第2話 クリプトス王の狙い

「なぁヨハン、聞いたか? アリアナ様の話」

「アリアナ……王女?」


 カルネ村でアリスタと名乗る少女を助けた医師見習いのヨハンが買い出しで隣街を訪れた日、いつものように情報交換のため以前の騎士仲間と食事を共にしていた時に、突然その話は切り出された。


「イシス島の大神官様が密かに探しておられるらしい。祭祀中に海に落ちて行方がわからないのだそうだ」

「え……?」

「もし見つけたら、クリプトスには絶対に気付かれないように保護しろとのお達しだ」


 ヨハンはテーブルに視線を落としたまま、聞いた話を咀嚼するように、ゆっくり息をしながら考え込んでしまった。


 アリアナ姫は、確か十五、六の長い黒髪の少女だ。温和な父王と歳の離れた兄に過保護なぐらいに可愛がられ、少々引っ込み思案だが、素直で優しい王女に育ったと聞いていた。ヨハンは、遠くから見かけたことがあるぐらいで、お顔をよく見たことはなかった。でも……


 脳裏には、今も診療所で自分の帰りを待っている、黒髪の少女を思い浮かべていた。


 ――大神官からのお達しとは。


 かつてヒプロスには、王家と王城を守る騎士団と、大神官と神殿を守る騎士団があったが、敗戦に伴ってイダ島の王城騎士団は全て解散、イシス島の神殿騎士団も一部を残して解散となり、団員は皆散り散りになった。固まっているとクリプトス側に警戒されるため、ヒプロスの各島だけでなく、カンディーナ南岸地域にも広く点々と散らばって隠れ住んでいる。しかし、騎士団員の団結力は非常に強く、いつかまた結集する時を夢見て、強固な地下連絡網が築かれていた。


 その連絡網を通じて密かにもたらされた大神官の言葉。王亡き今、ヒプロス人を一つにまとめ、心の支えとなっているのは、大神官を中心に太古から守られている海神信仰であり、大神官その人である。そして、その次にヒプロス人をまとめられるのが、生きていればアリアナ王女となるだろう。


「理由はわからないが、大神官様は、アリアナ姫がまだ生きておられるという確信をお持ちのようだ」

「ああ……うん……」

「ヨハン?」


 ――似ているとは思ったんだよなぁ。あー、そうか……なるほどそういうことだったのか。念のため確認して……ええっと、クリプトスにバレないように?……といっても、万が一、村人に何か尋ねられたらすぐ気付かれそうだよなぁ。……これは急がないと。


 ヨハンは声を顰めた。


「……ジーノ、お前、大神官様に近い人物に直接接触できるか?」

「えっ?」

「アリアナ様と思われる少女を保護している」

「……は?」

「村人の口に戸は立てられないから、そういうことなら、できるだけ早くより安全な場所にお移ししたい。俺は村を離れられないから、代わりに指示を仰いで来てくれないか」

「ウソだろ…………ええっ?……あー、いや、わかった。急ぐ必要がありそうだな。なんとかするから村で待ってろ!」


 ジーノと呼ばれた元騎士は、最初は話が信じられずにしばらく呆然とヨハンの顔を見ていたが、いつになく真剣な目で冷や汗まで浮かべ始めたヨハンの様子に冗談ではなさそうだと悟ると、すぐに立ち上がった。


 ヨハンは急いでカルネ村に戻り、翌日、アリスタと名乗る少女と話をして、アリアナ王女その人であることを確信した。






 ヨハンの診療所に神殿騎士団長レギウスがジーノと共にやって来たのは、それから二十日ほど後のことである。


 レギウスは深いフード付きのマントで髪と目元を隠し、陽が落ちてから診療所の戸を叩いた。


 大神官の近くに控えていることの多いレギウスは、大変整った目立つ顔立ちと赤みの強い波打つ豊かな金髪で、信者の、特に女性たちの間ではかなりの有名人であったため、こうした隠密行動には全く向いていない。それでも今回、彼が直接アリアナに会いに来たのは、顔見知りの彼が話をすることでアリアナを安心させ、話を信じてもらうためである。


 マントを脱いだレギウスをヨハンが部屋に案内すると、アリアナの姿を見たレギウスは安心したように大きく息を吐いて目を細め、アリアナの前に流れるような綺麗な所作で跪いた。


「ご無事で何よりでございました。大神官様も大変案じておられました」

「心配をかけて本当にごめんなさい。でも私は、今はまだイシス島には帰りたくありません」

「わかっています。私どもとしても、アリアナ様にはクリプトスの手の届かないところにいていただかなければなりません」


 どういうことですか? とアリアナは問いながら、レギウスに近くの椅子を勧めた。


 腰を下ろしたレギウスは、抑揚の少ない低い声で説明を始めた。


 クリプトスの国教は太陽神のみを唯一神と崇める一神教である。クリプトスの王はヒプロスの民の反感を和らげるために今のところは海神信仰を認めているが、内心ではいずれヒプロス全土に太陽信仰を広め、海神教は排除するつもりでいる。そのための大きな転換点として、巫女でもあるアリアナを王の側室として後宮に入れ、改宗させるつもりでいたらしい。


 今はもう、アリアナの生存をだいぶ諦めているようではあるが、生きているとわかれば強引に連れて行かれるだろうという話だった。


 ――因みに、この情報を大神官に伝えたのは、カンディーナ帝国南部の出身で、海神教徒のまま皇室に嫁いだ帝国のセオドラ皇妃である。クリプトスに潜んでいるカンディーナの密偵が得た情報が、大神官と交流のある皇妃を通じてもたらされたらしい。カンディーナでは北東部を中心に信じられている拝火教が優勢であるが、信仰の自由は皇族の間ですら尊重されていた。


「……あのぅ、論点がズレますけど、クリプトスの王って結構な歳じゃなかったでしたっけ? 王子の妃にっていうならまだしも、自分の後宮にアリアナ様を、ですか?」

「それが本当の話なら、絶対に阻止しないといけませんなぁ」


 後ろで聞いていたヨハンとジーノが苦虫を噛み潰したような顔で口を挟み、その場にいる全員が揃って頷く。当のアリアナも、眉間にシワを寄せて床に視線を落としていた。


「そういうわけで、クリプトスに気づかれる前に、アリアナ様にはもっと安全な場所に移っていただかなければなりません」

「はい、でも……ヒプロスはどこもクリプトスの支配下にありますし、カンディーナに伝手はありません。一体どこへ行けば……」


 アリアナは困惑した顔で呟いた。しかし驚いたことに、レギウスは既にその答えを用意していた。


「ここへ来る前に大神官様からの親書をカンディーナの皇妃陛下にお渡しして相談させていただいたのですが――」

「まぁ、皇妃様に?」

「ええ、あの方は大神官様ともつながりがありますし、南部の出身ですから。帝国南部の海神教徒は心情的にヒプロスの味方ですよ」

「そうなのですね」


 アリアナの表情が少し明るくなった。


「それで、その皇妃様がこの近くの貴族宅にとりあえず受け入れていただけるよう、話をつけてくださいました。クリプトスも、カンディーナの貴族に簡単に手出しはできないでしょう。その後のことも考えて頂けると、約束してくださっています」

「皇妃様は親切な方なのですね。いつかお会いしてお礼ができると良いですが……。それにしても、レギウスも、この短い間によくそこまで動いてくれました。私のために、ありがとう」


 ホッとした表情で、アリアナはレギウスに礼を言い、労った。



 レギウスとジーノに連れられてアリアナがひっそりとヨハンの家を出たのは、翌日の夜のことである。

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