15:悪気なき健気さ

   …… ZZZ ……



 場所が変わって、待機ステーションの更衣室。

 そこでは嶺吾れいあ桐谷きりたにさんが乳繰ちちくり合っていた。


 いや、一方的に桐谷さんが嶺吾のズボンに齧りついている、と言った方が嶺吾の名誉は守られるだろうか。 


「誤解だりん木下きのした! これは決してやましいことはない! 俺はいつだってそうだったろ!」

「いやここ六階だぞ」

「すまん、素直に助けを求めてるから、こいつを剥がしてくれ」


 嶺吾の懇願こんがんにより、木下さんがひじりさんを引き剥がしにいってくれた。


 桐谷さんは「……あと少しだったのに」と呟いたが、一体なにがあと少しだったのか。


「助かったぜ、俺が着替えようとしたら、急に襲い掛かってきやがったからよ」


 無事、着替えを終えた嶺吾は、安寧あんねいの時間を手に入れた。

 黒衣こくいを着た嶺吾を見ると、四肢に付いた筋肉が存在感を主張していることが目につく。


 羨ましい、僕もあれくらいムキムキなら初見の人に女性と間違われないで済むのに。


「……私の前で脱ぐのがいけないんじゃないの? なにされても文句は言えないでしょう」

「お前が勝手に入ってきたのに、その言い分はおかしいだろ⁉」


 澄ました顔で言う桐谷さんだったが、正当性を求めても同意はされないと思う。



 僕らの定位置、待機ステーションは入口から左側に更衣室と簡易的なキッチンがあり、正面の作業エリアでは、壁沿いに個人持ちのパソコンとデスクが用意されている。

 中央には大きめのテーブルが構え、空いた壁際を埋めるように本棚やソファーが設置されているので、好きな本を置くことも仮眠を取ることも可能だ。


 業務開始時間を知らせるチャイムも響き、早速仕事をすべく、パソコンに届いている『引き継ぎ』のメールにチェックを入れた。

 そこには前の治療班が対応中に異常値を検出した患者や、新しくレベル変位した患者のデータが事細かく書かれていた。


 レベル変位へんいとは、患者のストレス値の変動にともない、発症の危険度も変動することを指す。


 例えば、六階ではレベル3患者を扱っており、ストレス値は薬や点滴などで厳しく管理はされているが、いつ発症してもおかしくない現場だ。


 先ほどお世話になった水谷まりえさんは、五階のレベル2患者。

 この階層ではきっかけしだいでレベルアップもダウンも起こりえる。

 また、急に発症することも珍しくない。


 四階のレベル1患者は発症の危険度は少ないが、浮遊病などを併発したりするため、別の意味で目が離せない。


「じゃあ、まずはメールに書かれていた患者さんの所から回診にいこっか」

「わかりました」


 横で作業をしていた木下さんに声を掛けると、すでに準備万端のようだ。


 回診とは主に患者の寝起きの朝、昼時の脳波が安定している時間帯、夕方の帰宅時や、一日の疲労が溜まっている時間帯に行う巡回のことだ。

 他の所では、アナムネとも言うらしい。


 離れて作業している嶺吾たちにも、回診にいく旨を伝える。


「じゃあ俺と聖は四、五階の方にいってくるわ」

「かしこまり、なら僕らも手筈通り」

「わかった、終わったらこっちに戻ってきてるから」

「了解」と返し、僕らは早速、リストアップされていた患者の所に向かう。



   …… ZZZ ……



「ではストレス値抑制剤オキストリンをお出ししますので、就寝前にお飲みください。後ほど、薬師が持ってきますので、お手洗いなどで部屋を空ける際は、近くの看護師にお声がけください――」


「そうですね眼球運動値が低く、落ち着いた眠りを、この時間帯は続けられているようなので、この調子が続くようであれば、眼球運動抑制剤の量を減らしても大丈夫だと思います――」


「昨晩は寝つきが悪かったみたいですが、お身体の具合はどうでしょう。要請通り強制睡眠導入剤は処方させていただきますが、なかなか眠れそうにない時のみ、お飲みください――」



   …… ZZZ ……



 かれこれ四十ほど、患者の部屋を回っただろうか、次でようやく最後の患者の所だ。


「凛先輩、この子は睡眠時活動計も安定しているので、レベルダウンも視野に入れてもいいんじゃないですか?」


 木下さんが電子タブレットに表示されるカルテを、歩きながら僕に見せる。


 そこに表示されているグラフは、縦軸が睡眠時脳波の乱れ、横軸は時間の流れを表し、グラフを見る限りだとこの患者の折れ線グラフは安定した一定の値で、横軸とほぼ水平になっていた。


「……でもこの辺りちょっと気になるから、そこも確認しないとなぁ」


 僕はグラフの急激に角度を変え、平行になったところにマークを入れる。


「なにか気になるところでもありましたか?」

「うーん、なんか不自然なまでに、変動に幅が無いからさ」


 一抹いちまつの不安を抱えながらも、目的の病室へとたどり着く。


「こんばんは、専門治療医の湧泉です。夕方の回診に参りました、失礼してもよろしいですか?」


 すると、中から元気のいい男の子の声とお父様の声が返ってきたので、室内へと入る。


 中は完全に、子供部屋のような内装になっていた。

 カーテンは青空を背景にデフォルメされた飛行機がいくつもプリントされており、室内灯のカバーもカーテンに合わせた柄。システムデスクには直前まで宿題をやっていたのか、計算ドリルなどが散らばっている。


 ただ一点、場の雰囲気に合わないのは、ベッドから伸びるモニター類。

 それらには様々な折れ線グラフや心電図、その他治療や病気の進行度に関わるもの全般が表示されている。


「先生こんばんは!」


 元気よくベッドの上から挨拶をしてくれたのは、神崎夕かんざきゆう君。

 まだ小学四年生になったばかりで、頬の絆創膏がワンパク少年に拍車を掛けている。


「こんばんは、今日はお父さんと一緒なんだね」

「うん! お父さんが今日てーじで帰ってきてくれるって、昨日お母さんから聞いてたんだ!」


 満面の笑みを浮かべ、お父様に抱き着こうとする夕君を見ていると、親子の仲睦まじさが垣間見えて、僕の心も温かくなる。


「やったね夕君、確か先週だったかな? お父さんにお薬飲むとこ見せるって、張り切ってたもんね」


 よくそんな細かいことまで木下さんは覚えているな。


「あっ! 忘れちゃうとこだった」


 夕君は慌てて、パジャマのポケットから薬を取り出すと、お父様の方を向いた。


「見てて見てて、お父さんのまね! ほら……んんっ、ぷはっ!」


 意気揚々と錠剤タイプのストレス値抑制剤オキストリンを二錠、口に頬張り、ベッド脇に置かれた水で流し込んだ。


 僕が子供のころなんて粉薬しか飲めなかったから、素直に感心していると、


「すごいじゃないか夕! お父さんはな、夕くらいのころ、粉薬じゃないと飲めなかったんだぞ」


 お父様も大絶賛! 心の中では頷くしかなかった。


 ただ、そんな感心も束の間、先ほど確認していたグラフが頭を過ぎり、ベッド脇のモニターに映るある数値を探す。


 雰囲気にほだされ、夕君の行動を良しとした自分に腹が立つ。

 副作用が出なかった、という一縷いちるの望みを抱きながら、隈なく、グラフと数値の変動を眼で追っていくと、ついにそれを発見し、自分の不甲斐なさを恨んだ。

 入室からわずか三分ほど、どれだけ短い時間だったとしても、僕らは些細な綻びを見つけ、未然に発症を防がなければならないのに。


「……木下さん。夕君のお父さんを応接室までちょっといいかな?」

「先輩どうかされました?」

「――OD」


 首を傾げていた木下さんだったが、その単語を聞いた瞬間に顔色が変わり、すぐさまお父様を外へ連れ出した。

 お父様も木下さんの切羽詰まった様子を見て、夕君に「ちょっと先生と話してくるね」と残し、病室をあとにした。



   …… ZZZ ……



 病室で二人きりになった僕は夕君に尋ねる。


「ところで夕君。昨日もお薬は二つ飲んでた?」

「うん! お父さんがいつもお家だと、たくさんのお薬を一気にがー、って飲んでるから」

「そっか、真似したくなっちゃたんだね。じゃあ、今日の朝、貰ったお薬はどうしたの?」

「お母さんが飲まないと怒るから、お薬飲む練習に買ってきてくれたラムネを飲んで、ごまかしたんだ!」


 意気揚々と手の内を明かした夕君の方が一枚上手だったようだ。


 薬を吐かせることも考えたが、身体への負担がともなってくる。

 また、夕君自身が良しとしてやったことを否定する形になるため、精神面の負担も大きすぎる。


 PHSピッチで看護師に応急処置用の水を急いで持ってきてもらい、対応を任せると、木下さんのあとを追った。



   …… ZZZ ……

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