*幕間話 谷屋と牧田の奇妙な逃亡生活


***「王永民おうえいみん」改め「谷屋勝たにやまさる」視点***


2021年5月17日


 「色々あった」と一言で片付けるには余りにも色々とあったが、とにかく、結果として現在下北沢の街中にある雑居ビルの6階が当面の潜伏場所ねぐらになっている。元々オフィスビルだったフロアの半分を人が住めるように改装してある造りの空間だ(ちなみに残り半分は物置のようになっている)。


 玄関扱いの入口ドアを入ると、直ぐに簡単なキッチンを備えた15畳程度の広さのリビング(?)になり、そこから寝室使いが出来る小部屋が2つ続いている。他にはユニットバス、トイレ、洗濯機を一纏めにした小部屋もある。収納スペースこそ少ないが、2LDKの間取りそのものな住空間といえる場所だ。


 寝室に当たる部屋の1つには、外の非常階段に通じる鉄製の扉がある。そんな造りからも、この場所の意図が読み取れるというもの。まぁ、それ以前に6階建ての雑居ビルなのにエレベーターが5階までしか通じていない時点で、この場所の用途はそうと知れる・・・・・・だろう。


 薄汚れて所々めくれ上がったり破れたりしているビニル張りの床や、蜘蛛の巣がこびり付いた嵌め殺し・・・・のガラス窓、寝室扱いの部屋に備えてあった湿った布団や、詰まり易いキッチンの排水に目を瞑れば、潜伏先としては申し分がないのだろう。


 ただ、それで居心地が良いか? と問われると、素直に「良い」とは言い難い。それには幾つか理由がある。その内の一つが、


「社長~、先にシャワー使いました」


 と言いつつ、洗い髪をひとつに纏め、他は身体に巻き付けたバスタオルだけ、というあられもない・・・・・・格好でリビングに姿を現す女の存在だ。「お前には恥じらいってものが無いのか?」とは、もう何度も言った言葉なので今更だ。


「ああ、分かったからさっさと服を着ろ、それまで出てくるな」

「は~い」

「ったく」


 女の名は牧田沙月まきたさつき。日本の外事警察が送り込んで来た「2重スパイ」だが、現時点でそちらの方面へ連絡をとるような様子はない。どういうつもりなのか気になって訊いたところ、


――信用できないから――


 だという。なるほど、と思ったものだ。


 実はも何も無い・・・・・・・。この国の外事警察(公安)は或るレベルで、私の元鞘といえる組織(統合情報参謀本部)と繋がっている。外国の諜報活動に対してほぼ無防備な法整備しか持たない(持てない)国だからこその苦肉の策。他国では考えられない話だが、或る程度機密情報を融通し、秘密の交流を保つことで、最悪の事態にならないようコントロールする。それがこの国の外事警察の在り方だ。


 もっとも、そんなふざけたチャンネルは、本来なら私程度が知り得ない上位レベルに存在する。恐らく政治家レベルの話だろう。その上、そんな馴れ合いが有る事は厳重に秘匿されている。私がそれを知っているのは、父の代から長年に渡りこの手の仕事に携わって来たからだ。これまでの活動過程で、否が応でも、そんな「秘密の交流」を察知せざるを得ない場面が幾つかあった。ただ、「触れてはいけない部分」として口を噤んで知らない振りをしていた。


 牧田沙月という女は、独特の嗅覚でそれを嗅ぎ取ったという訳だ。存在が露見してしまった「2重スパイ」の身柄など、何かの交渉における丁度良い取引材料でしかない。勿論、安全が確保される場合もあるだろうが、その確証がない以上、他に身を寄せる術が有る内は「頼れない」「頼らない」という判断なのだろう。


「目端の利く女だ」


 ボソリと独り言が出るが、私の牧田沙月に対する評価はそんな感じだ。その上、いざという時の度胸もある。千葉の倉庫からの脱出劇の最中、牧田は落ち着いた振舞いをしていた。今も隠れ家暮らしに順応しきっている。まぁ、本人に言わせれば、


――売春恐喝をヤクザに仕掛けてしまった時を思えば、これくらい――


 という事らしい。一体どういう人生を歩んで来たものやら、と思わないでもないが、それはそれ、変な同情は禁物だ。少しでも心を動かせば、たちまち思い通りに操られる。そんな一種の怖さを感じる。現に今も、


「ねぇ社長~、私ってそんなに魅力ないですかぁ?」


 一旦部屋に引っ込んだはずの牧田は、再度リビングに戻って来てそう言う。洗い髪を無造作に垂らし、薄手のキャミソール一枚という姿。美しい身体のラインを隠そうともせず……というか、下の方は完全に見えている。そんな状態で、リビングのソファに腰掛ける私ににじり・・・寄って来るのだから、全くたちが悪い。


 視線のやり場に困って顔を背けると、そちらの方に回り込んでくる牧田。今日はちょっとシツコイ。


 まぁ、牧田としては父親違いの妹金元恵の安全を既に確保した気・・・・・・・になっているのだろう。だからこそ、これまでの緊張の反動として、余計に開放的な態度を取っているのかもしれない。私としてもその心情は分かる。というのも、私自身、それなりに我慢を重ねているんだが、なんというか、もうそろろ……


「まだ、枯れちゃう歳じゃないでしょぉ?」

二十歳はたちそこそこの小娘を相手にする歳でもない」

「また、そんな風に言って」

「いいから、引っ込めろ! いい加減、私も我慢の限界だぞ」

「我慢……しなくてもいいのに」


 そう言うや、牧田はソファの私に身体を預けるようにしなだれかかる・・・・・・・と、そのまま体を押し付けて――


「失礼しま~す! 谷屋さん、夕飯買ってきましたぁ!」


 とここで、入口ドアの方からそんな声がした。声の主は田中の部下の市川という男。


「あぁ、スマナイ! 今行く!」


 私は、市川の声にそう答えると、牧田の身体を押し戻し、一度だけゲンコツをする振りをする。それで牧田は、


「――きゃっ」


 と冗談めかして頭を庇って見せ、後は自分の部屋に戻って行った。その後ろ姿、歩くたびにプリプリと揺れる左右の丸い物体に……私の我慢も限界が近い事を悟ってしまった。


*********************


 居心地が良いかと問われると素直に「良い」とは答えにくい。その理由の一つは牧田沙月の存在だが、もう一つの理由は、今も弁当を差し入れてくれる田中の心遣いだ。そもそも、この隠れ家は田中の本拠地である雑居ビルにある。3階にはヤツの事務所があり、4階も5階も何等かの関係がある会社(?)が事務所を構えているビルだ。


 そういう場所を隠れ家として提供してくれ、3食欠かさず飯の手配もしてくれる。その上、市川とは別の中年女に日用品の買い出しなどもさせている。勿論対価としてそれなりの金は取られているが、それ以上の何かが有る訳ではない。


――それが田中という男だ――


 と言ってしまえばそれまでの事だ。


 これまで間接的に対立することの多かった相手が、これほど度量の深い男だとは思わなかった、と感嘆するばかり。ただ、本来なら全身全霊、平身低頭に感謝するべきところだが、中々この歳でそうする事・・・・・が難しく、それが我が身の事ながらもどかしく・・・・・感じられる。


 田中の方も、別に恩着せがましく感謝の態度を求めてくることは無い。これが、逆の態度なら、割り切って上辺だけでも感謝して見せるのだが、そうでないからこそ、居心地が悪く感じてしまう。この期に及んでは贅沢な話だという自覚はある。


 もっとも、田中の側に何も得るモノがないかと言えばそうではないらしい。その事は、私達がこの場所に逃げ込んだ時に田中の口から明かされている。


 5月12日に千葉の倉庫で襲撃を受けた後、私達は本来の行先を誤魔化すべく、東北方面から信越方面に向けて逃走を続けた。途中、高速道路のサービスエリアで朴木太一の【収納空間】にトラックを隠すと、徒歩で国道へ向かい、そこで収納されていた別の軽自動車を取り出し、それに乗り換えた。自動車を収納し、別のを取り出し、それに乗り換える、という事を4度繰り返したものだ。


 その後も念入りに痕跡を消しつつ、北陸方面まで出た。北陸に向かったのは、そこに私の個人的な秘密の拠点があるからだ。纏まった現金を保管していた場所でもあるので、そこで現金を回収し、今後の逃亡に役立てるという意味もあった。現金を回収した後は、新幹線で高崎へ向かい、そこから在来線を乗り継いで東京に戻った。


 その間、朴木は「信頼できる」というクランメンバーと2度ほど連絡を取り合っていた。私としては「危ない行為」だと思ったが、朴木は「大丈夫だ」と言った。連絡相手は例の「クランを抜けたがっている新入り」とのこと。まぁ新入りなら「統情四局」もそれほど関心を払っていないかもしれない。特に、この方面を任せていた張1級工作員は、用心深い男だが端々にまで気が行き届くタイプではない。隙が出来ているのだろう。


 ちなみに、朴木が連絡を取っている相手は「手島」という男らしい。それで、その手島が田中修と話をつけて、晴れて私達3人は下北沢の田中興業事務所に転がり込む事になった。5月15日の真夜中の事だ。


 そこで田中から聞いた話は、


――「赤竜群狼」クランから人材を引き抜く事で弱体化を仕掛けようとしていた――


 というもの。引き抜きを仕掛けるに当たり、トップメンバーだった朴木と金元を手元に引き込む事が出来ればとても効果的だ、という打算があるとのこと。まぁ、打算半分、後は「助けてください」と頼まれて仕方なく、が半分と言ったところか……何となくの印象だが、多分正しいだろう。


 現在、朴木は神奈川県川崎市にあるメイズに居る。5月15日の深夜にこの隠れ家に転がり込み、翌16日の早朝、息つく暇なく出て行った。勿論、メイズの中にとどまっている金元恵を田中の本拠地であるこのビルに連れ戻すためだ。もっと長丁場になると思って仕入れた食料品は大半が無駄になるが、そんな事はどうでも良い。田中と話が付いたのだから、メイズの中に留まる理由はなかった。


 一方、手島という男を始めとしたクランを抜けたがっている下級PTの一部は、引き続き「赤竜群狼」クランの中に留まっている。朴木と金元が無事戻るまでの間、


――もしも変な動きがあったら報せるため――


 だという。危ない役割だと思うが、手島という男はそれを受け入れたとのこと。どうも田中に対して何か恩なり因縁なりがあるような話しぶりだったが、まぁそこまでは私の知るところではない。


「社長、さっきからお箸が止まってますよ。もしかして具合が悪いんですか?」


 牧田の声で私は現実に引き戻された。見れば、テーブルを挟んで正面に座る牧田が少し心配そうな視線を私に向けていた。「枯れた」とか何とか言われたばかりなので、妙に年寄り扱いされた気がしてムッとする。


「次からは、もっとアッサリした物に変えて貰いましょうね」


 まぁ、2日連続で夜が「デミグラスチキンカツ弁当」だから、確かにアッサリした物を食べたい気にはなるが……それを認めると更に年寄り扱いされそうで、私は、


「大丈夫だ、これも結構いける」


 と強がって一気に弁当を掻き込む風を装った。


「若いじゃないですか」


 と言う牧田の声が妙になまめいて聞こえた気がした。


 ちなみに「手島」が異変を報せて来たのは翌日5月18日の午前の事だった。



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