*12話 妹からのSOS!


 千尋が指定した場所は小田急小田原線下北沢駅を出て20分ほど歩いた先、住宅地と商業地が混在した一画のビル1階にある喫茶店だった。店は相当に古く、辛うじて喫茶という文字は見えるが、店名を書いた看板は赤錆が浮いて文字が読めない状態だ。


「……」


 少し、いや、かなり緊張しているのを自覚できる。その喫茶店の佇まいが、とても今年21歳になる千尋が好んで待ち合わせに指定する場所とは思えないことも理由だが、


『千尋さんのお兄さんですか、実は千尋さんが少し困った事になっておりまして、是非ご相談したい事があるのです』


 と、千尋に次いで電話口に出たいかつい男の声も原因だった。


『大切な話ですので、直ぐに来てください』


 有無を言わせないその調子は、一般人の俺でも明らかにその筋・・・の人だと分かるような迫力があった。どう考えてもトラブルの予感しかしない。


 しかし、母が亡くなって以来、いつの間にか連絡が取れなくなっていた千尋が助けを求めてきた。少し前に言われた瞳さんの


――お兄ちゃんでしょ、しっかりなさい!――


 という言葉を借りなくても、たった一人の肉親、兄として妹を助けなければならない。そう内心で繰り返し、俺は勇気を出して喫茶店に踏み込んだ。


 軋み音を立てる入り口扉。照明が抑えられた店内は暗い。染み付いたタバコの臭いとコーヒーの香りが混ざり合い、独特の空気感を醸し出している。だが、間口が狭く奥行きも無い店内で、一人きりの客である千尋とおぼしき女性を探すのは難しい事ではなかった。


「お兄ちゃん!」


 入口を背にしてボックス席に座っていた千尋は、物音に気付くと振り返り声を掛けてきた。控えめな照明の下でもそれと分かる金髪に近い茶色に染められた髪と、目元を強調するようなメイク。服はテカついた生地のキャミソールとフレアスカートの上から丈の長いニット編みのカーディガンを羽織るというもの。いかにもギャルっぽい雰囲気の千尋の姿が目に飛び込んで来た。


「千尋、一体どうしたんだ?」


 俺は、出勤前のキャバ嬢のような千尋の恰好はとりあえず脇に置いて、そう言いつつも足早にボックス席へと急ぐ。すると、


「お兄さんの遠藤公太さんですね、こちらへ、お掛けください」


 店の奥からそんな声が上がった。電話口の厳めしい声の男だろう。声の雰囲気そのままの強面な表情で、男は席に座るように促してきた。


「い、一体、千尋がどうしたっていうんですか?」


 出た声が上ずっているのが分かる。しかし、そう訊かずにはいられない。


「説明しますので、お掛けください」


 対して男はそう促すのみ。一方、俺の背後にはいつの間にか店の扉を塞ぐように一人の若い男が立っていた。退路を塞がれた格好となった俺の耳に、


「お兄ちゃん……」


 と心細そうな千尋の声が届く。これ以上千尋を不安にさせられないと、俺は覚悟を決めてボックス席に腰を下ろした。


**********************


 田中と名乗った40代半ばの厳つい声の男が言うには、千尋の抱えたトラブルは金銭問題だった。なんでも、恋人の借金の連帯保証人になったものの、その恋人が返済を最初から踏み倒して行方をくらましたらしい。それで、貸し元から債権回収を請け負った田中が乗り出した、という訳だ。


「この界隈ではよくある話だ……借金の連帯保証人なんて親に頼まれてもやるべきじゃねぇんだよ」


 それを職業にしている田中が言うのも変に聞こえるが、その時の田中は明らかに不機嫌そうに、そう吐き捨てた。そして、


「とにかく、連帯保証人として署名してハンコをついちまった以上、この500万は千尋さんの借金だ」


 と言うが、そこで千尋が半分泣き声のような声を上げた。


「私があつしから聞いていたのは300万です、なんで500万になっているんですか!」

「だから、何度も言っているだろ。貸借契約書には500って書いてあるんだよ」


 口ぶりから、これまで何度も同じやり取りをしたようだ。いい加減呆れたような口調の田中は、そう言うと薄いブリーフケースから一枚の書類を取り出す。フリーローンの申込み兼契約書のようだが、確かに、借入金額の欄には500万円と手書きされている。そして、連帯保証人の欄に千尋の署名と捺印がしっかりあるのも事実だった。


 いや、それにしてもこの契約書……金額もアレだが、返済条件もえげつない。月半ばと月末に夫々12万……つまり毎月24万円を24ヵ月で返済することになっている。利息率は多分5%前後で一見すると条件が良いように見えるが、返済期間の短さから普通に働くサラリーマンでも返済しきれない条件だろう。


「なぁ千尋……お前、この契約書、読んでからハンコ押した?」

「……ごめん、なさい……」

「はぁ……じゃぁ、その恋人との連絡は?」


 無言で首を振る千尋……


「どんな奴なの?」


 俺の問いに千尋はポツリポツリと説明を始めた。曰く、名前は手島敦てしまあつし、21歳の大学4年生。千尋が働くキャバクラの同僚の友達の友達として紹介され、今年の4月頃から交際を始めたらしい。それで、今年の6月中頃に借金の連帯保証をお願いされた、とのことだ。


 付き合い始めて2か月。俺には異性と交際した経験は無いが、相手のあらが見えだす前の一番ラブラブな時期なのだろうと想像できる。若い千尋は、深く考えずに引き受けたのだろう。兄としてはそもそも妹がキャバクラで働いていること自体にも忸怩じくじたる思いはあるが、打ちひしがれた様子の千尋に追い打ちのような言葉を発する気にはなれなかった。グッと堪える。


 ちなみに、その手島という男が借金をした理由だが、千尋が聞いた話では、


「なんかバイトしていた洋食レストランで、バイト中の動画をSNSにアップしたのが原因で、お店を運営している会社と揉めてるって。それで、示談金を払うためにお金が必要だって、それで、私……最低よ……」

「……そ、そうか……大変だったな」


 思わず眩暈を感じる。それ、お兄ちゃんが勤めていた会社で、しかも解雇された原因の一つだよ……とは、流石に言えない俺である。


 それにしても、名前すら憶えていなかったあのバイト連中の中の一人が千尋の彼氏だったとは想像すらしなかった。しかし、そうすると、俺が聞いた示談金は一人当たり300万円だったはずだ。残り200万は何処へ行った? 


**********************


 その後、泣き出した千尋を宥めつつ田中と話をした結果、千尋が連帯保証人となった借金500万は既に5回も返済を怠ったため、即時返済を求められる状況だと分かった。これを田中の執成とりなしによって一時的にいさめたとしても、厳しい返済条件なのは変わらない。


 そこで、まずは何とかこの500万を一度返済し、もっと条件の良いローンが組めないかという借り換えを検討するのだが、


「そうか、お兄さんは今無職か……じゃぁ銀行系は無理だな……」

「どうもすみません」


 と田中が唸り、俺が謝る結果になってしまった。


 ただ、今日これまでの話し合いで、俺はこの田中という人物に「借金の取り立て屋」に対して持つような偏見的な印象ステレオタイプとは別の印象を感じていた。声も顔も怖いのだが、何と言うか、親身になって考えてくれる、という一種の温かみを感じてしまったのだ。例えば、こんな場合に容姿の優れた若い女性が手っ取り早く稼ぐ手段について、田中は一度も匂わせる事すらなかった。その事ひとつをとっても、もしかしたら田中は所謂いわゆる[取り立て屋]とは一線を画するのかもしれない。


 もっとも、これがこの男の手口なのか、それは分からない。しかし、取りつく島・・・・・が幾らかでもあるのなら、ダメは元々で言ってみるのは良いかもしれない。


「すみません田中さん、こういうのが通る話・・・なのか分かりませんが――」


 と切り出す俺は、覚悟を決めて言葉を続ける。


「貯金……200万あります。それで一部を返済して、残りをもう少し緩い返済条件にしてもらうことは出来ますか?」


 俺の言葉に田中は一瞬だけ表情を動かした。なんというか「驚いた」という風に見えた。だが、それも一瞬のことで、直ぐに厳めしい表情に戻ると探りを入れるように訊いて来た。


「……結果は約束できないが、話は聞いて貰えると思う……しかし、良いのか? お兄さん、無職なんだろ。それに、この話をしておいて、やっぱり止めます出来ませんってのは……かえって身のためにならないぞ」


 おどすようでもあり、念押しするようでもある。そんな田中の言葉に俺は「お願いします」と頷き掛けるが、その時、不意に隣の千尋が声を発した。そして俺は、その言葉の内容に頭を殴られたような衝撃を感じる。


「私が悪いんです! お兄ちゃんも大変なら頼れません。いいです、私がソープでも援交でも、何でもやって返します!」


 ……いや、だからそれをさせない・・・・・・・ようにだな、お兄ちゃんは無一文になる決心を……と、急な千尋の発言に言葉は直ぐに出ないが、頭の中ではそう考える。しかし、俺が頭で考えた言葉を口にするよりも、ずっと早く、


「バカヤロウ!」

 

 とビックリするような大声で怒鳴ったのは……田中だった。元々強面の顔に青筋を立てて怒る様子は……鬼瓦のように見える。


「お前さん、お兄さんが店に入ってきてアンタの姿を見た時の表情に気付かなかったのか? 彼氏の連帯保証をホイホイ受けた話を聞きながら、ずっと奥歯を噛み締めていたのに気づかなかったのか? 無職だってのになけなし・・・・の身銭を気持ちよく払うって、その意味が分からないのか!」

「ちょっと、社長――」

「うるせぇ、お前は引っ込んでろ!」


 興奮して捲し立てる田中に、見張り役(?)の若い男が止めに入るが、逆に一喝されてしまう。


「大体な、身体を売って金を稼ぐなんてのは、最後の最後の手段なんだ。風俗ってのは便利に金が稼げる打ち出の小槌なんかじゃねぇ、地べたの更に下に落ちる一歩手前なんだ。そこから落ちるのは簡単だが、這い上がるのは並大抵じゃねぇ泥沼だ」


 不意に始まった田中の剣幕に、俺はポカンとしてしまうが、隣の千尋もポカンとしている。こういう時、兄妹だって分かるんだね。


「いいか、頼れる肉親が居るなら頼れ! 申し訳が無いと思うなら、これから頑張れ! 今回の事は高い授業料だが、お兄さんのお陰で何とかなる、俺が請け負ってやる。だから、お兄さんを悲しませるような事を言うな、分かったな!」


 最後にグッと凄みを利かせる田中の眼光に、千尋はコクコクと頷くだけだった。


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