戸惑いで暴れていた心臓が、今は静かに鳴り響く。僕の頭が彼女の気持ちを受け入れ始めたからこそ――――――決して甘い雰囲気にはなり得なかった。
「……ふざけるな」
「えっ?」
ドスのきいた低い声が、部屋全体に響き渡る。
今僕の中を占めているのは、『怒り』の感情だった。
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