第十七章 先生の過去と私の誓い

五十四話 私だけへの個人授業は


「どうしよう……。失敗しちゃった……。先生になんて謝ろう……」


 部屋の中に広げた荷物を整理して、水に浸けておいた水着を洗剤で洗って一息ついたとき、両方のお部屋をつなぐドアにノックがあった。


「……はい、開いてますよ」


 自分でも声が緊張しているのが分かる。


「よかった。まだ起きててくれて……。まぁ、消灯時間はあのしおりには書いてないしな」


 先生が入ってきた。少し顔が赤い。


 お部屋でお酒を飲んだのかな。でも時間はまだ八時過ぎだから、疲れたとしても寝るには少し早いかも。


「すまなかったな、さっきは。ごめんな」


「いえ、変なことを聞いてしまった私が悪いんですから」


 買ってきてくれたジュースを持ってベランダに出た先生に私も続いた。


「なんだ、ここに来ても参考書か? もう要らないだろうに?」


「はい。それなんですけど……。先生に一つ報告したくて。私、この秋の高認(※)を受けます。そこで合格すれば先生が中卒と交際しているという目で見られなくて済みますから」


「おまえ、そんな理由だったのか?」


 先生の目が見開かれる。


「自分でも不純な動機だって分かってます。でも、それが理由で先生が周りから後ろ指を指されてしまうなら、そっちの方が私は嫌です。高認は私の意思で受けるんです。両親も驚いていましたけどね」


 それは私が自分で決めたこと。


 普通はね、就職で中卒の学歴だとなかなか希望の仕事先が見つからないとか、やむなく高校中退して、再び大学への進学を希望するなどの理由で受ける人が多い。


 でも私は違う。


 この先、先生の横に立たせてもらえるようになるため、せめて高校卒業の資格は取っておきたい。だって、先生は予備校の講師なんだもん。


 その隣にいる私が中卒ではあまりにも不釣り合いで申し訳ないから。


「敵わないな原田には……。じゃぁ息抜きだ。少しの時間、俺の昔話をしてやろう。つまらん授業だと思うから、眠たくなったら言ってくれ」


「はい」



 頷いた私に、先生はコップの中を飲み干してから話し始めた。


「原田がさっき言い当てたとおり、俺には大学時代に小室こむろかえでという同級生の彼女がいた。一年生で同じゼミになったのがきっかけだ。たまたま同郷で、お互い学校近くに一人暮らし。頭もそこそこ、運動音痴に方向音痴、おまけに人付き合いも苦手ときたもんだ。でも話してみれば、とても素直なのと同時に意思が強い子でな。グループ課題にもかかわらず、土曜日に一人でほぼ完璧に調べあげるような奴だった。どっかの誰かとそっくりだろう? 付き合い出したのは、図書館でのレポートを一緒に手分けして進めるようになってからだったな。それが俺たち双方にとって初めての両想いだった」


「はい……」


 「どっかの誰か」って、教室の授業中に先生はそんな言葉は絶対に使わなかった。


 今は私しか聞いていないから。つまり私と同じような人だったんだ。


「そんな付き合い方だったから、どちらの親も反対することはなくてな。双方の家とも、俺と楓は大学を卒業したら、一歩先に進むものだと思っていた。周囲の目も、そして俺たち自身もそうなるんだろうとお互いに思っていたんだ……」


「私もそんなお二人だったらそれが自然だと思います」


 うん、大学生で図書館で一緒にレポートを仕上げるところから交際が始まるなんて、本当にお話みたい、理想的な展開だと思うよ。



 そのうえ、お二人のアパートは偶然にも百メートルも離れていなかったって。夜遅くまで授業やレポートがかかってしまったときは、ちゃんと楓さんのお部屋まで送っていったって。今の私のユーフォリアでのお仕事からの帰り道と同じだよね。



 同じ講義を一緒に受けたり、内容を聞いている限りはとても素敵なお付き合いだと思う。


 学生の頃の先生と一緒にいられた同級生の女の子なんて、ちょっと羨ましく思ってしまう。


「ただな、結局その交際の話を最後まで実らせることは……、できなかったんだよ」


「えっ……」


 もし何かの理由で別れたとしても、周囲どころか両家公認のお付き合いであったなら、どうしてこんなにも長く心に傷が残るような作るようなものになってしまったのだろう。


 すっかり話に引き込まれていた私は、両手を握って唾をゴクリと飲み込んだ。



(※高認:高等学校卒業程度認定試験・旧大学検定のことを指します)

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