12:後悔は、良き同居人

   …… ZZZ ……



 嶺吾れいあが警察に電話をかけ、何度も謝りながら誤解をどうにかして解いたころには、時刻は8時前まで進んでいた。


 ようやく、結束バンドから解放された嶺吾は、自分の指先に血が通う感覚を噛み締め、感涙かんるいにむせんでいた。

 そこだけ切り取れば、生き別れの兄弟に再会したようなシーンを彷彿ほうふつとさせる。

 しかし、実際はただの痴話喧嘩ちわげんかのなれの果てだ、感動なんて一切ない。


「……れい君はいつまで床に座ってるつもりなの? 椅子に座る文化がないのなら私の膝に座る?」


 満身まんしん創痍そういで床にへたり込んでいた嶺吾れいあに対し、桐谷きりたにさんは、ここに座れ、と言いたげな様子で自分の膝をポンポン叩く。


 しかし、嶺吾はそんな甘い誘惑ゆうわくに対し、辟易へきえきする態度を顔に出す。


「いや遠慮させてもらうわ、お前どさくさに紛れて変なところ触ってくるから」

「……変じゃないわ、男性でも色々開発できるって『ペットな彼氏のしつけ方』って本に書いてあったもの」


 それが聞こえた木下きのしたさんの耳が、瞬間的に赤くなったのが見て取れた。


 確かにね、それが一般人の感性だよね。これが廣瀬ひろせ夫妻の間では、普通の会話だと思っている僕がおかしいんだよね。

 木下さんを見ていると、僕の麻痺した感覚が、常人とどれだけ乖離かいりしているかが分かる。


 ただ、二年近くも二人の会話聞いていたら、僕の感性が麻痺するのもわけない。


「今すぐお前の部屋にいくわ」


 その嶺吾の返事に、ついに木下さんは机にうずくまるようにして赤くなった顔を隠す。


 どうして当の本人じゃないのに恥ずかしがっているのだろうか。

 それが常人の反応なら、次からは僕もそうしようかな。


「……えっ、それって……ついに、嶺君が私を求めて!」


 桐谷さんは、その返答に目を輝かせ、珍しく照れる素振りを見せ、顔を手で覆った。


 しかし、嶺吾にそんな他意はもちろんない。


「いや、お前の本棚の中身――全部燃やすっ‼」


 視界を手で覆った今がチャンスと言わんばかりに、桐谷さんの期待を裏切った嶺吾は真顔で言い放ち、床を蹴った。

 流石の嶺吾も、自分の身の危険を感じ始めたのだろうな。 


 ただ残念なことに、弾かれたような勢いで桐谷さんの部屋に向かう嶺吾を、すぐさま追いかける桐谷さんの姿は、目に追えなかった。

 直後、廊下の方で嶺吾の断末魔だんまつまが聞こえてきたが、まあそれもいつも通りだから助けにはいかない。


「助けてくれ‼」と、聞こえてきても、僕は聞こえないふりをする。


「まだ、まだ死にたくない‼」と、聞こえてもきても、僕は聞こえないふりをする。


「俺は絶対、貞操だけは守り抜くからな‼」と、聞こえてもきても、僕は聞こえ……、それは少し興味が湧いた。



「廣瀬先輩あれだけひじり先輩に好意を抱かれているのに、いまだに手を出してないの、逆にす、すごいですよね」


 木下さんは机に顔を埋めながら、感想を投げかける。

 耳まで真っ赤になるほど、かなり二人の関係を気にしているようだった。


「そうだね、ある意味すごいかもしれないな。あんなにきれいな女性なのに、って普通は思うもんね」


 正直、あんな美人に迫られるなら、僕はペットになってもいいって考える派だ。

 嶺吾を羨む気持ちがあるのは事実だ。あそこまで自分を想ってくれる人がいるということは、素直にうれしい、と感じるのが普通の感性だ。


「もしかして、廣瀬先輩って男の人の方が好きって可能性、ありますか?」


 考えうる可能性について、興味を持って聞いてくる木下さんだったが、僕は確証を持って答える。


「残念だけど、その線はないよ。だって、嶺吾も桐谷さんのことが好きだからね」


 木下さんは、僕の返答に目を丸くした。

 その反応は一般的なものだろう、ならくっつけよ、と思うのが当然。


 しかし、これが世の不思議、あの二人は恋人関係に発展しているわけではなかった。

 それを聞いて、木下さんはあることを気に掛ける。


「やっぱり、廣瀬先輩のPTSDが関係したりしてるんですかね?」

「そうだと思うよ。でもあんまり他の人のPTSDを話したり、聞いたりすると感情移入をして、治療時に連携がとりにくくなるから、僕も詳しく聞いてないんだよね」


 理由が聞けると、聞いてしまっていいものかと、期待と困惑を混ぜる木下さんは、僅かに、胸を撫で下ろしていた。


「そうですか……。でも私は先輩方がいつか、くっついてくれるって信じます!」

「僕もそれを切に願っているよ」



 僕ら医師たちは亜種夢強制共感病あしゅむきょうせいきょうかんびょうを治療する際に、それぞれ克服した悪夢を思い出す。

 そのため、過去にどんな悪夢を克服しているのかなど、傍から見ていれば分かる。

 だからと言って、その真相を本人に踏み込んで聞いたりすることは、精神面的な影響も多数あるため、タブーとされていた。 

 しかし、嶺吾は僕と境遇きょうぐうが似ているからと、PTSDを打ち明けてくれたことがある。

 その時、嶺吾は、自分のPTSDと、今の桐谷さんとの関係性について一言。


「――これが俺にできる聖への唯一の償いだから」


 嶺吾の言葉にどれだけの想いが詰まっているか、想像はできなかったけれど、僕はそれだけで胸が一杯になった。



   …… ZZZ ……




 休日の朝、木下さんとリビングでテレビを見ている時間は、安らぎそのものだった。

 いつも病院では一緒に行動をしているが、常に神経を使う現場ということもあり、まったりとした時間を過ごせるのも悪くない。


 しかし、流れる世間のニュースは、僕らを取り巻く空気感とは、ほど遠いものだった。


「うわっ、また名古屋の方で歩道に車が突っ込んだんですね」

「ほんとだね、死者数も多いし、こういった事件からストレス抱える人が少なからずいるから気を付けたほうがいいね」

「なにもないことを祈りたいですが、残された遺族の方を思うと辛いですね」


 朝から痛たましいニュースが目に飛び込んでしまい、空気がどんよりする中、共同キッチンの扉を叩く音が聞こえた。

 目を向けると、紺色のジャケットを着た嶺吾が、車のキーをくるくると指で回していた。


「じゃあ、俺と聖は出かけてくるぞ、16時にはこっち戻って、病院いくから」

「なら、黒衣こくい忘れて寮に取りに帰るとかは大丈夫そうだな」


 僕が言うと、嶺吾は「ああ、問題ない」と苦笑いしながら返した。


「……嶺君とは病院にいく前に、きちんと確認していくから安心して」


 嶺吾の後ろから、小動物のように顔を出した桐谷さんが、グッと胸の前で指を立てた。

 普段の桐谷さんはしっかりしているから、忘れることはないだろう。

 嶺吾も業務中はしっかりしているが、如何いかんせん休日になるとスイッチが切れ、黒衣などを忘れがちだった。


 それにしても、嶺吾と桐谷さんが並ぶと、身長差が10センチ以上もあることに驚く。

 僕は、華奢で嶺吾より小さい桐谷さんが、縛られた嶺吾を担いで部屋に連れ込む姿を、幾度となく見ている。


 多分、力学的関係が壊れているんだろう、この二人は。


「……そういえば、咲楽さくらちゃんなにか欲しいものあるって、言ってなかったかしら」


 桐谷さんは、木下さんを見て、なにかを思い出したように問いかける。

 気にかけたのは、今朝木下さんが見ていたファッション誌のことのようだった。


「は、はい。お恥ずかしいことなのですが、少々、またサイズが合わなくなってしまったみたいでブランド的にあそこが」


 恥ずかしそうに、木下さんは下を向きながら答える。

 なにかピンと来たのか、桐谷さんは木下さんに駆け寄る。


「……大丈夫、私に任せて」


 木下さんは桐谷さんを信用してか、近くに置いてあった財布から折りたたまれたカードを手渡した。

 それを受け取った桐谷さんは、少し固まっていた。


「……70、92⁉ 咲楽ちゃん普段なに食べてるの⁈」


 いつもはあまり感情を出して話さない桐谷さんが、嶺吾が絡まない通常時に、声を大にしたのは久しぶりだった。


「わあああああ‼ 声に出さないでくださいぃ‼ 普通のモノ食べてます普通の! あとそんな急に揉まないでくださいぃぃぃ! なにも詰めてませんからぁ‼」

「はあ、置いてくぞ」

「……えっ。あ、待って、すぐいくから置いてかないで、嶺君」


 先にエレベーターの方へ足を進めていた嶺吾が、鶴の一声で、木下さんから桐谷さんを引きはがす。

 桐谷さんは、黒いレース生地のスカートをひるがえし、すぐさま嶺吾のあとを追っていった。


「気をつけてな、事故るなよ!」


 僕が気に掛けると、嶺吾は「おう」とだけこちらに聞こえるよう生返事する。


 エレベーターの到着音が響き、二人の足音が聞こえ、気配が亡くなった頃、


「うう、取れちゃうかと思いました」


 木下さんが不意に呟くので、思わず、声に出して笑ってしまった。



 嶺吾たちが不用意な発言のお詫びいちゃこらデートに向かったあと、僕らはなにをするわけでもなく、共同キッチンから繋がるリビングで、ソファーに並んで座り、テレビを見ていた。


 ただ、この変哲もない時間を過ごす中、僕はふと思い立つ。

 夕方から業務が始まるとしても、休日の時間を惰性で過ごすには少々もったいない。

 僕らも嶺吾たちみたいに気晴らしに買い物でもいった方が、ストレス発散にもなるのでは、と。


「どうせこのあと仕事で病院にいくのなら、僕らも病院の方で買い物する? 見たいものとかあったら」

「いきます! すぐ、いきます!」


 唐突な提案に、素早く反応を見せた木下さんは、なかなかの乗り気でこころよく了承してくれた。


「着替え終わったらエレベーターホールにいればいいですか?」


 食い気味に僕の顔を覗き込みながら、うかがってくる様子を見るに、木下さんも出かけたいと思っていたのが、本心なんだとすぐに分かる。


 木下さんはマイペースながらも行動力は高く、したいことや、やりたいことが見つかったらすぐさま動くタイプだった。


「そうだね、じゃあ目安は9時前後で。あ、カップは僕が洗っておくよ」

「わかりました、ありがとうございます」


 自分の分のついでに、マグカップを回収して流しの方に向かうと、木下さんはぺこりとお辞儀した後、自室へと駆けていった。


 ベッドシーツを回収しながら部屋に戻った僕は、クローゼットの前で今着ている服から下着まですべて脱ぎ捨て、黒衣を纏った。

 そして上下の接合部を繋ぎ、襟元のボタンを二回素早く押しこむと、皮膚との間にある空気が一気にすべて抜け、体に密着した。


 ラバースーツには胸元から四肢にかけてラインが伸びており、血流が流れるように蒼白い閃光が穏やかに灯っていく。

 病院の敷地内に入る際は、応急治療などに対応できるよう業務外であっても、可能な限り着用するようにしていた。


 上から、カーキ色のスキニージーンズを履き、白い長袖のパーカーを着てしまえば、一見、黒衣を着ているとは悟られにくい。



 どうやら僕の方が一足先に着替え終わったようで、エレベーターホールで待っていると、奥の部屋の戸が開き、木下さんがこちらに歩いてくる。

 彼女の周囲にお花のエフェクトが飛び散って見えるのは、気のせいだろうか。


「お待たせしました、……ど、どうですか?」


 時間通りにやってきた木下さんは、指でおくれ毛の先をくるくるさせながら、俯き気味に問いかける。


「いやぁ、なんか――」


 僕は一瞬、口ごもってしまう、正直、めちゃくちゃ可愛い。

 可愛さを測定できる機械があるとしても、その計測器でも測れないレベルだ。


 ピンクのケーブルニットを主題とし、その下には襟元にラインストーン装飾が施されたブラウスを合わせ、下は丈の短い茶色のキュロットスカートに黒い厚底ブーツで全体のバランスを引き締める。

 純粋にかわいい! そう言いたいのだが、存在感を主張する胸部を見ると、どうも感想が言いづらい。


「雰囲気が、いいよね! 僕は似合ってると思うよ」


 僕は無難な感想を言うことで、逃げを選択した。

 しょうがないよね、嶺吾と違って、普段こんな光景を見る機会がない。


 嶺吾は毎度、こんな高度な選択式回答ギャルゲーシナリオを迫られていたのか。


「ちょっと気合い入れてきたので、もう少し、見ててもいいですよ」


 木下さんは、いたずらに両手を広げ一回転。

 キュロットがふわりと舞い、下のズボンがちらりと顔を覗かせる。

 そんなの男性なら目で追うのは当たり前だろ? キュロットはスカートじゃないから、少しぐらい見てても大丈夫だよね!


 なんて思ったが、僕の恥ずかしさが臨界りんかいを迎え、視線を逸らす。


「じょ、冗談ですよ! あんまり見ないでください! 今の発言と行動は、ちょっと大胆過ぎました!」


 恥ずかしかったのか、ピタリと回転を止め、顔をぱたぱた仰ぎながらエレベーターのボタンを押す。


 しばらく無言でエレベーターがくるのを待つが、その間のお見合いのようなぎこちない会話を少しだけかわしたが、内容はまったく入ってこなかった。 


「ほ、ほら、凛先輩いきますよ」


 恥ずかしそうに俯きながら、話しかけてくれたおかげで、エレベーターが到着していたことに、やっと気付いた。

 慌てて乗り込む形になってしまったのは、木下さんが天然の理性殺しクラッシャーと言われる所以ゆえんを間近で見たため、少しの間、放心状態になっていたからだ。



   …… ZZZ ……




 ――寮の横に位置する三階建ての立体駐車場。


 俺がカーナビで目的地を設定している中、助手席に座るひじりは、正面を見据えたまま唐突に口を開いた。


「……さっきは咲楽さくらちゃんがいたから聞けなかったけど、湧泉さんまた、悪夢見たらしいわね」

「ああ、だから今朝は部屋に居れなかったんだ、すまんな」

「……素直に非を認めるなんて珍しいわね。私もそこまで鬼じゃないわよ。……優先すべきは、二度と、湧泉わきずみさんを発症させないことだから」


 俺は横目で聖の表情を伺うと、珍しく、奥歯を噛み締めているらしい。

 普段の弱さを見せないために取り繕った澄ます表情と違うため、少しだけ心配を覚えると同時に、安心感が湧いた。


「聖も他の男にそんな感情が出せるようになったんだな。俺としては、いい傾向に向かって、うれしい限りだよ」

「……なに、嫉妬? かわいいわね、私はいつまでも嶺君のこと、待ってるから」

「はいは、いだっ」


 適当に相槌をうったからか、太ももをぴしゃりと叩かれた。


 しまった、と思い聖の方を見ると、あからさまに頬を膨らませ不満を露わにしていた。

 こういった反応を見せた聖は、自分が満足するまで面倒くさい絡み方をしてくるのは昔からよく知っている。

 流石にまずいと感じ、俺は必死に話題を変えるよう、咄嗟に、今朝、確認したことを思い出し、話題に挙げた。


「そ、そういえば凛の奴、『華凜かりん』のことは思い出してなかったみたいだぞ」

「――……そう。不幸中の幸いと言ったところ、かしらね」


 そう言いながらも、聖は俺の太ももに手を這わせる行為を止めることはなかった。


「あ、あの、……さわさわするの止めていただけますでしょうか?」

「……やめない」


 丁寧に、且つ、丁重に申し上げてみたが、頑なに、手をどかそうとはしない。


「くすぐったいのですが」

「……や、め、な、い‼」


 理由を説明してみたところで、押し問答になるだけだ。

 まあ、俺も聖もこうやってる時が、一番ストレス値を発散できるからいいが、どこからか不甲斐なさがこみ上げてくる。


 いつか、聖みたいに素直に、自分の言葉を伝える時がくるのだろうか。



   …… ZZZ ……

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