第9話 想い
皇帝陛下の言葉通り、第三皇子の婚約披露の宴が開かれることとなり、準備が始められた。
「本当にこれで良いのかしら」
数ヶ月前の自分が全く想像していなかった今の状況と怒涛の展開に面食らうばかりだったアリアナは、今更ながら少々不安になっていた。
テオドールのことはもちろん嫌いではない。家族を亡くしたアリアナにとって、今では誰よりも近くにいて支えてくれる存在だ。その隣は居心地が良く、安心して気を抜くことができる。
離れたくない。
それが恋愛感情なのかは正直よく分からないけれど、このまま近くにいたい、居させてほしい。それが今のアリアナの心からの願いだった。
でもテオドール様はどうなのだろう?
『嫌ならいつでも解消してくれていい』。確かあの時そう言われた。嫌ではない。でもこのまま解消しなければどうなるのか。あの方はどこまで本気なのか。うやむやなまま進んでしまって、取り返しのつかないことにならないのか。
それに、皇帝陛下や皇妃様までもがブレーキをかけることなく話を前に進めていることが、アリアナには信じられなかった。
国政を考えたら、もっと条件の良い相手はいくらでもいるでしょうに。
テオドールは見目も悪くない。青みがかった銀の髪は月明かりに照らされた水面のように涼やかだし、紫苑の瞳も仄かに気品があって美しい。目鼻立ちもスッキリと嫌味なく整って、実際の年齢よりも若々しく見えた。
体格は少し華奢だと言われるぐらいの細身で背はアリアナより頭一つ分高く、目立って長身というわけではないがアリアナには丁度良く見えた。はっきり言ってしまえば、テオドールの外見はアリアナが一目惚れしてもおかしくない程だった。でもそれは恐らく多くの女性達が同じように感じるだろう。
言動がストレート過ぎて外見と少々合っていない気はするし、確かに一風変わった皇子だとは思うけれど、性格が悪いわけでは決してない。我こそはと名乗りを上げる良家の娘はいくらでもいるだろう。視察の旅を続けていたという皇子は今まで皇都ではあまり良く知られていなかったのかも知れないが、腰を落ち着ければ変わってくるに違いない。
――以前のテオドールを知らないアリアナは、テオドールが変わった理由を良く理解していなかった。それがどれ程大きな変化だったのかも。
「宴を開いて大々的に婚約のお披露目などしてしまっては、引き返せなくなると思うのだけど……」
その独り言を聞きつけたミリアが驚いた顔をした。
「アリアナ様はお嫌なのですか?」
「そうではないわ。でも、テオドール様はこれで良いのかと思って。もっと条件の良い方はいくらでもいるでしょう? 皇帝陛下の方から祝いの宴をと言ってくださったのが不思議で……」
「テオドール殿下はいつも直感を大事にされる方ですから、条件の良し悪しなど考えたこともないと思いますよ。皇妃様が以前『テオドールの感は良く当たるのよ』と仰っているのを聞いたこともあります。皇帝陛下も皇妃様も、テオドール殿下が望むなら、よほど大きな問題がない限り反対されるおつもりはないのではないでしょうか?」
反対しても無駄だし、とはミリアは言わなかった。
よほど大きな問題……私は結構大きな問題を抱えているように思うけれど、帝国にとっては些細なことなのだろうか、とアリアナは思っていた。
「それに何より、皇妃様もアリアナ様をとても気に入っておられるご様子ですし」
確かに、皇妃様もとても優しく接してくれる。時折お茶に呼んで、困った事は無いか、気になる事は無いかと尋ねてくれる。初めのうちは息子の話を聞きたいのだろうと思っていたが、それだけではない。本当にアリアナの様子を気にかけてくれている事は、言われなくても伝わってくる。
「――でも私が不思議なのは」
ミリアが続けた言葉にアリアナは顔を上げた。
「イルカリオス様のお屋敷にアリアナ様をお迎えに上がった時、殿下はお屋敷に着く前からアリアナ様を想っていらっしゃるご様子だったんですよね……」
「え?」
「気のせいかも知れません。良く分かりませんけれど、私はてっきり、お二人は以前にお会いしたことがあるのだろうと思っておりました。そうでないのなら、何かお告げでもあったんですかね?」
そう言いながらミリアはフフフと笑った。
なんだろうそれは。あの時より前に会ったことはないはずだ。ヒプロス王家でアリアナだけが生き残った話は皇族として聞き及んでいただろうから、物語の中の人物に恋をするようなアレだろうか。
だとすると、実物を見て幻滅するなんていうこともあり得るが、今のテオドールの様子ならその心配はなさそうだ。テオドールの気持ちが同情の域を超えるものなのかは分からないけれど、恋愛までは行かずとも親愛の情は充分に感じられる。そのぐらいは自惚れても良いだろう。
でも、それでは足りないのだ、と思う自分がいる。
十六歳の少女が幸せな結婚に対して普通に抱く憧れの気持ちと、本当に自分は望まれているのかという不安、気持ちの整理が追いつかないうちに引き返せないところまで行ってしまいそうな焦り。そうしたアリアナの心の揺れに気づかず、周囲は迷いなく外堀を埋めている。「これで良いのだ」と思える決定的な何かを、アリアナはまだ得られていなかった。
とはいえ、のんびりしている暇はなかった。宴が開かれるのはひと月後だ。段取りの決定、衣装の打ち合わせと確認、そして舞の稽古。やることは山のようだった。
ある日、二人で踊る予定の舞の稽古中、その舞を教えているエムレが突然音を止めた。
「技術的には問題ありません。ミスも減り、ソツなくキレイに踊れています。でも心が見えて来ない。お二人のお心にズレや迷いがある。お二人が交わす視線に込められた想い一つで、観る者に与える印象は大きく変わります。今は稽古を続けるより、お二人だけの時間を持たれることの方が大事でしょう」
少しゆっくりお二人のお気持ちを整理されてくださいね。そう言ってエムレは部屋にいた侍女達も一緒に出るよう促し、二人に向かって一つウインクをして出て行った。
残された二人は一瞬顔を見合わせ、すぐにどちらからともなく視線を外した。
「そういえば本当に二人きりになったのは初めてかもしれないな」
そう言ってテオドールは立ち上がり、窓際に寄って中庭を見下ろした。それから手招きをしてアリアナを呼び寄せる。アリアナがテオドールの隣に立って同じように中庭を見下ろすと、スッとアリアナの後ろに移動して背後からフワリと優しく抱き締めた。そしてそっと左の頬に口付けた後、アリアナの頭に頰を寄せたまま話し出す。
「何か気になることがあるんだろう? 最近憂い顔が増えた気がする」
アリアナはテオドールの突然の行動に少し体を強張らせたが、その腕の中は温かくて居心地が良くて、頬に触れた唇は蟠っていた何かを溶かして行くようで、何故か切なくなって、動けなかった。
――この人は私のことをちゃんと見ていてくれたんだ。
「この婚約をどこまで本気にして良いのかわからなくて」
「……そうか、貴女次第だと思っていたが、ボールを投げたままにしていたのはいけなかったな」
テオドールはアリアナの肩を回して自分の方を向かせると、その藍色の瞳を迷いのない視線で静かに見つめた。
「私は最初から本気だった」
「どうして……?」
フッと視線を外し、天井を見上げてテオドールは少しだけ考えてから答えた。
「……どうしてだろうな。初めて貴女を見た時から目が離せなかった。流石に自分でも少し頭を冷やした方が良いと思って、貴女を手元に置いて互いに相手を知る時間を持とうと思った」
「それで……」
今はどうなのだろう。気持ちは変わったのだろうか。
「今も目が離せない。気になって仕方ないんだ。ずっと手元に置いておきたい。……好きになるのに理由が必要か? 貴女が誰であっても関係ない。どこへもやりたくない。離したくないんだ」
そう言ってアリアナを今度は正面からしっかりと抱き締めた。
テオドールの肩越しに宙を見上げたアリアナの視界が滲んだ。
――もうずっと前から、私はこの人にこうして抱き締めて欲しかったんだ。
「離さないで」
囁くような震える声を耳にしてテオドールは弾かれたように腕の力を緩め、アリアナの顔を見下ろした。
「……貴方が好きです。ここにいたい。貴方の傍に。いいえ、貴方の……この腕の中に……。だから、どうぞお願いします。私を離さないで」
そう言いながら、アリアナは無意識に右手の中指でテオドールの唇に触れていた。テオドールは反射的にその手首を掴み、触れられた唇でアリアナの口を塞いだ。
それからしばらく、アリアナはテオドールの胸で静かに泣き続け、テオドールはアリアナを抱き締めたまま、窓越しに空を見上げていた。
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