第102話 抱きしめて
「今までで一番きれいになってますね。航平さん、大丈夫なんですか? たくさんあった書類とか……どこへ?」
「適当に積んでただけなんだ、地層みたいに。脳内を整頓するために書き出してるだけで、アイデアの欠片でしかない。でもまあ捨てるのは忍びないから、全部学校にあるスキャナーでデータにすることにした」
「あの手作り巨大スキャナーに持ち込んだんですね、なるほど。驚きました。リビングの床が見えてるから」
「そうなんだ。数年ぶりに見た」
航平は苦笑した。
あのあと航平は結局、芽依に宥められ大阪に仕事に行った。
「惑わされては晶子の思惑通り」……芽依の言葉が心にしみた。本当にその通りだと思った。仕事しながらも芽依のことが気になったが、近藤に逐一連絡を入れさせて無理矢理落ち着いた。
皮肉にも東京に早く戻りたい一心で、今までで一番集中できた気がする。
そして基地に戻り、ずっと基地を片付けていた。
転がっていた紙をすべて学校に持ち込みデータ化することにしたのだ。
学校にある巨大スキャナーは紙束を箱に投げ込めばサイズや紙質を自動判別してデータ化する優れものだ。
まあ俺が作ったんだけど。
一枚一枚紙を入れるなんて時間の無駄だ、やってられるか。
他にする仕事は山のようにあったが、ただ基地の掃除がしたかった。
ただ落ち着かなかったんだ。会う日が近付くと仕事が出来るコンディションじゃなくて……ただ箱を軽トラックに投げ込んだ。
畑で使っていた軽トラで何度も往復してそれを学校に運んでスキャンした結果、地層のように積み重なっていた紙は消えた。
上着を脱いでネクタイを緩めて取ると、芽依と目が合った。
「航平さんのスーツ姿。やっぱり好きです」
「着たままのがいいか」
「いいえ、私も着替えたいですし。この服脱いでもいいですか? シャワーを浴びたいです」
芽依はクルリとまわって見せた。
芽依は今日、航平が準備したシンプルなスーツを着ている。
美しくて似合っているが、家では暑苦しいだろう。
「着替えるといい。もう何もしたくない。食事も数回分置いてあるし、風呂も掃除した。あ、部屋着も買った。芽依に着てほしくて」
「ありがとうございます。うれしいです。じゃあちょっとシャワー浴びてきますね」
そう言って芽依は航平が準備した部屋着を持ってお風呂に消えた。
この基地は誰一人入れないと決めていたので、掃除も洗濯もすべて自分でしている。
自分のものは自分で管理したい。実家のように誰かに自分のことをさせるのは、元々好きでは無かった。
しかし……航平はソファーに座り込んでため息をついた。
相変わらず晶子は狂ってんな。
昔からそうだった。自分の思い通りにならないと見ると全力で邪魔をしてきた。
それに抗うのが本当に面倒で、時間の無駄で、いう事聞いていれば好きな仕事も出来るしと無視し続けてきた。
そして増長させた結果がこれだ。
人を人だと思わぬ支配力。……気持ち悪い。ため息をついてソファーに転がった。
「……航平さん? 大丈夫ですか?」
気が付くとソファーで少しウトウトしていたようで、髪の毛をタオルで包んだ芽依が部屋着を着て出てきていた。
部屋着はシンプルなワンピースでとても可愛い。似合っている。
航平はすぐに体制を戻して横に座るように促す。
芽依は部屋着の胸もとを引っ張ってほほ笑んだ。
「このワンピース。すごく柔らかくて着心地がよいです、ありがとうございます」
「芽依に良いと思って買った。気に入ってもらえて良かった」
芽依は嬉しそうに航平の横にちょこんとすわった。
部屋着のワンピースは柔らかい綿で繋ぎ目なく作られているもので、着心地が良さそうだった。
芽依はいつも首の後ろのタグを丁寧に取っている。くすぐったいのだろう。
だからこういうものを好むんじゃないかと考えて買ってきた。
今まで誰かのことを考えて買い物をしたことなど無かった。でも芽依はこれが好きかもしれない、芽依はこれが似合うなと考えてる時間が最も楽しくて、気が付くと色々買ってしまう。芽依のことを考えたいんだ。そしたら頭に芽依の笑顔が浮かぶから。
髪の毛を乾かすと芽依はクルリとふり向いて笑顔を見せた。
「ああ、すっきりしました」
「俺も入ってくる」
シャワーを浴びて戻ると芽依がドライヤーを持って待っていた。その目はキラキラと輝いていて可愛い。
そして航平の髪の毛を丁寧に優しく乾かしてくれた。実はこんな風にゆっくりするのは付き合い始めて初めてだった。
あまりに忙しくて夜はただ眠るだけで、旅行にも行けてなかった。でも今日と明日は……何もしたくなかった。ただ芽依と一緒に居たかった。
かちりとドライヤーを止めて芽依は航平の顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いです」
「芽依……すまない。嫌な思いをさせた」
航平はため息と共に吐き出すように言った。
ずっと怖かった。普通は晶子に会ったら「もう嫌だ」と離れていくだろう。
晶子が持ってきた見合い……考えるだけで身体が震える……芽依が他の男と……想像するだけで息ができない。
でもそのほうが、こんな面倒な目には合わないのだ。そんなこと知っている。
だって芽依は菅原の権力にも金にも、何にも興味がないのだ。ただ俺に好かれたがゆえに、下らない戦いのトロフィーにされてイヤな思いをしてるだけ。
だからずっと晶子に、いや……菅原の人間たちを接触させたくなかった。
でもそんなこと言っていられない。みんなどんどん芽依に近づく。
止められない、それが怖かった。
航平は染み出すように言葉を吐く。
「それでも芽依が……」
「芽依が?」
顔をあげると静かにほほ笑む芽依が居た。
航平は心の真ん中が崩れ落ちるように芽依にしがみついた。
ずっと芽依が晶子と話すのを聞いていた。
あることないこと適当なことを吐き出すのを、殴り飛ばしにいきたくなるのを必死に押さえて聞いた。
もうイヤでイヤで仕方なかった。でも芽依は……。
「あんなのと話しても俺が好きだって、言ってくれた」
くれた言葉の数々が、心の真ん中に宿った。それはどうしよもなく嬉しい言葉だった。
芽依は航平の頭を優しく撫でた。
「はい。好きですよ。航平さんが好きです。とても」
そう言って芽依は航平の頬を両手で包んだ。
その手は小さくて細くて、それなのに温かくて……この手に触れていると、どうしようもなく落ち着く。
この手を失うのが怖い。無くても平気だったのに、もう無かった時に戻れない。
航平は芽依の手の上から、自分の手を重ねて口を開く。
「芽依は何も悪い事してないのに、面倒なことばかりだ。芽依にもう嫌だと言われるのがイヤで、失うのが怖くて、怖くて仕方なかった」
「私は離れませんよ。航平さんに嫌われないかぎり」
「ありえない!!」
「はい。うれしいです。私も航平さんが好きなんです。こんな楽しい人、他にいませんよ。いつも楽しい。坂道転げまわってるのはちょっとわからなかったですけど……ドローン大会の時の楽しそうな顔が忘れられません。そして子どもたちに教えている真剣な表情。篤史や竜也を見守る姿勢もどれだけ忙しくても誰かに聞かれたら立ち止まる所も。説明が下手なのに、それでも頑張る所も。いざとなったらいつも守ってくれるところも好きです」
言ってくれる言葉のすべてが嬉しくて、芽依にしがみ付く。
仕事ではない、菅原でもない、樹航平のことを、芽依は好きだと言ってくれている。芽依は航平の背中を優しく撫でながら話を続ける。
「航平さんは元気な顔とは裏腹に、心の真ん中に大きな湖がある人。実は私、そこに触れるのが実はとても落ちつくんです。私もきっと同じだから。そこに一緒にいたいんです。あなたは静かで強くて優しい人。もちろん家のことは面倒だなあと思いますよ。ないほうがいい。でもそんなの航平さんの魅力の前には些細なことです。私は毎日航平さんに恋してます。あなたが好きですよ」
嬉しくて嬉しくて涙が溢れる。
心の奥の方、静かな場所に芽依が笑顔で座っているのが分かった。
この気持ちを言葉で伝えるなんて無理で、静かに首を振る。
「俺も芽依が好きだ、でも好きなんて言葉より、好きなんだ、うまく言えない」
「大丈夫ですよ。ほら、私が涙を拭けます。航平さんには、もう私がいますから。大丈夫です。私がどこにもいかないと、自信を持って、私を愛してください」
芽依はタオルを持ってきて涙を拭いてくれた。
あの屋上で、芽依が言った言葉を今も覚えている。心で泣かないで顔で泣いて。そしたら誰かが拭いてくれるから。
ウソつくんじゃない。芽依は俺が泣かなくても、涙を拭いている。
心の奥で、俺さえも気が付かずにため込んでた場所に、もう座り込んでるじゃないか。
細い腰を抱き寄せて、ずっとずっと言いたかった望みを口にする。
「……結婚して芽依。ずっと俺と一緒にいて。芽依しかほしくない」
「私は学長の航平さんも、ネットで見るお仕事顔の航平さんも、帰ってきてすぐに倒れて寝ちゃう航平さんも、ご飯食べながら嬉しそうな航平さんも、お風呂あがりの航平さんも、ぜんぶほしいですよ。だから私も航平さんと結婚したいです。年を取る航平さんも見たい、一緒におじいちゃんとおばあちゃんになりたいです。すごく楽しそう」
「芽依はずるい。芽依は、すごく俺を喜ばせる、そんなの俺は言えない、俺のが絶対好きなのに、言葉がない」
いつも思っていた。航平のほうが絶対芽依を好きなのに、どうしてこんなに言葉が足りないのだろう。
伝えられない、このどうしよもない気持ちが、全然伝えられない。
芽依は航平の肩にコテンと頭を乗せて口を開いた。
「じゃあキスしてください」
「うん」
言われるままに芽依の唇に口づける。何度してもキスは気持ちが良い。
芽依の唇は薄くて柔らかい。夢中でキスしていると、芽依が首を反対側にコテンとして航平のほうを見た。
「首にも」
芽依の細くて白い首。
吸い寄せられるように柔らかい首に口づける。
柔らかくて甘くて良い香りがする……これ以上は……。
航平は言葉を吐き出した。
「……芽依、駄目だ、したくなる」
「はい。誘ってますよ」
芽依はいたずらっ子のように目を細めて笑い、航平の頬に優しくキスをした。
めちゃくちゃ可愛い……くそ……。
ずっとずっと我慢していた。全部知って、その後に芽依が居なくなったら? そんなのもう……おかしくなってしまう。
だからずっと抱けずにいた。大切で、怖くて、絶対離れたくなくて。
でも芽依は……本当にどこにも行かないのか? 芽依はずっとここに居てくれるのか?
本当にもう、好きになってもいいのか、これ以上、好きになってもいいのか。居なくならないのか?
そう信じて、自分の真ん中に芽依を入れてもいいのか。
声が震える。言葉にならない心を吐き出す。
「……芽依、芽依はズルいんだ、芽依はズルい、ズルくて、手離せなくなってしまう」
「離さないでください、ずっと。航平さんは分かってない、私、本当に航平さんが好きなんですよ。離してなんて、あげないですから。晶子さんの言う通り私……」
二度と聞きたくない名前を押しつぶすように、航平は芽依を押し倒した。
そして全てを奪うように深く口づける。
奪い尽くすようにキスをして、唇を少し離すと、芽依は顔を真っ赤にして抗議した。
「航平さんっ……いきなり……」
「芽依、俺といて。ここに、ずっといて」
「……はい」
ほほ笑んだ芽依の首筋にキスをして抱き寄せた。
絶対離さない、芽依との未来を諦めない、芽依を愛してる。
芽依が離れないなら、俺はもう何も怖くない。
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