第25話

純慶すみよしは大きくなったなぁ~」


 幻聴が聞こえてきた。


 中年のおっさんを思わされる渋い声だ。父さんの口調にそっくり。


 どうやら俺は光愛母と愛春の会話を聞いて疲れたようだ。


 疲労で父さんの声そっくりの幻聴が聞こえてくるあたり、俺もまだまだ親離れできていない子供なのかもしれない。


「愛春も動物を思いやれるいい子で……は嬉しいぞ」


 は?


 誰が誰の父だって?


 不可解すぎる言葉に驚き、声の出所でどころを求めて辺りを見回す。


 家の中ではなさそうだ。


 では外かと思い、見渡す。


 ブロック塀に囲まれた広い庭。犬が駆け回れるようにと考えられて作られたのかもしれない。


 すみには積まれたレンガに守られるようにして紫陽花あじさいが咲き誇っている。


 まさか紫陽花が喋るわけあるまい。


 かといって、庭にも道路にも人の気配すら感じない。


 不思議に思うも、もはや幻聴だと断定するしかない。そう考え、光愛の部屋へと移動しようと動き出す。


「どうした純慶。まるで怪奇現象にでも遭遇したような顔をして」


 声がする方—―足元に視線を向けると、犬がいた。


 光愛の家で飼っている犬、ソウ。


 ソウは俺の進路を塞ぐようにして、玄関の前でおすわりをしている。


 舌で唇を舐める。舌なめずりをして待ち構える姿は、さも犬らしく見えるが、その仕草は父さんがなにかを始めようと息巻いている時にしていたことだ。


 不思議なことに父さんと犬を重ねて考えてしまう。


 なにをバカなことを。重ねたところでどうなるわけでもない。


 俺は気持ちを振り切るかのように光愛の家へと歩を進めて、ソウの横を通り過ぎていく。


 完全にソウを無視した。


「せっかく再会したっていうのに、連れねぇなぁ」


 背後から声がする。


 もう振り切って光愛の部屋に向かおうとしていたのに、反射的に振り向いてしまう。


 そして振り向いた先にソウがいて、


「なんでぇ。家ん中入るんじゃねぇのかよ」


 ソウはおすわりを止め、腰を上げ、しょんぼりとして、犬小屋のある方へと歩いていく。


 俺はその後を追いかける。ソウは犬小屋の出入り口手前でこちらを振り向き、俺と対面する。


「久しぶりだな。純慶」


 明らかに犬であるはずのソウが喋っている。


 しかも俺の父親と同じ口調で、さも俺の父親だと言わんばかりに、その状況に不審感を抱くも、試しに会話を続けてみる。


「……父さん。……なのか?」

「おう。そうだ」

「どうして……犬なんかに……」

「それは、オレもわからん。気づいたらこうなってた」

「なんだよ。それ」


 はたから見れば犬と会話をしているという状況。


 にわかには信じがたい。


 夢かもしれないし、幻かもしれない。


 それでも父さんと再会できたと感じられることがただただ嬉しかった。


「まぁただ1つだけわかることは――」

「わかることは?」

「この犬はオレが助けようとした犬だ」

「なんでわかるんだよ⁉」

「大きな垂れ耳にアホ面、間違いない」

「そうかよ。っていうか犬なんか助けてたのかよ」

「……ああ……忘れもしない。車にかれそうになっているから助けに入ったというのに、軽く跳躍して自分だけ助かりやがった。しかも、オレを踏み台にしてだ。そんで気づいたらその犬になってるって、どんな嫌がらせだ」


 父さんは空に向けて口を大きく開けては閉じを繰り返して怒りを顕わにする。


 それはまるで天から見下ろしているであろう神様に嚙みついているようだ。


「もうこんな生活は嫌だ。せめて、せめてオレを家に帰らせてくれ~」

「なんだよ。いいじゃんか。犬の生活なんか滅多のできるもんじゃないだろ」

「オレは犬になりたかったわけじゃない。人間に戻りたい」


 父さんは情けなくも泣き出した。


 プライドはないのだろうか。実の息子の前で号泣して恥ずかしくはないのだろうか。


 もしかしたら犬になったことで失ってしまったのかと考えてみるも、父さんは特にプライドの高い人ではなかったことを思い出す。


「そもそも、もうあの家はないぞ」

「な、なぜだ!」

「なぜって……母さんが働くようになったから、それで引っ越したんだよ」

「うむ。なるほどな。……ところで、純慶。おまえ、行かなくていいのか」

「あ?」

「あの娘の見舞いに来たのだろう?」

「あ! そうだった。早くしないと母さん帰って来ちゃうじゃねぇか。保育園に慶太を迎えに行かないとだし、あ”~」

「うっかりさんだな」

「うっかり車に轢かれて死んだ父さんに言われたくね~」

「正義のヒーローは犠牲をいとわないのだ」

「その犠牲になったのは当人より家族の方だけどな!」

「まぁいいじゃないか、オレ。かっこいいだろ!」

「なんで死んでなお、ドヤ顔でそんなこと言えるんだよ!」

「死んでもなお生きているオレって、生きる価値があると思われている」

「逆に天が父さんの魂を拒んでいる可能性もあるけどな」

「いいから行ってこい! こんなところで油を売ってどうする!」

「言われなくても行かせてもらうよ」


 犬が喋り出し、しかもその犬の中身が父さんで、困惑する気持ちがある。


 でも、喋ってみると父さんであることを感じられ内心ほっとした。


 どこかふわふわと夢心地を感じながら家の中に入ろうと足を向けると、その先、玄関ホールでいぶかな目をこちらに向けている愛春がいた。


「お兄ちゃん、誰と話してるの?」

「あ、いや……」


 犬と話しているとは言えず、言いよどんでしまう。


 それでも俺は、なにか答えなければいけない気がして、咄嗟とっさに自分でも変なことを言ってしまった。


「光愛と話す練習をしてたんだ」

「いつも話してるのに練習が必要なの?」


 ごもっとも。


 なんだけれど、これで終えてしまっては嘘を吐いたことも無為になってしまう。


 だからこそ続けた。


「元気な光愛なら問題ないんだが、体調を崩しているとなると、だな。俺も調子が崩れるんだ。ほら! いつもケンカばかりだと、片方が元気ない時、もう片方がやりづらい、あれ」

「なんかよくわかんないけど、早くしないと陽が暮れちゃうよ」

「お、おう……」


 愛春は俺の言葉を聞いて満足したのか、元居た居間へと消えて行った。


 ふと父さん――ソウを見ると、伏せした状態で大きなあくびをしていた。


 誰のせいでこんな言い訳する羽目になったと思っているんだか。

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