万能博物館

せらひかり

第1話

 おじを待つ間、ロビーに突っ立っているのも不調法な気がした。椅子でもないだろうか。少女は辺りを見回した。

 建物内は、分厚い扉一枚で外の雨音も湿気も遮られている。薄暗く、ぬいぐるみの体内のように柔らかい静けさに満ちていた。

「館内は、小さなお子さんは無料ですよ」

 声を掛けてきた受付の女性は、たぶん善意だった。子ども扱いされるほど幼くないと思っていた少女は、傷ついた顔を笑みで取り繕う。

「そうですか、ありがとう」

 精一杯、子どもじゃありませんからね、を込めて丁寧に答えた。

「ハイロフ教授がお越しになったら、すぐ呼びに行きますから大丈夫ですよ」

「では、お言葉に甘えて」

「地下三階、地上五階となっています。立ち入り禁止の場所には看板があるから、気をつけて」

 女性はパンフレットを渡してくれた。シンプルな館内図だ。

 受け取って、少女はふと首を傾げる。パンフレットに、分類図などがない。

「そういえばここ、何の博物館なんですか?」

 女性は、少し困ったように、頬を笑みの形に変えた。

「何かしら。教授は、万能博物館と呼んでおられますけれど」

「万能?」

「無能と仰るお客様も、おられます」

 博物館、に相応しくない二つの単語を胸に、少女はひとまず、階段と昇降機のある場所へ向かった。

               どこへいく?

 ごつごつとした溶岩の隙間に、何か光るものを見つけた。かがみこんで、ガラスケースの中に目を凝らす。

 ふた抱えほどもある大きな溶岩は、これ一つではない。まるで墓のように、いくつもの、赤や黒、白、灰色の石が乱立している。

 隕石や宝石もあった。

 磨かれていないダイヤモンドの原石には、手短かな表示板がつけられている。

 たとえば、地中でマグマがうごめき、圧力をかけられて噴出すると、地上付近で急速に冷やされて、ダイヤモンドができる。同様にしてできる宝石の名前がいくつか羅列されている。それとは別に、マグマ自体でなく、噴出途中で他の石が溶けて混ざり、新しい石になったものもあるという。または、小川を流れるうちに転がり出てくる何らかの石。

 エメラルドも水晶も、原石は、まるで近くの山で見たような、どこにでもある見た目の石だ。けれどところどころ光を美しく反射して、不思議と宝石らしさもある。

 こつ、と誰かが咳をした。少女は振り返る。さっきから、足音は一つ分。自分一人で館内を見学しているはずだった。

 耳を澄ませても、それ以上何も聞こえない。

 石がこそこそ喋っているのかと思うほど、静かで、けれど神経のどこかがざわざわしていた。

 誰か、いるのかしら。

 フロアを足早に回って、次の階に向かう。

 天井は高いのに、横の空間が広いせいで、室内はやけに平たい印象があった。

 さわさわと揺れるのは、草木を模した作り物の何か。古生代の背高い植物、最近のよく見知っている木々もある。

 近くのガラスケースには、干からびた細長い草。ケース内の但し書きと、隣に置かれた手彩色のメモが、在りし日の……生前の植物の姿を伝えようとしている。

 これまでに見たことのない、奇妙な形の木の実もある。

 あらゆるモノの死体がばらばらに並べられているようで、何らかの法則があるようでもあった。

 シダの葉にも種類がある。もこもこと波打つ葉、平らな葉。進化の流れがここに辿り着くまでに、何万年をかけたのだろう?

 生きた葉と違う、薬品の匂いが鼻を刺激した。

「不思議ね」

「君は何を知りに来たの?」

 独り言に返事があった。館内を散策していたのは、やはり少女一人ではなかったようだ。

「人間について知りたい? 生物のこと? 無機物や有機物がいい? 宇宙のなりたちはどう?」

 常連なのか、その声は答え慣れている口調で、畳み掛けるように話しかけてきた。

 少女は少し億劫になる。

「私、ガイドを必要とはしていないの。一人でゆっくり見たいんだけれど」

「ごめん。久しぶりのお客さんで、嬉しくって」

 声は反省の色を帯びた。

「何か知りたいことがあれば、そのときは教えて。答えられることには答えるし、分からないことは、一緒に考えることができる」

 変な言葉だった。少女は胸の内をそっと探る。そこから、小さな質問を拾った。

「聞いてみたいことは、あるけど」

「何?」

「貴方、誰? どうして隠れているの」

「いろいろと事情があって」

「勉強は好き?」

「わりと。知識を得るのも、天体や恐竜のことを考えるのも面白い」

「私はおじを待ってるの。今日の勉強は、ついで」

「そうなんだ。確かに、勉強はたいてい人生の脇役だね」

 どこから声がするのか。少女は辺りを見回した。けれどもすぐにやめる。姿を見せたくないものを、無理に見つける必要はない。出てきたくなったら、勝手に出てくるだろう。

 一人で館内を巡っていると、どの品物もそっくり同じに見えてくる。

 まだ、声の主は近くにいるだろうか。

「ねぇ、何か話さない? ここで生きているのが私一人だと思うと、すごく気が滅入ってきたの」

 生きていない、鉱石ばかりのコーナーよりも、生きていたものが標本となって、沈黙している方が、空気が重たく感じられる。

「そう? 楽しい場所だと思うけど」

 すぐに返事があった。

「僕でよければ、お供するよ。もし今は博物学に興味がなくても、これから何か一つでも興味の持てるものが見つかれば、君の人生の暇つぶしになるだろう」

 少女は、物陰に、自分と背格好の似た少年の姿を見たような気がした。はっきりとはしなかったけれど、ひとまず、声の主は、実体を持っていそうだ。

 そう、多分幽霊じゃない。

 博物館の幽霊だなんて、あまり考えたくない。

 生きていないものばかりの場所で、少年が幽霊だとしたら、幽霊になる前の体は――どこにあるというのだろう。

「博物学って分かる?」

 まだ回りきらない舌で、少年が問いかけた。少女は答える。

「自然物の収集と分類。入口の、紹介プレートに書いてあった」

「そうだね。そして、それがどんなものなのか。形や色や重さ。機能……」

 それらの記録、と少年は続ける。

 ガラスケースを覗き込み、少女は目を細める。

 微細な穴のある植物。表示板には簡潔に、植物の持つ名前と、採取場所、年代が記されている。

 たくさんの、保管されたモノたち。

「動物、植物、鉱物、三つの領域を統べる学問が、博物学。そこから自然史と他のものが分離されて、今はまた違う分け方をされてるけど。昔は、この三つの分類だった」

 足音が聞こえる。けれどまだ、少女は自分の足音しか聞いていない。相手の声と息遣いは、そこそこ近くにあるというのに。

「三つとも修めた者は、三界の王と呼ばれるよ」

「初めて聞いた」

「それはそう。冗談だよ」

 本当だったら面白いかなと思ったから、と少年は呟いた。

「今は流行らない趣味みたいな扱いもされるけどね。わりと、面白い学問だと僕は思う」

「貴方は三界の王を目指してるの?」

「たぶん。目指してた、かな」

「過去のことなの?」

「君は植物に興味はない?」

「庭で育てている花のことなら、興味はあるけど。古生代はまだ私には早いみたい」

「じゃあ、見て」

 声が、急に指し示した。

「次の扉、向こうへ行ってごらん」

「何があるの?」

「次の世界」

「動物はどうだろう?」

「剥製ばかり」

 思ったことを正直に言う。少年の声は困ったふうに、生体展示は動物園の仕事だからねと取りなした。

 骨、毛皮。毛皮の内側に何を入れたのか、肉はないのに体を膨らませた鳥が、それでも生前より幾分か、しぼみがちに、棚に並べられている。

 防腐処理の薬品の匂いだろうか。嗅いだことのあるような、ないような匂いが、広々とした空間のそこかしこに滞留している。

「ここで一番古いのは、どれ?」

「その生物が生きていた時代の古さで言えば、アンモナイトとか、そういった化石かな。この博物館での所蔵順で言えば、一番古いのは、コレクションの持ち主が初めて拾った小鳥の体」

「オーナーは小鳥が好きなの?」

「恐竜やアンモナイトの化石も好きみたいだけど。子どもの頃に、きれいな青色の小鳥を拾って、それを近所の先生のところに持ち込んだ。素手で運んだことを叱られてから……病気を持っていたらいけないからね。先生は、小鳥の種類を教えてくれた。広げた羽の大きさや、風切羽の数、恐竜時代の名残りの足や骨格の話をしてくれた。小鳥を保存したいと思って、その気持ちを話してみたら、先生はしばらく小鳥を預かって、病原菌がないか確認してから、剥製になった小鳥を返してくれた」

「鳥は、恐竜なの?」

「恐竜だという解釈がある」

 こつ、と靴音が響く。少女のものより、底が厚めの靴の音。体重はそれほど変わらなさそうだ。

 でも、少年の姿はまだ見えない。

「恐竜と鳥の関係で言えば、始祖鳥が有名なのかな? 恐竜より先か後か。分かれる前の祖先は同じでも、恐竜と鳥は別の枝に広がった別人という話もある。まだはっきりしないようだけれど。始祖鳥、って言われているし、その形で復元はされているけれど、鳥じゃなくて恐竜かもしれないね」

 澄ました口調で、少年は続ける。

「羽毛の欠片から、表面は想像できても、本当の肉付きなんかは、まだ、分からないんだ」

「恐竜みたいに?」

「恐竜みたいに」

 鳥の羽ばたきや、恐竜のかすかな鳴き声が聞こえた気がして、少女は耳を澄ませた。空調機の音と、自分の、すうすうとした息遣いが大きく感じられる。

 少女の緊張をよそに、少年は言葉を繋いだ。

「こんなにたくさん、いろんなものを保管し続けていたら、いずれ館から溢れてしまうと心配する人もいるだろうけれど、僕は、まだまだ資料が……品物が足りないと思っているんだ」

 だって、恐竜なんて指で数えられるくらいしかないんだもの、と、悔しそうだ。

「博物学は、少しずつ変わる。自然史だから、物の見方や解釈は変わる。でも、保存された資料や、物の形は、それほど変わらない。形の悪い剥製のせいで、その生き物が、間違って、変な形だと思われることはあっても」

「だから、たくさん保管するの?」

「そう」

 まるでここは、世界の箱舟みたいだった。

 今ここにいる自分たちが彼らを見ることはできる、けれどこの箱舟は、少しずつ中身を継ぎ足しながら、また先の未来の誰かが研究を繋ぐために、時間の海に流されるのだ。

 この箱舟の操縦士は、誰なのだろう。オーナーだろうか。

 多分、人間、の。

「そういえば、人間は、いるの? ここの、展示の中に」

 少しだけ、少年は沈黙したが、すぐに答えた。

「いる。哺乳類に連なる類人猿とか。チンパンジーやゴリラ、そしてヒトも」

 たとえば、と少年の声が遠くへ投げられる。声の届く範囲、向こうのガラスケースの中に、茶色の塊がいくつかあった。

 高山で発見された幼いヒトは、古い時代の衣服を身につけて、その時代の体をそのまま現在に保存されている。ほとんどミイラ状態のそれは、衣服にくるまれたまま、ケースの中で眠っている。

「ここにあるのは、それくらいかな」

 品物は順序よく並んでいるわけではなかった。

 扉を開けると、さっき見たような植物や、岩石に何度も出会った。恐竜にも。

 何度か見ているうちに、気後れはしなくなった。

「ちょっとずつ、皆、姿形が違うのね」

 問われるたびに少年は答えてくれたけれど、途中でふいに、眠たそうな声になった。

「ごめん、せっかく話を聞いてくれてるのに」

「こちらこそ、昼寝の時間の邪魔をしてごめんなさい」

「久しぶりにあちこち歩きすぎたから、ちょっと疲れちゃって。また来てくれたら、続きの話をしよう」

 次に来ても、本当にいるのだろうか。

「そういえば、貴方の名前を聞いてない」

 問いかけは、部屋の端の方に跳ね返って、そのまま暗がりに吸われて消えた。

「シンディ」

 名前を呼ばれて、振り返る。

「シンディ、どこにいる?」

「おじさま、ここ!」

 あぁいた、とおじが髭越しにも分かる笑みを浮かべた。

「楽しかったかい?」

「ええ。分からないことが、たくさん、増えたの」

 おじはいっそう、眩しそうに目を細めて笑った。

「それは良かった!」

「どうして嬉しそうなの? ママは、勉強して、何でも分かるようになるのがいいと言うのに」

「世の中には分からないことがたくさんある。知れば知るほど……それが、おじさんみたいな人には、嬉しいんだ。世界は広くて深くて、味わい尽くすのに時間が足りない! 大きなアミューズメントパークみたいにね」

 部屋を出て、受付のあるフロアへ行く。受付の女性が「楽しかったですか?」と聞いてきた。

「他の利用者の方とお話しました」

「あら、貴方以外に、この時間に誰か入ったかしら」

「やっぱり」

「シンディ?」

「何でもないの。おじさま」

 外へ出ると、まだ雨が降っていた。すぐ後ろで、博物館の大扉が閉まる。

「いいえ……何でもないわけじゃない。後でまた、何が起こったのかお話したい」

 閉じられた扉の向こう、石や木々や生き物のカケラたちが、眠るように休んでいる。

 二度と息を吹き返すことのないモノたちは、生きたひとのために、箱舟のある限り、残され続けていく。

「あの子はいったい、誰なのかしら」

 オーナーのことをよく知っているかのような彼。それはまるで、博物学の幽霊だった。

 少女は雑踏に紛れながら、おじの手を握り返した。

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