*序(中)話 地下空間構造に関する特別措置法(通称メイズ法)成立①
2020年7月 東京都千代田区民自党本部ビル
「これで肩の荷が下りたよ」
「長い間、お疲れ様でした」
近代的なオフィスの役員室のような佇まいを持つ一室で、応接セットのソファーに相対して座る二人の男は、さも大儀な事を成し終えたような声を発する。先月の通常会期末に行われた衆議院解散とそれに伴う衆院議員選挙の
「飯沼総理、これからは貴方が主役だ」
二人の内、部屋の奥を背に上座に座る老齢の男がそう声を掛ける。対して飯沼と呼ばれた男は苦笑いを浮かべながら、
「首班指名を受けていません、まだ貴方が現職ですよ、大越総理」
と返す。
今回は色々と異例づくめであり、解散選挙後の特別会に於いて首班指名選挙を行い、総理大臣を交代しようという試みなどは、その最たる例といえるものだ。その点を暗に指摘する飯沼の言葉に、大越総理は肩をすくめる身振りを返した。
もっとも、飯沼の言葉に反して、彼が首班指名を受けることは確定事項になっている。根回しは随分と
それでも、歴史の長い民自党では次の総裁と内閣総理大臣を兼ねる人物を選ぶ際に「待った」を掛ける挑戦者が現れるのが常である。しかし、今回に限っては、そんな冒険をする者は現れなかった。
「まぁ……自分で言うのもなんですが、この状況で総理をやりたい方はいないでしょうね」
「ハハハ……そういう面では君に済まないという気持ちもある、本当だぞ」
「分かっていますよ。しかし、こんな時でもなければ世襲のバックボーンを持たない私に総理のお鉢が回ってくるはずはないです。寧ろチャンスと思っていますよ」
穿った物言いをする飯沼にひとしきり笑いで応じた後、大越総理は視線を鋭くして言う。
「確かにギャンブルめいた賭けの要素はあるが、今後の日本を左右する重大な舵取りの場面だ」
先ほどまでの少し冗談めいて
大越総理の言をまたずとも、現在の日本は内外に多くの問題を抱えている。拡大傾向にあった世代間格差や、それを原因とする少子高齢化の深刻化。増大する社会福祉を補うため、景気後退を承知の上で断行しなければならない増税政策。弱含んだ経済に追い打ちを掛けるかのように流行する新型ウイルスの影響は報道されている以上に深刻な状況を呈している。
また、外に目を向けてみれば、領土的な野心を隠さなくなってきた隣国への対応や、米国大統領が選挙を睨んで再燃させ始めた幾つかの
しかし、それらは全て既知の問題であり、日本国の首相をやろうという人物なら受けて立つ気概を持って然るべき問題だ。だが、現実には飯沼と大越が言うように、首班指名に「待った」を掛ける者は現れなかった。皆が様子を見ている、今後数年の趨勢を窺っている、そんな空気が党内に蔓延しているのだ。
そんな党内の空気が、既知の問題とは全く異質で前例の無い問題に起因していることは明らかだ。その問題への対処、いや対処だけでなく、一歩先へ進めて利用しようという野心的な法案が、先の通常会で強行採決され続く衆議院解散の大義名分にもなった[地下空間構造に関する特別措置法]と呼ばれる法案である。
「メイズと呼ばれる地下空間から採取される品々が今後の産業と経済を変える……第5次産業革命の本命と目されたバイオテクノロジーが生命倫理の壁に阻まれるなか、この視点で問題に取り組み続けた君の努力と慧眼には敬意を持っている」
大越総理はそう言うと鋭い眼光を弱め、テーブルの湯飲みを手に取る。そして、ひと啜り茶を口に含むとゆっくり呑み下してから言う。
「立法という道は私がつけた、そこに肉付けをして運用し、この国を活性化させるのは君の仕事だ。幸いにして野党の連中は今回の選挙で死に体、マスコミも無理な野党推しの反動で意気消沈している。今なら多少の無理は押し通せるだろう。勿論私も全力でバックアップする」
「……ありがとうございます」
大越総理の言葉に対する飯沼の返事は力強いものだった。
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2016年の春から夏にかけて、世界的に大都市部直下を震源としたごく弱い地震が多発したことがあった。地震が同時期に多発すること自体は珍しい出来事ではないが、断層もプレートも全く異なる遠く離れた場所で、しかも大都市だけを狙い撃ちにするような地震が同時に多発することは前例の無い現象であった。しかしながら、地震の規模は極めて小さく、耐震技術が遅れている国では被害が出たものの、殆どの国では被害らしい被害は確認されなかった。そのため、この出来事は一部の地質学者や地震学者を除き早々に人々の記憶から消え去っていた。
しかし、その後全世界の人々を驚かせる事象は文字通り地下で進んでいた。
日本政府は、米国から防衛省経由で
その情報によれば、どの地点に現れた[大穴]も外観は全て同じ約33フィート(10m)で、円形の穴の周囲を不思議な文字が刻まれた古い花崗岩のような
これだけならば、何が理由で[防衛上の警戒情報]扱いなのか分からない。誰かの成した手の込んだ悪戯にしか見えない。事実、この情報に最初に接した当時の防衛大臣は、理解に困り首を傾げたものだ。だが、その反応は情報の残りの部分と添付された動画ファイルに目を通すことで、大きな驚きへと変わっていた。
――[大穴]内部に極めて敵対的な存在を確認し、調査に派遣された州兵部隊は戦闘を余儀なくされた――
――投入された部隊の損耗率は34%に及び、この中には戦死者が6%含まれる――
――排除した敵対存在の遺骸は戦闘終了後消滅。幾つか残った物体をサンプルとして回収した――
一方、添付されていた動画ファイルには[大穴]の内部で撮影されたと思われる5分程度の動画が収められていた。その内容は薄明るい洞窟のような場所で二十人前後の米兵が一か所に集まり、画面奥に向かって必死に小銃を発砲している光景が映し出されていた。音声はカットされているが、明らかに動揺して何かを叫ぶ兵士の姿が見られた。その直後、画面の奥から手前に向かって複数の
――日本にも同種の[大穴]が出現している可能性がある。速やかに調査を行い、結果の情報共有がなされることを要請する――
動画と翻訳文章を映し出したスクリーンを前に、臨時招集された国家安全保障会議の面々は唖然とした表情と共に沈黙せざるを得なかった。
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