第3話 歌声
ヒプロス諸島の北の大陸にはカンディーナ帝国がある。領土の広い帝国では、地域によって文化も宗教も様々だが、南の沿岸地域の文化や宗教はヒプロスのそれとほぼ同じだった。
その帝国の第三皇子テオドールは、南部の出身である母、セオドラ皇妃の影響を受けて南部特有の文化に強い興味を持ち、父皇帝の許しを得て、身分を隠して南部地域を旅していた。そうしているうちに、海神教最大の聖地で行われる年に一度の祭典を是非一度見てみたいと思い、他国の支配地であるにもかかわらず、祭典の数日前からイシス島を訪れていた。
――テオドールが島に到着した日の夕刻のこと。
澄んだきれいな歌声が、竪琴の音色とともに風に乗って聴こえて来た。声の主を探して見回すと、高い塀の向こう、滅亡したヒプロスのアリアナ王女が軟禁されているという建物のバルコニーに人影が見えた。
素直に伸びた長い黒髪を潮風に踊らせて、西の海を見つめている。この距離では顔つきや表情まではわからないが、その寂しげな佇まいに、テオドールは何故かギュッと胸の奥が掴まれる感覚がした。
「あれはアリアナ姫だろうか」
近くに控えるイヴァンに問いかけると、「恐らくそうでしょうね」と返事が返ってきた。
港町全体が見渡せ、夕陽が素晴らしい、と宿屋で勧められた崖の上のこの場所で、テオドールは街の様子を眺めていたのだが……。歌声を聴いてからは、その黒髪の少女が闇に溶け込んで見えなくなるまで、その姿から目が離せずにいた。
お陰で夕陽はすっかり見そびれてしまった。
それから祭典の日までの数日間、テオドールは夕方になるとこの場所に来ていた。
そうして迎えた祭典当日、素性を隠しているテオドールは一般の裕福な商人らに混じって、あらかじめ手配しておいた有料の観覧席にいた。隣には、乳兄弟でもあり、視察と称したお忍びの旅にも従僕に扮して付き従ってくれている、第三皇子付きの護衛騎士イヴァンが座っている。彼の母もまた、皇妃と同じ帝国南部出身の海神教徒である。
太陽が沈み始めた夕刻、銅鑼が二度打ち鳴らされて祭祀が始まると、桟橋に並ぶ若い神官たちの合唱のような祈祷の声が風に乗って広がる中、大神官と巫女を乗せた船が滑るように湾の出口へと向かう。湾から出る少し手前で帆を畳み、錨を下ろすと、大神官が祈りを捧げた。
祭祀が滞りなく終わり、船が戻れば、宴が始まる筈であった。
しかし、港に向かって引き返すと思われた船は、突如大きく揺れ、観覧席から見ていても何かあったとわかる混乱ぶりを示した。
「……イヴァン」
「様子を見て来ます」
イヴァンは小さく頭を下げて小走りに去って行った。
しばらくして戻ってくると、イヴァンは皇子の耳元に顔を寄せて小声で報告した。
「巫女を務めていたアリアナ姫が船から落ちたようです」
「なっ……!?」
皇子は振り返りイヴァンの顔を見上げたが、見開いた紫苑の瞳は焦点が定まらないように大きく揺れ、やがて僅かに肩で息をし始めた。イヴァンは静かな目でそんな主の様子を見つめていた。
テオドールは自分でも不思議なぐらいの動揺と駆け出したい気持ちを必死で抑えて息を整え、海へと視線を戻した。祭祀用の船が港に戻ると、入れ替わるように小さな船が何艘も捜索のために出航して行った。
船から降りて来た大神官に、クリプトスから派遣されていた高官が声をかける。
「大神官殿、何があったのだ」
大神官はクリプトスの高官を見て深く頭を下げ、沈痛な面持ちで報告した。
「突然大きな波が起こり、船首にいた巫女が振り落とされました」
「なんだと!? 巫女とはアリアナ王女のことか」
「……はい。すぐに船員が数名飛び込み助けようとしたのですが、波に攫われて、見失ってしまいました」
「早く探せ!!」
「……探しております」
アリアナが自ら飛び込んだことに大神官だけは気づいていたが、それは誰にも言わなかった。
そのやりとりがはっきり聞こえたわけではなかったが、周囲の人々のざわめきから大体の内容は伝わって来て、テオドールは厳しい顔で暗い海を睨んだ。帝国の皇子とはいえ、今ここでテオドールにできることは何もない。その口惜しさを誰にも気取られないように、降ろした拳を強く握り、歯をグッと噛み締めた。脳裏には、ほんの数日前に見かけた黒髪の少女の寂しげな姿と澄んだ歌声がぼんやりと浮かんでいた。
捜索は五日間続けられたが、救出はおろか、遺体を見つけることもできなかった。
――それからひと月ほど後。
数ヶ月に一度は皇都に戻って旅の報告をするというのが、カンディーナ帝国の第三皇子テオドールが自由な旅を続けるに当たっての、皇子と父母との約束である。その約束を果たすべく、久し振りに皇都に戻ったテオドールと護衛のイヴァンは、すぐにセオドラ皇妃の部屋に呼ばれた。
皇太子である第一皇子と第二皇子は病で亡くなった前皇妃の子であるため、セオドラの実の子はテオドールだけであるが、テオドールにもセオドラにも、帝位に対する野心はかけらも無い。テオドールはむしろ、そのような立場に縛られるのは真っ平御免という考えであったため、将来、兄を支えるためにも、なかなか皇都を離れられない皇太子の代わりに見聞を広めておきたい、などともっともらしい理由をつけて、自由気ままな旅を続けていた。無用な後継者争いに巻き込まれないためでもある、と母には言ってある。
テオドールとイヴァンはまず旅の報告をしたが、クリプトスの占領下にあるイシス島にまで足を伸ばしたことは、流石に大きな問題にされそうなので黙っておいた。下手をすると、今後の旅を制限されかねない。監視など付けられたら面倒だ。
二人の報告が終わると、皇妃が切り出した。
「帰ってきて早々悪いのだけど、実はイヴァンに一つ、大事な頼みがあるの」
「皇妃様が私に頼み、ですか?」
「ええ、そうよ。今、ベラの実家に、あるお嬢さんを保護してもらっているのだけど、そのお嬢さんをこちらまで連れてきて欲しいの」
「はぁ……」
ベラはイヴァンの母であるが、イヴァンは今ひとつ話が見えず、戸惑った表情で皇妃を上目遣いで見た。
ティーセットが置かれたテーブルの向こうから皇妃が身を乗り出して、さも内緒話だというように声を潜める。
「事情がわからないと護りづらいでしょうから教えるけれど、お連れして欲しいのはヒプロスのアリアナ王女なの」
ガタッ!
アリアナ王女と聞いて思わず腰を浮かせたテオドールの椅子が音を立てた。
「テオ? どうかした?」
「あ、いや……あの、母上、アリアナ王女は海に落ちて行方知れずなのでは……?」
「あら、よく知っているわね。カンディーナの南海岸で助けられたとイシス島の大神官様に密かに知らせがあったらしくて、クリプトスに知られずに保護できないかと私に相談があったの。とりあえずベラの実家が近かったから保護してもらっているのだけど、いつまでもお願いするわけにもいかないし、クリプトスもまだ探しているみたいだから、一刻も早く警備の厳しいこちらにお連れしたいのよ。イヴァンなら親戚だから、あちらに訪問しても不自然じゃないし、適任でしょう?」
「……それはそうですが、まさか私一人ではないでしょうね? 何かあった時に護り切れませんよ」
イヴァンは横目でテオドールの様子を伺いながら話を進めた。
「そうね。こちらに来た後も引き続き姫専属の護衛となれる騎士を一人と、お世話のできる侍女を一人、一緒に行かせましょう」
「同行者には当然、事情の説明は必要ですよね。護衛はどのように選ぶのですか?」
「私も行く。専属の護衛はエリックにやらせる」
テオドールが唐突に口を挟んだ。皇妃は眉を顰め、イヴァンは諦め顔で溜め息をついた。
皇族の男子は基本的に十二歳から十八歳まで騎士団で他の騎士見習いと共に剣術や馬術などの戦う術を学ぶ。イヴァンもテオドールと共に騎士団で学び腕を磨いた。エリックは二人にとって、その当時に知り合った信頼できる騎士であり、気の置けない友である。
……さらにもう一つ付け加えるならば、幼馴染と昨年結婚した既婚者だ。テオドールがこの時そこまで考えてエリックを選んだかどうかは定かではないが、イヴァンの方は、そういえば、とそんな情報も頭を掠めた。
「殿下まで行ったら目立ちませんか?」
イヴァンは諦めつつも一度だけ抵抗を試みた。
「今まで散々素性を隠して旅して来たが、問題なかった」
首を傾げた皇妃もテオドールの意思が固そうなのは口調でわかったが、一応言ってみる。
「あちらが困るんじゃないかしら。貴方が行く必要はないのでは?」
「護衛騎士の一人だとでも言っておけば良いでしょう。ここにいても退屈なだけです」
「陛下も貴方の話を聞きたがっていたわよ?」
「戻ったらまた時間もできましょう」
「相変わらず、言い出したら聞かないわね!」
皇妃とイヴァンはほぼ同時にはぁっと息を吐いて、とりあえずその日は解散となった。
三日後の早朝、テオドール、イヴァン、エリック、そして皇妃が選んだ侍女のミリアの四人は、南へ向けて出発した。
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