第26話

 俺は本来の目的である光愛みなのお見舞いを完遂すべく、光愛の部屋へと向かった。


 玄関を通り過ぎ、階段を上り切る。


 そして、部屋の前に差し掛かると、扉の前にリンゴが置いてあるのが目に入った。


 リンゴは8等分サイズで4切れ。白い皿に載せられ、ラップで皿ごと包まれている。


 俺に運べということだろうか。


 仕方なしにリンゴが載せられた皿を拾い上げてから、光愛の部屋の扉をノックする。


 返事はなかった。


 寝ているからだろうと思い、返事を待たずに、光愛の部屋の中へと入る。


 返事を聞かずに女子の部屋に立ち入っているのは背徳感がある。だが、いつまでも部屋の前でたむろしているわけにもいかない。


 部屋に入ると思った通り光愛は眠っていた。


 着替え中だとかでなく良かったと、ほっと胸を撫で下ろす。


 扉を閉め、ローテーブルに皿を置こう――


 ――としたところで、とんでもないものが目に入る。


 ただそれは、女子の部屋である以上決して不自然ではない。


 むしろ、不自然なのは俺がこの部屋にいるという事実だ。


 あろうことか床に女性物の下着が落ちていた。また、その下には光愛が着ていたはずの制服がある。


 俺がいない間に着替えたのだろうけれど、見てはいけない物を見てしまった申し訳なさから、光愛が起きる前に、下着を見たことがバレる前に、部屋を出ようとしたその矢先。


「んぅ~。純慶さん。おかえりなさい」

「……た、ただいま」


 光愛が起きてしまった。


 寝起きで頭が回らないのか、俺が下着を見てしまったことに気付いてはいなさそうだ。


 光愛は上体を起こし、布団を折るようにしてどかす。


 そのまま大きく両手を上げて伸びをしたところで――


 ――光愛が上半身裸であることに気づく。


 そう。


 光愛は着替えたわけではなく、ただ服を脱いだだけだった。


 華奢きゃしゃで白い肌が無防備にさらされているという状況に、口をあんぐりとして固まっていると、その反応でようやく気付いたのか、視線を自身の上半身へと向けると、


「ひぎゃぁぁぁぁぁぁああああああ」


 全力で叫んだ。


 顔を耳まで真っ赤にし、布団にくるまって言う。


「どうして純慶さんがいるんですか?」

「いや、光愛がいちごミルク欲しいって言うから買って来たんだよ」

「わたし、そんなこと頼んでません!」

「あれ? そうだっけ?」


 思えばあれは寝言で、はっきりと頼まれてはないな。


 にしても、酔っ払いみたいな喋り方はもうしないのか。


 あれからそこまで時間が経っていないというのに。


「それで、いちごミルクはどこですか?」

「ああ」


 俺はリュックサックからいちごミルクが入った500 mlのペットボトルを取り出し、光愛に渡した。


 すると光愛は、それを手に取り見るやいなや。


「これじゃない」

「は? いや、いちごミルクだろ?」

「そうだけど……そうじゃない」

「いや言ってる意味がわからん」


 本気でわからない俺。


 だけれど、光愛はすぐにはその理由を教えてはくれず、病人らしくぼーっといちごミルクが入ったペットボトルを眺めている。


 そんな光愛に俺はなにも声を掛けられず、だからといってその場から去ることもできず、ただただ光愛の様子を窺った。


 数十秒程経ってから光愛がわがままを言う子供のように俺に指示を出す。


「ストローを取って来てください」

「は?」

「ストロー……それがあれば飲めます」

「いや、なくても飲めるだろ」


 至極真っ当なことを言ったつもりだが、光愛は受け入れないと言わんばかりに不機嫌そうに睨んでくる。あくまで駄々をこねねる子供のように。


 どうやら酔っ払いの次は幼児化したようだ。体格が体格だけにこっちの方がよく似合う。


「わかったよ」

「ママに言えば出してくれますから」


 こうして俺は光愛のわがままを叶えるべく、光愛の部屋を出て、階段を――


 ――下り切ったタイミングで光愛母が「はい!」とストローを差し出してきた。


 いや、なぜ?


「光愛、ストロー好きだから」

「あ、そうですか」


 詳しくは聞かないことにした。


 回れ右して、再度光愛の部屋へと向かう。


「ファイト!」


 なにを?


 背中にむずがゆくも熱い声援を受ける。


 部屋に戻ると光愛が、パンツを穿こうと片足を上げているところだった。


 瞬時に開けた扉を閉じ、光愛に問う。


「どうして下着を履こうとしているんだよ」

「むしろ全裸で布団に入っている方が不自然ですよね」


 至極真っ当なことを言われてしまった。


 そもそもとして自ら全裸で布団を被っていたのは光愛なんだけれど……そこを追及しても仕方がないし、寝るときは服を着た方がいい。


 風邪を引いているのだから尚更だ。


 ……ただまぁ、待って欲しい。


 そもそも光愛はなぜ全裸になっていたのだろうか。


「なぁ光愛?」

「なんでしょう? 純慶さん」


 扉越しに服ずれの音がする中、俺は率直に訊いてみた。


「なんで全裸で寝てたんだ?」

「それは風邪を引いた時に全裸だったからです」

「は?」


 訊いても理解ができなかった。


「風邪を引いた時が全裸だったので、全裸になれば風邪が治ると思ったんです。どうですか? 天才でしょ?」

「いやそれ、なにか忘れてたことを思い出すのにするやつ。決して風邪を治すのにすることじゃない」

「え? でもこの前風邪を引いた時はこれで直りましたよ」

「それは全裸でも体が冷えないようしっかり布団を被っていたからだろ」

「……確かに……ポカポカして温かった記憶があります。でも、熱くなりすぎて何度か布団を蹴った記憶もあります。それでもちゃんと治りました。……なぜでしょう?」

「………………」


 俺には答えがわかる。


 ……が、あえて答えず、黙ることにした。


 おそらくは光愛母がこっそりと布団を追加でかけ足したのだろう。


 そして光愛が布団を蹴飛ばしてどかすことを予想していた光愛母が幾度かかけ直しに来ていた。


 俺が嘆息し、脱力していると、背後から階段を上る音がして振り向く。


 すると、端にタオルをかけた洗面器と、おそらく乾いているであろうタオルを手に持った光愛母がいた。


 光愛母は穏やかな微笑みを浮かべて近づいてくる。


 そして俺の正面でピタリと止まり、洗面器とタオルを渡してきた。


 特に受け取らない理由のない俺は、その行動を不審に思いつつも受け取る。


「はい! よろしく!」


 用は済んだと言わんばかりにそそくさと階段を下り、その場から去って行く光愛母。


 俺は洗面器に入ったお湯を眺めつつ、光愛母の行動を不審に思っていると、光愛がぼやいた。


 その発言は俺に聞こえるように言っているのかは定かではないが、俺の耳にしっかりと届く。


「それにしても服を着ると体のべとつきが気になるな。……でも、風邪が治るまではお風呂もシャワーもやめておいた方がいいだろうし、どうしよう」


 それを聞いた俺は瞬時に理解した。


 光愛母がこのタイミングで洗面器を持って来て「よろしく」とだけ言って去っていったことを。


 ああ、これは……俺に光愛の体を拭けってことか。


 光愛母の行動を理解した俺は、ははっと乾いた笑みを浮かべる。


 これから女子の――恋人である光愛の体を拭く。言わば清拭せいしきをするんだと思うと、恥ずかしい。


 だが、任された以上、やらないわけにはいかない。

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