第24話

 愛春との茶番を終え、荷物をリュックに詰め、光愛の家へと向かった。


 光愛の家に向かうのは本日2度目。1日の内に2度目ともなると迷わず着くことができた。


 庭に面した戸の前に立つと、玄関前に犬がいるのが見える。


「あ、お兄ちゃん。犬がいるよ」

「そうだな」


 愛春への返答もそこそこにインターフォンを鳴らす。


 インターフォンは玄関前にもあるが、なにも言わずに庭の中に入るのは気が引けたため、庭に入る前のインターフォンを押す。


 すると中から光愛母が出てきた。


「お帰りなさい」

「ただいま!」


 訪ねて来た人に言う言葉ではない。


 柔らかな笑みを浮かべて快く迎え入れてくれる、光愛母。


 それに対して小学生らしく元気に挨拶を返したのは愛春だ。


 初対面であるはずなのに気後れせず、ハキハキとしている。


 片手を上げている姿は某人気漫画—―アラ〇ちゃんを想起させられる。


 その内、口癖を「バイちゃ」にしそうで兄としては怖い。


 光愛母は俺たちがいる方へと向かってくる。


 特にこれといって、光愛母が俺たちがいるところに到着するのを待つ理由はないだろうと思い、俺は戸を開け庭に入る。


 庭に入った途端。


 愛春が犬に向かって走り出した。


「おい。愛春」


 俺が静止するのも聞かず、一直線だ。


 光愛母の横を通り過ぎ、犬がいる方へと向かう。


「あらあら」


 庭の丁度真ん中あたりにいた光愛母は微笑ましい光景だとでもいうかのように犬へと向かっていく愛春を目で追っている。


「すみません」


 俺は走って追いかけるのも迷惑な気がして、とりあえずとばかりに、光愛母に早々と謝罪した。


「いいのよ」


 光愛母は本当にまったく気にしていない。むしろ、元気な子供の姿が見れて嬉しい。


 そんな空気感を漂わせて、ゆっくりと愛春が走っていった、犬がいる方へと向かう。


 俺は光愛母よりも早く愛春のところに着くように急ぐ。走ることはなく、早歩きで。


 犬を触りまくって、犬毛がぐしゃぐしゃで大変なことになる前に。


 そう考え、愛春の下に着いて、颯爽さっそうと愛春を抱き上げる。


「ダメだぞ。ひとんちの犬を勝手に触っちゃ」

「まだ触ってないよ。それよりお兄ちゃん。お犬さん、泣いてる」

「は? そりゃ犬なんだから鳴きもするだろ」


 鳴き声は聞こえないけれど。


「そうじゃないの。見て!」

「あ? ん⁉」


 愛春に促されて見てみると、本当に泣いていた。しくしくと人間と変わらず。


 涙を流し、右手で涙を拭っている。


 その姿は犬にあるまじき行動ではないだろうか。知らんけど。


 ただまぁ、こうまじまじ見ると、人間に見れなくも…………いや、ないな。犬だ。


「ところでお兄ちゃん。漢字の問題で『犬がなく』のなくを漢字で書く時『さんずいに立つの、泣く』と『口に鳥の、鳴く』どっちにしたらいいかな?」

「そりゃ『口に鳥の鳴く』だろ」

「だけど、このお犬さんの『なく』には人間と同じ感情がこもってると思うんだよね」

「まぁわからなくもないが、『犬が泣く』だと不正解になるぞ」

「それだとお犬さんが可哀想だよ。ちゃんと感情込めて泣いているのに」


 愛春の言葉が理解できるのか、犬は水量を増やし、うーと大洪水な泣きをする。


 愛春の疑問にどう答えたらよいかわからず、困惑していると、光愛母が俺の代わりに答えてくれた。


「それもそうね。それなら今日この時からどちらも正しいということにしましょう」

「そんなことできるの?」

「ええ可能よ」


 いや無理だろ……。


「そもそも言葉なんてものは人間が勝手に作ったもので、本来とは違った使い方を皆がすれば、それが正しいものになるの」

「そうなんだ」


 あながち間違っちゃいないのだろうけど……簡単に信じないでくれ。


「それじゃ愛春が犬のなくは『さんずいに立つの、泣く』と『口に鳥の、鳴く』の両方があって、その両方が正解だと言い張って、皆がそれを使うようになれば――」

「愛春ちゃんが言ってることが正しいことになるわ」


 いやならん。


「もしそうなったら愛春ちゃんはその言葉の発案者ね」

「……なんか愛春……すごい人みたい……」

「実際すごいのよ」


 さすがに話が大仰すぎて不審がっているのか、愛春は人差し指を口元に当て首を傾げて問う。


「愛春、すごい?」

「ええ。きっと将来は立派な大統領ね。今から楽しみだわ」

「大統領? ……って誰?」

「とにかく偉い人よ。世界のトップと言っても過言じゃないわ」


 いや過言だ。


 さりげなく大統領制をとっている国の方が自国より上だと言っていることに、この人は気付いているのだろうか。


 そもそも国同士で上も下もないだろうに。


 なんかこう話を聞いていると、この人はまさしく光愛の母なんだなと痛感させられる。


 独自の世界を持っているというか、マイペースというか、天然というか……もうどこからツッコんだらいいのかわからない。


 マイワールドに引き込もうとしている。


 愛春は愛春で光愛母を信じているようだ。


「愛春、大統領になる!」


 どうやら将来の夢が決まったようだ。


 無謀とも言える夢だが……どうせ目指すなら総理大臣にしてくれ。


 まぁそれも、大きすぎる夢に違いはないのだが、まだ自国なら可能性はあるはず。


「それじゃたくさん勉強しないとね。なにか聞きたいことある?」

「ん~。……お犬さんの名前」


 初っ端から勉強とは一切関係のない質問をした、愛春。


 それに対して、光愛母はなんの疑問も持たずに淡々と答える。


「ソウよ。走るって書くの。だけどそれだと読みづらいから皆、書く時はカタカナでソウにしてるわ」

「確かに読みづらいよね」

「そうなの。だからね。愛春ちゃんが大統領になったらこれも変えてくれる?」

「わかった! 任せて!」


 いや任されるな。


 そんな感じでどんなに頑張っても不可能であろうことを、さも頑張れば実現できるかのように光愛母が言って、それを愛春が「頑張る!」の一言で返す。


 明日からここでした約束を実現しようと励んでしまいそうで怖い。


 そうこうしているうちに、光愛母と愛春は玄関から家の中に入っていた。


 そのまま左に曲がり、おそらくは居間であろう部屋に入ろうとしている。


 俺は光愛母が愛春にこれ以上変なことを吹き込まれないよう制止すべく後を追うかけようと動き出したその瞬間。


 光愛母と目が合う。


 俺と目が合っていることを愛春にバレないよう、うまく一瞬のスキを突いて。そして、さもずっと愛春を見てましたと言わんばかりに、部屋へと消えていった。


 俺は一瞬ではあったものの、光愛母の瞳から「光愛と2人きりにさせよう」という意図が伝わって来た。


 変なことを教え込まれそうで愛春のことが心配ではあるが、そもそもの目的は光愛のお見舞いだ。


 愛春を部屋に入れ、病人である光愛の前で騒がれても困る。


 風邪が移っても面倒だし。


 今更ながら愛春を連れてきたのは間違いだったことに気が付く。


 無理やりにでも置いてくるべきだった。

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