*1話 徒然なる日々① 千尋の旅立ち
2021年7月2日 午後13:30
――ズズズ……
何でもない市販の乾麺と市販のつゆ。一人分だけ用意した蕎麦の味は……ちょっとわさびを溶き過ぎたかな、と後悔するもの。鼻から後ろ頭に抜けるような刺激の後に、ジワッと涙が滲む感じがする。それで、少し潤んだ視界のままリビングを見渡すと、これまで当然のように置かれていた千尋の私物が無い事に気付く。
「はぁ……」
溜息が一つ。
「千尋様の新しい門出なのだ、しんみりしてはダメなのだ」
というのは、テーブルの対面に陣取るハム太の声。これまで、千尋が座っていた場所に陣取っているハムスター型造魔生物は、そこで「板わさ」を
ハムスターサイズの右手で超小型専用箸(ハム太の自作)を器用に操り、俺がハムスターサイズに切ってやった蒲鉾の上にわさびを乗せて醤油に付けて口へ運ぶ。それで、俺と同じくわさびが効き過ぎたのか「コォ~」と変な声を出してから、ミニチュアサイズの
全くいい御身分のヤツだ。
「辛気臭いのだコータ殿。吾輩まで息が詰まるのだ」
「ぜんぜん、そうは見えないけど?」
「これでも心配しているのだ。それに、こう言っては何だが、里奈様も心配しているのだ」
「里奈が?」
「そうなのだ、千尋様が居なくなったら、途端に生活がだらしなくなるんじゃないと、随分心配していたのだ」
「そんな……うん、確かに……だらしなくしてたら、里奈が来てくれるかな?」
自分で言っておいてなんだが、流石に今の発言は情けない。現に対面のハム太もジトっとした視線を俺に送って来ると、
「いや、たぶん、里奈様のお母上が来るのだ」
と言った。
その言葉に「何でだよ?」と思いつつも、「あり得るかも」とも思ってしまう。しかも、瞳さん(里奈のお母さん)が来るなら、きっと豪志先生も一緒に来るんだろうな、と容易に想像がつく。
別にあの2人(里奈の両親)が悪い人という訳ではない。ちょっと「構いたがり」な気質はあるが、それも含めて随分と良くしてもらっている。ただ、
「里奈様のご両親から見れば、コータ殿は早速家族、息子も同然なのだ」
まぁ、そういう事なんだろうけど、
「……だ、大丈夫だ。俺ってほら、一人暮らしが長かったし、自分の事くらい自分出来る。大体、千尋が居た時だって、家事の半分以上は俺がやっていたんだし」
「まぁ、そうなのだ……でも、寂しくなるのだ」
「そう……だよな」
――ズズズ
そんなやり取りで、残りの蕎麦を
*********************
5月半ばの「双子新地高架下メイズ」での事件の後、俺の周辺は公私共に少しバタバタしていた。
まず、今の状況が「そうだ」と告げるように、妹の千尋が引っ越しを決意した。この件について千尋は理由を明確にしていないが、多分俺と里奈の関係が進展したことが原因だろう。丁度6月の初め頃に
――いつまでも兄妹で一緒に暮らすのっておかしいよね――
と言い出し、それから2週間もしない内に、今回の引っ越しを決めてしまった。そして、今日の午前に最後の荷物を纏めた千尋は、マンションを後にする前に鍵を俺に渡しつつ、
――早く里奈さんに渡しちゃって――
と言っていたものだ。
そうやって、バタバタと引っ越していった千尋だが、引っ越し先で1人暮らしを再開するというつもりはないらしい。しっかりと
千尋の行く宛てとは、以前から交際を続けている節のあった通称「マー君」こと
何と言っても、マー君の実家である「深沢家」が支配する深沢商事を中心とした「深沢グループ」は、俺の前の職場「FZアメージングフード社」の大親会社でもある。実際は深沢グループの中核から見れば「子会社」はおろか「孫か
まぁ、これについては今更とやかく言うつもりも無いが、ちょっとだけ気にしてしまうのは……当然のことだろう。「人としての器が小さい」と言われるかもしれないが、自覚はある。
ただ、それよりも大きな懸念を覚えるのは、深沢雅治という人物の
俺の中での深沢雅治(又はマー君)の評価と言えば、日本有数の大企業グループの創業オーナー一家の3男坊。金と素養と実力を持ったビジネスマンかもしれないが、30歳を過ぎても、夜な夜な夜の街を遊び歩いている「うらやまけしからんヤツ」というものだ(だった)。
今は千尋に
そんな風に考えていた。
まぁ殆どが金持ちのボンボンに対する
だが、実際の深沢雅治(マー君)は意外としっかりとした男だった。というのも、千尋がマー君との同棲計画を打ち明けた翌週の休み(俺が休みなだけで、普通に平日だった)の夜、そのマー君自身が態々このマンションを訪れたのだ。
千尋を伴ってマンションに上がり込んで来たマー君は、折り目正しく
――お義兄さんに一言、ご挨拶をしなければならないと思い参上しました――
とのこと。いきなりの「お義兄さん」呼びには面食らったが、とにかく、筋を通しておこうという意図は感じることが出来る言葉だった。
対して俺は、この時点で十分に面食らっていた。なので確か「ま、まだ挨拶とか早いんじゃない?」とか、「ウチはほら、両親も居ないし、何処の馬の骨とも分からない遠藤さんだから、釣り合わないでしょ」とか、そんな事を口走った。
そんな俺のアタフタした反応にも、マー君はちゃんと受け答えしたものだ。
――形式はともかく、千尋さんと一緒に暮らすことになるのですから、通すべき筋というものがあります。お義兄さんに反対されたのでは、千尋が可愛そう、という気持ちもありますので――
とか、
――私も父の妾の子ですから、本流ではありません。それに父からは「好きに生きろ」と言質も取っています。今更兄や姉が面倒な口出しをするなんて事はありませんよ――
と言った。
その後、俺は自宅という「ホームグラウンド」でありながら、終始「マー君」に主導権を握られた感じで只々話に頷くしかできなかった。それで結局は、
――千尋が決める事だから――
という結論に至ったわけだ。ちょっとだけ「やられっぱなしで負けた」気がするが、まぁ、千尋が喜んでいたからヨシとしよう。
ちなみに、千尋が俺へ「返さなければ」と思っている「借金の肩代わり」については、これまでと変わらずに千尋が「チーム岡本」の会計係をしながら返していく、という話になっていた。これは、千尋がそうすると望んだことであり、マー君も
――そう言う所が千尋さんの素晴らしいところです――
と言っていた。金持ちな交際相手に
ちなみについでの話になるが、マー君が暮らす表参道のマンション(億ションかな)に引っ越した後の千尋は、今後マー君が新しく立ち上げる「受託業者向け会計財務サービス会社」に就職するということだ。なので「チーム岡本」の会計処理も、千尋が持ってきた顧客案件として、その会社に頼むことになる。この事について「チーム岡本」の面々には既に了解を取っているから大丈夫だろう。
また、田中興産との「ポーション買取り」に関しては、これまで通りの取引になるという話でもあった。
とにかく、そういう訳で、千尋に関する件は一気に形が出来てしまい、結果として俺は2LDKのマンションに一人残されることになった。
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