アリアナの海 〜亡国の王女と旅の皇子〜
蔦川晶
第1話 イルカの呼び声
イルカの声が聞こえた気がして、少年は浜辺へと走っていた。
「なんだ? あれ」
砂浜に見慣れない黒い塊が落ちている。海を見ると、五頭ほどのイルカの群れがその塊の近くを泳いでいた。まるでこちらの様子を伺っているように。
近づいてみると、黒い塊から白い棒のようなものが出ていた。
(え? あれって人の手?)
驚いて足が止まり、落ち着いて観察すると、海藻かと思った黒いものは広がった人の髪だとわかった。
「ちょっ……待ってよ、どうしたらいいんだ。ヤダよ、死体とか怖いよ」
思わず回れ右をして逃げ出しそうになる。でも、もし、万が一、生きていたら……と思い直し、数回深呼吸をして震える足で近づいてみた。
勇気を振り絞って肩を掴んで上を向かせ、顔にかかった髪を掻き分けてやると、少女の顔が現れた。
思わず息を呑んで見入ってしまい、ハッと気付いて息を確かめる。そして少年は全速力で駆け出した。
少女は目を覚ますと、大きく見開いた茶色の瞳と目が合った。その頭の向こうには質素な板張りの天井が見える。しばらく驚いて互いの目を見合っていたが、茶色の目をした少年はふいにバッと後ろを振り返り、部屋の入口に向かって大きな声で叫んだ。
「起きた! 起きたよ! 先生、早く!!」
扉が開いて入ってきた男は、「ユト、大きな声を出すんじゃない」と少年を諌めると、少女の顔を見下ろして顔色を伺い、「気分はどうだい?」と言いながら、手首を取って脈を測った。
「ここはどこ?」
しばらく声も出せずに周りを見回していた少女は、意を決したようにそう聞いた。
「ここはカルネ村だよ」
「カルネ村?」
少女にとっては聞いたことのない名前だった。
「ヒプロスの島?」
「違うな。ヒプロスから見ると北の大陸、カンディーナ帝国の海岸にある漁村だ。……君はヒプロスから来たのかい?」
少女は目を泳がせて「カンディーナ……?」と確認するように小声で呟きながら、何かを考えていたが、結局、聞かれたことには答えなかった。ユトに先生と呼ばれていたその三十歳前後の男は、ジッと少女の表情を伺っていたが、どこから来たのかについてはそれ以上問い詰めず、質問を変えた。
「君、名前は?」
「アリ……アリスタ」
「アリスタか。僕はヨハン。医者の真似事をしてる」
そう言ってヨハンは自嘲気味に笑う。
「ここは小さな村で、医者も薬師もいないからね。多少、医学の知識がある程度でも頼まれてしまうんだよ」
「俺はユト!」
隣で出番を待っていた少年が痺れを切らして口を挟んだ。
「ヨハン先生はヒプロスから来たんだよ」
えっ!?……と、アリスタと名乗った少女はヨハンの顔を見上げた。ヨハンはただ優しく微笑んで頷いた。
アリスタは、村はずれにある診療所を兼ねたヨハンの家でしばらく静養させてもらっていたが、体力が戻ってくるにつれて今後のことが気になり出した。
(これからどうしよう。)
少女には、帰りたい場所も帰れる場所もなかった。
ヨハンや時々様子を見に来てくれるユトは優しいけれど、このままここで世話になるわけにもいかない。そもそも何故、あの時海に飛び込んだのか。ただどうしようもなく海に呼ばれた気がして心が騒めいて、そうしなければと思ってしまっただけで、死にたいなどという強い気持ちはなかった筈だ。
――そう、少女は自ら海に身を投げたのだ。煌びやかな祭典の日。その最も重要な場所で。
アリスタが考え込んでいると、ヨハンが「ちょっと話がしたい」とアリスタの部屋を訪れた。
茶が入ったカップを二つ持って入ってきたヨハンは、小さなテーブルを挟んでアリスタと向かい合って座ると、穏やかな目でしばらくアリスタの顔を見つめてからゆっくりと口を開いた。
「だいぶ元気になって来たね」
「はい、先生のおかげです。助けていただいて、ありがとうございました」
アリスタは、そういえばまだきちんとお礼を言っていなかったことに気づいて、少し慌てた。
「いや、そんなことはいいんだよ。これも何かの縁だからね。……だけど、君はこれからどうしたい?」
「……」
「君を心配している人たちはいないのかい?」
「……家族は、いません。戦で皆死にました」
「戦で……ね」
ヨハンは大きく息を吐き、少し間を置いて真っ直ぐアリスタの目を見つめると、話を続けた。
「ユトや他の人たちには黙っていて欲しいんだけど、僕は実はヒプロスの王城で騎士団専属医師の助手をしていたんだ」
アリスタは思わず息を呑み、大きく目を見開いてドクドクと強く脈打ち始めた胸を押さえた。
「君は……いえ、貴女は、アリアナ様ではないですか?」
何も答えずガタガタと震え始めた少女の様子を見て、ヨハンは確信した。答えはもう、聞く必要はなかった。
「怯える必要はありません。私は貴女の味方です。クリプトスに渡すようなことはしませんよ」
そう言って、ヨハンは安心させるようにアリアナに微笑んだ。
「王城でアリアナ様をお見かけしたこともありましたから、似ているな、とは思っていたんですが…… 。昨日、薬の買い出しで近くの街に行った時に、王城で仲の良かった騎士に会いましてね、アリアナ様が海に落ちて行方不明になっているらしいという噂を聞いたんです。この辺りの海岸には、王城があったイダ島から落ち延びた騎士が結構隠れ住んでまして……」
ヨハンは少しバツが悪そうに苦笑する。
「イシス島からこんなところまで流されて無事だったなんてちょっと信じがたいですが、海神の使者であるイルカの群れが近くにいたとユトから聞いてますし、王家出身で巫女でもあるアリアナ様なら、きっと海神のご加護があったのでしょうね」
海に落ちた後の記憶はほとんどなかったが、そう言われて見ると、何かに下から持ち上げられる感覚があったのを思い出した。イルカたちが運んでくれたのだろうか。
「今後のことについては、少し時間をください。必ず良い方法を見つけられますよ」
そう言ってヨハンはアリアナを安心させるように大きく頷き、部屋を出て行った。
――アリアナは滅亡したヒプロスの王女であった。母は早くに他界していたが、父と兄は、南の大陸から侵略戦争を仕掛けてきたクリプトスの兵に殺された。
ヒプロス王家の王女であるとともに、祭祀で大事な役割を持つ巫女でもあったアリアナは、ヒプロスの滅亡後はクリプトスによってイシス島の崖上にある屋敷に軟禁され、重要な宗教行事の時のみ外出を許されていた。
ヒプロスは大小七つの島からなる海洋国家で、海神を最も重要な神として祀っていた。その七つの島の一つで、海神教の中心地となっているのがイシス島である。
この島は、西側に口を開いた三日月型をしている。元は丸い島だったのだが、千年以上前に大きな噴火があり、外縁の一部のみを三日月型に残して、島の大半が一瞬にして海に沈んだと言い伝えられている。
そのため西側の湾には古代の聖地が沈んでいるらしい。尤もそのままの姿で沈んでいるはずもないのだが、当時の神殿がそのまま海底に佇んでいるように信じている人は意外と少なくない。
また、他界した海神教徒の魂はその海底の聖地へ行くとも信じられていて、現在でも、重要な祭祀は、その聖地があったと考えられている辺りの海上で行われる。
海底の聖地を両腕で抱えるようにも見える島の西岸は、崖と言って良いほどの急な斜面になっており、その下にある港には、大小様々な船がひっきりなしに出入りしていた。
その崖の上に立つ屋敷に軟禁されていたアリアナは、急斜面にへばりつくように連なっている真っ白な家々が、夕陽に照らされて黄金色から紫色へ、そして闇へと沈んで行く様子を眺めるのが好きだった。その流れはとても美しいが、近頃は滅亡した故国の、そして自分の運命をもつい重ねて考えてしまう。
父も兄も海に葬られた。何故、自分だけここにいるのだろう?――いつもそんなことを考えながら、陽が沈んだ後も、真っ暗になりその境目がわからなくなった水平線を探していた。
――そしてあの一年で一番重要な祭の日、長い艶のある黒髪を後ろで三つ編みにし、聖木の葉の冠を頭上に乗せたアリアナは、船団の先頭を行く船の船首にいた。
隣にはやはり腰まで届く白髪混じりの金髪を背で一つに括った大神官が、長い杖を持って佇んでいる。船には紺色に染められた大きな四角い帆が一枚張られており、その上には、金糸で縁取られた赤と緑の飾りが横に並べて付けられていた。陽が落ちて暗くなった穏やかな水面を、大きな松明の火がゆらゆらと照らしていた。
大神官が低い落ち着いた声で朗々と祈りを唱え、巫女であるアリアナが供物を海へと捧げて、海上での祭祀は終了した。船は港に戻ろうと動き始めたが、後ろ髪を引かれるような気がして振り返ったアリアナは、海面が大きく膨れ上がるのを見た。
「……私を呼んでいるの……?」
まるで巨大な海獣が水面を押して浮き上がって来たようで、何故か待ち望んでいた迎えが来たように感じたアリアナは、迷うことなくその水面に身を投じた。波とは別の水飛沫が上がる音を聞いて振り返った船上の人々は、大きな波がアリアナを海中に連れ去るのを見たが、助けることはできなかった。
大神官は目を見開いて海の様子を見つめていたが、すぐに囁くような小さな声で長い長い祈りを唱え始めた。
アリスタと名乗る少女がカルネ村の海岸で助けられたのは、その数日後のことだった。
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