第32話
――ドラックストア。
「大人になる薬はありますか?」
光愛は店内に入るやいなや、店員にそんなことをのたまう。
落ち着いた雰囲気のお姉さんは光愛に話しかけられたのが嬉しいのか、嫌な顔せず嬉々として応対した。
「薬では大人になれないかな」
「えぇ~、なれないの~。じゃあどうやって大人の階段を探せばいいのさ」
「大人になっても大人の階段は見えないよ」
「そうなの?」
「うん」
無関係のはずのお姉さんに当たるような言い方を光愛はしたにもかかわらず、お姉さんはなんの気なしに優しく返答する。
これが大人の対応かと感心している自分がいた。
光愛は諦めたのか店の外に出る。
歩きながら光愛は俺に向かって言って来た。
「あのお姉さんはまだ大人になれてないみたい。他をあたらないと」
俺は大人だと思うのだが、光愛はそうは思わなかったようだ。
それから何人かに大人の階段がどこにあるのかを聞いて回るも、軽くあしらわれるだけで、なんの手がかりもなかった。
「もしかして本当の大人はいないのかな」
そういうことなのか? 俺にはわからない。
「そういえば、どうして大人の階段を探しているんだ?」
「それはね。わたしは早く大人になりたいの」
その時の光愛の表情はどこか輝いているように見えた。
どこか遠くを見ているようで、誇らしげで。
妹ができることを知り、頼られる兄になろうとした俺と同じように、光愛もそうなのだろうか。
行動せずにはいられなかったのだな。
「いつまでもお姉ちゃんに子供扱いされたくないもん」
「そっちか」
条件反射的にツッコみを入れると、光愛は不思議そうな顔で俺のことを見てくる。
「大事なことだもん」
悪い意味に受け取ったのか不機嫌そうだ。
「いや別にバカにしてるとかそういうわけじゃないぞ」
「ふんっ!」
そっぽを向いて態度でも不機嫌を露わにする。
「早く大人になりたいんなら、そういう態度を取るべきじゃないだろ」
「いいもん。わたしはもっと楽に大人になるから」
「どうやって?」
「なにか身に着ければなれるよ。さっきの服みたいに」
スカートを床にベッタリつけ、袖をパタパタさせ、どう見ても大人とは思えなかったが、光愛にとってはあれは大人の格好らしい。
俺は光愛が求めているであろう、身に着ける物で大人っぽく見える物を提案してみた。
「それじゃ、腕時計なんかはどうだ?」
「腕時計?」
「手首に巻くやつ」
「手首がきつそうだからヤダ」
我ままだなと思うつつも次を提案する。
「ピアスとかどうだ?」
「ピアス?」
「耳に付けるやつだよ」
「痛そうだからヤダ」
ごもっとも。
だけれど、大人はしているイメージがあるんだけどな。
「じゃあ、ネックレスは?」
「ネックレス?」
「首の周りに巻くやつ」
「着けるの大変そうだからヤダ」
確かに。
視界に入らない首の後ろでつけるから、イライラしそうだ。
……なんだけど。
「そんなにイヤイヤばかり言ってたら大人になれないぞ」
「そもそも大人の階段を探すのが本来の目的でしょ」
言われてみればそうだった。
それがいつの間にか大人が身に着ける物にすり替わっていたのだ。
光愛が言うことに納得して、大人の階段をどうしたら見つけられるか考えてみる。
「あ! これがいい」
そういって光愛が指差したのは、ショーケースに入れられていて明らかに高価そうな指輪だった。
「これは指がきつそうだからイヤだ。とか言わないのか?」
「これは別だよ。女の子の憧れなんだから」
なら、腕時計も、ピアスも、ネックレスも、その別枠に入りそうなものだが、面倒そうなのでツッコまないでおいた。
「ならそれで決まり、さっさと買って終わりにしようぜ」
これで解放されると弛緩していると、光愛が悲し気に言って来た。
「ダメだよ」
指輪を見つけたときは嬉しそうだったのに、今はその欠片もない。
「お金がない」
「アニメのTシャツなんて買うからだろ」
まぁ例え、アニメのTシャツを買わなかったとしても手に届きそうにない金額なのだが。
光愛はいやにその現実を受け止めていた。
「……どうしよう」
今にも泣き出しそうに悲し気な瞳で商品を見つめる光愛。
俺は仕方なしに言う。
「しょうがねぇな。俺が買ってやるよ」
「え⁉ 本当?」
「ああ」
そういってやるも、もちろんそんな高値の物を買うことはできない。
そのため俺は場所を移動し、代わりになりそうな物を指し示した。
「これならどうだ」
俺が指し示したのは百均にある明らかにおもちゃの指輪だ。
「こんなのダメに決まってるじゃん」
だよな。
そう納得するも、本物を買うお金を俺は持ち合わせていない。
「だけど、せっかくだから買ってよ」
セリフこそ意欲的ではないが、その表情は嬉しそうで、妥協している風には見えない。
嬉しそうな表情を見れて、なんだか俺まで嬉しくなってきた。
「しょがない。買ってやるか」
レジで購入を済ますと光愛の姉—―結愛さんがやって来た。
「光愛! こんなところにいた!」
結愛さんはありとあらゆるところを捜しまわっていたのか、ハァハァと息を切らしている。
汗で顔やら服やらがびしょびしょだ。
「……うぅ……お姉ちゃん……」
気まずそうに俺の後ろに隠れる光愛。
光愛は怒られることを怖がっているようだ。
結愛さんの必死に捜し回っていたであろう様子から怒られてもおかしくはなさそう。
「……えっと……」
結愛さんとは前に一度だけ会ったが、どういう人なのかを知らない。
光愛の怯える様子から実は怖い人なのかと思った俺は、光愛をかばう言葉を言おうとするもうまくでてこない。
こういうとき、なにを言ったらいいのだろうか。
ふと、シャツがいつもよりきつくなっているのを感じる。
なにかに引っ張られている感覚だ。
そこで、その感覚がある方に視線を向けると、光愛が力強くシャツを握っていた。しかも、ガクガクと震えているのか振動が伝わってくる。
その姿を見た俺は光愛は結愛さんに怯えていると思い、結愛さんに対抗する体勢を整える。
この人は光愛にとって敵なんだ。
そう確信する。
光愛をかばうように手足を広げ、結愛さんが光愛に触れさせないよう努める。
結愛さんは俺のその動きをなにか場違いなものを見るかのような目を向けてきているが、気にしない。
見たところ、小学4年生ぐらいであろう結愛さん――未だハァハァと息を切らし、疲れているうちに先手とばかりに俺は言う。
「あの!」
「……へ?」
まっすぐ結愛さんを見据え、敵視した瞳で
不思議な光景を目の当たりにしているとでも言いたげに不思議そうにこちらを見てくる結愛さん。
「光愛をあまり責めないでください」
その場に沈黙が流れる。
息を整え終えた結愛さんは腰に右手を当てて、本気で俺が何を言っているのかわからない感じに言った。
「君はなにを言ってるの?」
「……え?」
なんだろう。この場違い感。
俺だけ取り残されているこの感じは。
「いや、光愛のことを怒ってるんじゃ……」
「私が⁉」
「……ええ」
「確かに突然いなくなって、捜し回ったのは事実だけど、別に怒ってはないよ」
「……あ……え? じゃあなんでこいつがこんなに怯えて……」
不思議に思い、後ろを振り返って肩越しに光愛を見ると、もじもじとどこか恥ずかしそうにしている。
「……おしっこ……お姉ちゃんの顔を見たら、ほっとして、おしっこしたくなってきちゃった……」
場になんとも言えない沈黙が流れる。
俺は半場八つ当たりとばかりに叫んだ。
「さっさと行ってこい!」
俺の声に押されるように足早に近くのトイレへと駆け込む光愛。
光愛が震えているように感じていたのはガクガクという怯えではなく、もじもじという放尿を我慢していることによるものだった。
シャツを引っ張っていたのはトイレに行きたい意思を伝えるためだったようだ。
なんだよ。
結愛さんは怒っている素振りは一切なく、代わりにふーと
結果として、心優しい姉に光愛を届けられたと知った俺は、その場を去りスイミングスクールへと向かった。
その後、俺はあんなに振り回されたにもかかわらず、光愛に会えないかとこっそりピアノ教室を覗いたりしたけれど、会うことはなかった。
再会するのは10年後。
しかも、俺は再会したことにすぐには気づかなかった。
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