*4話 もう、訳がわかりません!
振り返った時には、犬はもう階段の降り口付近まで近づいていた。愛想の欠片もない凶悪な形相で尚も疾走している。改めて見ると、その姿こそ犬に似ているが、顔つきは限りなく狂暴だ。しかも、開いた口から覗く牙は、とても犬の物とは思えない。まるで
俺は咄嗟に階段の残りの段数と犬との距離を見比べる。どう考えても、登り切る前に後ろから襲われる距離感だった。どうする? どうしようもない状況だが、どうする、公太?
――素手の人間が勝てるのは精々が中型犬までだ。大型犬だとまず勝てない――
その時、ふと脳内にそんな言葉が再生された。声の主は
――だから、逃げられるなら、逃げるべきだな――
うん、参考にならん。だが、あの時はその後に、
――ただ、どうしても逃げられないなら、とにかく手近にあるものを武器として使うことだ、人間の強みは武器を使えることだ――
という、話題の趣旨である「素手で」の部分を無視した話になり、その後は[健康増進]と「護身術」を標榜しつつも妙に実戦的な心然流らしく、身の回りのどういう物が武器になり得るか、の話になった。
――両手で使えて間合いの長い物や、片手で振るえて打撃力のある物は、中途半端な刃物より、よっぽど扱いやすい――
ということだった。そして、
――訓練された軍用犬や相手が群れでも無い限り、それを振り回して大声でけん制すれば、犬なら大抵は攻撃を諦める。もっとも、熊とかなら話は別だぞ。そもそも、そんな動物が出る可能性のある所に無防備で行く方が悪い――
という締め括りだった。ちなみに当時の俺は、豪志先生の答えをそのままレスしたのだが「武器使ってるじゃん」「スレタイ嫁」「厨房乙」と馬鹿にされ、千年ROMることになった。以来ネット掲示板はROM専だ。
そんな過去の記憶を咄嗟に思い出した俺は、今、自分が持っているフライパンに目をやる。[IH対応28cm平底テフロンフライパン(1,680円)]……行けそうな気がしてきた。錯覚かもしれないが、自分を奮い立たせる意味でそう信じた俺は階段の下へ向き直る。犬は後2歩で階段の一段目に足を掛けるという位置。近づいて来た鼻先に一発お見舞いしてやろうと、俺は右手のフライパンをテニスラケットのように振りかぶる。
当然だが、この時俺は自転車を支えた状態で階段の途中に居た。その状況で片手を離して回れ右をした結果、自転車は俺の手を振り切って重力に従い下へ、つまり犬の方へ階段を滑り落ちていくことになる。
「あ……」
と言った時には、勢いを付けて階段へ突進する犬と階段を滑り落ちる自転車が、丁度階段の一段目で衝突していた。犬の方は咄嗟に自転車を避けようとしたのだが、跳躍直前の後ろ脚を自転車の後輪に引っ掛けて、結果的に中途半端な跳躍となる。そこへ、階段を下りて勢いを付けた俺のフライパンボレーショットが炸裂した。
――ゴンッ
犬の鼻先は弱点だそうだ。その弱点を安物IH対応の重たい底を持つフライパンで強打されたのだから、犬はギャンとひと鳴きして着地も
だが、この時の俺はどうも幸運に恵まれていたようだ。日中突然のリストラという不幸を受けた俺に対して、運命の神様が何とか今日中に帳尻を合わせようとしたのかもしれない。どういう事かというと、犬と階段を転がり落ちる途中、フライパンと階段の間に挟まれた犬の頭部が転がる度に、
――ゴキッ、ミシッ、メキッ
とやばい音を上げ、コンクリの地面に達した時、明らかに
――ボキッ
という音を立てたのだ。
**********************
「助かった……」
再び散乱した荷物と更にボロボロになった自転車を眺めて、階段に腰掛けた俺は、フ~とひと息吐いてそう漏らした。流石に身体の節々が痛い。肘には擦り傷が出来て血がにじんでいる。ジーンズに隠れて分からないが、膝頭も同じようなものだろう。背中の打撲は息をするたびにズキンと痛んだ。
一方、犬の死体は先ほど同様に少し時間が経つと薄くなって消えていった。しかし、その後にはガラス玉のようなものが残ることは無かった。
肉体面と精神面の両方で疲れてしまった俺は、それでも重くなった腰を地面から引っ張り上げる。先ほどのようにまた[犬]が現れないとも限らない。この際、自転車と買い物した品は一旦ここに置いて行こうかとも考えている。
「安全第一だよな……」
そういう事にして、俺は階段を手ぶらで登ろうとするが、その前に念のためもう一度周囲の空間を見渡すことにした。すると、階段の左側の壁の一部が先ほどと少し違っている事に気が付いた。先ほどまでは切れ目のないひと繋がりの壁であったか所に、奥へ続くような通路を見つけたのだ。ちょうど、さっき倒した犬が現れたのもこの通路からかもしれない。
「……」
普通の感覚ならば、そんな怪しい場所に近づく必要は無いだろう。しかし、この時の俺は何故かその通路に吸い寄せられるように近づいていた。疲労から冷静な判断を失っていたとしか思えない。しかし、そもそもそんな判断が出来ない俺は、何の疑いも無く通路の奥へと足を踏み入れる。
「狭い」
ザックリ言うとそんな感想だ。通路は先が3mほどで行き止まりであった。しかし、その行き止まりには、足の長い燭台のような台が一つ設置されており、その台の上には、先ほど見つけたガラス玉よりも更に一回り大きなガラス玉が
このガラス玉は
「……つっ」
歩み寄った俺は、無自覚にそのガラス玉へ手を伸ばしていた。そして指先がガラス玉に触れた瞬間、冬場の静電気のようなピリッとした痛みが走る。反射的に手を引っ込めるが、その動作をよりも早く、台の上のガラス玉が俺の
「なっ?」
思わず声を上げる俺。気が付くとそのガラス玉を手に握っていた。そして次の瞬間、
――魔坑核取得により、スキル【能力値変換Lv1】を習得しました――
という
「え、え? ……え?」
訳が分からない。そもそもそ頭の中に
「魔坑核? スキル? 能力値変換? ……イカン、だいぶ疲れているみたいだ」
そう思った瞬間、
――ゴゴゴゴゴォ
轟音を上げて天井と壁が崩れる。完全に逃げ遅れた。もうどうにもならないが、俺は反射的に身体を庇うようにその場にしゃがみ込んだ。そして、今度は本物の眩暈を感じる。
「……地下道?」
気が付くと、俺は線路を潜る地下道の真ん中辺りにしゃがみ込んでいた。周囲にはボロボロになった自転車と散乱した買い物袋の中身がある。消えたと思った蛍光灯の照明は何事も無かったかのように点灯している。
「……か、帰ろう」
辛うじて口を衝いて出た言葉は、そんなものだった。
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