第100話 計算された遭遇
「よいしょっと」
芽依は電車の椅子に座り、文庫本を取り出した。
菅原学園には今も電車で通っている。蘭上も航平も車で送り迎えしたがるが、単純に電車のほうが早いのだ。
車は渋滞に巻き込まれると時間の予測が付かなくなるから苦手。
芽依は時間を守れないのがストレスで、待ち合わせに遅れてしまうのでは……といつもドキドキしてしまう。
授業開始時間は決まっているので、それを守れない可能性があるのは辛い。
車で行くならかなり早くに動きたいのだが、その早い時間に車で迎えに来てもらうのがイヤなのだ。
だから電車で移動したほうが安心できる。電車ならどこかの路線が停まっても、何かしら方法がある。
それに電車の中が一番本が読めるのも好きだ。
静かに揺れる電車の中は集中して文字を追える。
莉恵子ほど多種多様な本を読まないが、航平や小清水と話していると自分の知識が浅すぎることをたまに恥じる。
それに最近蘭上もよく勉強しているから負けていられない。教えるなんておこがましいが、話し相手にはなりたいと思う。
それに電車だと駅前で買い物できるのも魅力。
本を読むのを少しやめて、冷蔵庫の中身を思い出す。先日の芋ほりで色んな種類のサツマイモを頂いてしまい、それは消費したい。
でも莉恵子は「芋っておやつじゃない?」という主張を崩さない。
オイスターソースとかで塩辛く味付けしたものは、わりとおかずになると思うけど……サラダが一番美味しい気もする。
サツマイモの消費と、あと何があったかしら……と考えていたら、横に座っていた人が声を出した。
「航平は、芽依さんを今も電車に乗せるのね」
航平。
芽依さん。
間違いなく自分に向けられた言葉に横を見た。
芽依の横の席には真っ白なスーツを着た美しい女性が座っていた。
髪の毛は真黒で艶々していて、お化粧も控えめに見えるが……違う。控えめに見えるように完璧にされているお化粧だと気がついた。
毛穴が全く見えない……お面をかぶっているような肌。
その肌の上に真っ赤な口紅が、貼り付けられたように塗られている。
何より。芽依は少しむせて息が苦しくなった。……ものすごく香水の匂いがする。
芽依は香水を全く付けないので、どこのブランドか分からない。ただ深夜、全く人が居ない森の奥で数百本の薔薇に囲まれたような感覚に襲われた。
真黒な髪の毛を耳にかけて、その女性はほほ笑んだ。
「はじめまして芽依さん。
「!! はじめまして。竹中芽依です」
晶子は芽依が挨拶すると満足げに笑顔を作った。そう……本当に笑顔を『作った』という表情で、ほほ笑んだのではないと理解できた。
その表面に張り付いたような笑顔に芽依は身体を固くした。
……怖い。
この横の席には一つ前の駅まで男性が座っていたと思う。芽依は本を読み考え事をして、横を気にしていなかった。
でもさっきの駅で横の人が変わったのは間違いない。
香水がすごくて「ん」と思ったので覚えている。
一瞬で頭を回そうとする……航平はいつも言っていた。「晶子がどこにいるか把握してるから、芽依に近付くことはない」。
そんな風に警戒しなくても、大丈夫なのでは? そんな風に思っていたが、この圧倒的な存在感を前に、自分がどこまで甘かったか自覚した。
違う。この人は、突然町中で会って良い人ではない。きっともっと覚悟して、準備して出会うタイプの人。
晶子は顔をクイと近づけてきた。それは本当に動物が獲物を狙うような間を詰めるような速度でツイと。
その速度に驚いて身を引くと、後ろのバーに後頭部をぶつけてしまった。
その距離十センチほどの所に晶子の顔がある。
他人の距離ではない。芽依は後ろギリギリまで頭をさげた状態で唾を飲む。
もうこれ以上後ろには引けない。
晶子は芽依の目の前で口を両方に引っ張り笑顔を作り、
「化粧してないの? 駄目よ、若い女性が。安い女だと思われる」
と目を細めた。
芽依は、んんっと軽く咳ばらいをして、
「学校で作業があり、シャワーを浴びて着替えてきたので、メイクはその時に落としてしまいました」
「そんな裸同然で歩いてたら肌が傷むわ。外は敵がいっぱい。私みたいな悪い女もウロウロしてるんだから」
「いえ……航平さんのお母さま、ですよね」
「そうよ。どうしてもお話したくて同じ電車に乗ってみたの。電車なんて久しぶりに乗ったわ。暑くて狭くて息苦しくてドブくさい。よくこんなものに乗るわね」
その特殊な言葉に周りの人たちがチラリと晶子を見る。
それに声の大きさが『電車用の声』ではない。広場で誰もいない所で張り上げるような、しっかりとした声量だ。
なるほど。航平がこの人が苦手なのが分かる。言葉の全てが攻撃的で、人に向かってちょっかいを出すような話し方。
晶子は続ける。
「航平のお父さまが、貴女との仲を本当に応援してると思ってる? 菅原の家に何もできない女を入れると思ってる? 航平は全部分かって無視してるのよ。だからお話したくて。それなのに航平ったら、私に見張りをつけて絶対に近づかないようするの。遠ざけたら別の人が動き出すってどうして分からないのかしら。私は航平の母よ? だれより航平の幸せを祈ってる。いつだって航平のためになることをしてるの。私が動いてあげるのが一番航平に取って良いことだって分かってないのよ」
晶子は両手を大きく動かして、心底楽しくて仕方ないという雰囲気で話す。
晶子が身体を動かすたびに、強烈な香水の匂いがしてむせてしまうほどだ。
芽依としては……晶子が言っていることが真実かウソか分からないけど、とにかく電車内で話すようなことではない。
単純に他の乗客の方の迷惑だと思う。
電車は終点の大きな駅に到着した。この駅は左側がまず降りる人専用で、中の人が居なくなってから、並んでいる人たちが入れる。
晶子は「さてと」と立ち上がり、サラサラした髪の毛を耳にかけた。
「このまま貴女を連れ去ってお話したいけど、勝手なことすると航平に怒られちゃう。だからお願い、この番号に連絡を頂戴。ふたりでお話したいの。ふたりにとって最適な道を私が選んであげる。大丈夫、私が一番の味方よ。私を遠ざけるのが一番の悪手だってこれで分かって欲しいわ」
「……はい。名刺は受け取ります」
名刺の先にある晶子の指先は血がべったりと塗られているように紅かった。一点の曇りもなく艶々と。
そして晶子は人の流れにのって、そのまま電車から降りて行った。
みんなが電車から降りていくが、芽依は動けない。心臓がバクバクして息が苦しい。
晶子に会わせない、航平がずっと言っていた理由をやっと理解できた。
本当に……びっくりした。そして圧倒的に芽依を「下に見ている」のがよく分かった。
全身からあふれ出す香水の香りを吸い込んで気持ちが悪く、突然浴びせられた言葉が押し寄せて、身動きが取れない。
でも……このまま折り返すわけには行かず、なんとか電車を降りて、ひとりになれる場所を探して移動した。
大きく深呼吸をしていたら、航平時計に通知が入った。
『芽依大丈夫か!!』
航平だった。芽依はすぐに航平に電話した。
「……驚きました」
『すまない、今日晶子は仕事で名古屋のはずなんだ。打ち合わせに会社に入る所まで見ている。それなのにどうしてそこにいるのか分からない!』
「会話はそちらに送れてましたか」
『ばっちりだ。今近藤を行かせているが、三十分かかってしまう』
「大丈夫ですよ」
実は航平から「ひとりで動くときは、この時計をしてほしい」と手作りの時計を渡されていた。
学校用のスマートウオッチだが芽依用に改造されていて、緊急ボタンがついていた。それはボタンに触れなくても手首を四回動かせば自動的に繋がるもので、航平と近藤やSPたちのスマホに連絡がいく……と言われていた。そんなの本当に必要だろうか……何かで誤作動したら悪いな……と思っていたが、役に立った。
晶子が来たら必ず通報してくれ……そう言われていたので手首を動かして全ての会話がみんなに聞こえるようしたのだ。
航平の声を聞いたら落ち着いてきた。芽依は立ち上がる。
「三十分も駅にいた方が目立ってしまいそうなので……帰ります。もう大丈夫だと思います」
芽依の声にかぶせるように航平が叫ぶ。
『芽依頼む、お願いだからそのままそこにいてくれ。確認されているんだ、俺の力を。アイツは近くで間違いなく見てる。連れ去るために見てるんじゃない、誰がどれくらいの速度でくるか見てるんだ。守られていることを見せないと危ない。俺は出し抜かれたんだ。頼む芽依。動かないでくれ』
今まで聞いたことがないような懇願する話し方に芽依は頷いた。
「はい、わかりました。ではせめて改札付近に移動……」
そう言って動きだそうとしたら、ホームの一番前……電車が入ってくる所の先に真っ白な花が咲いているのが分かった。
違う……晶子だった。
灰色と緑が混ざったような暗い地下のホーム、そこに真っ白のスカートが風を飲み込むように立っている。
たくさんの人たちが俯いてあるくホームで、真っ白なワンピースを着て、まっすぐにこっちを見ている姿は異様以外何物でもなかった。
電車がホームに入ってきてライトが光り、白い晶子を黒くシルエットにする。
入ってきた電車が生ぬるい風を運び、芽依の身体を包んで走り抜ける。シルエットから抜けた晶子の真黒な髪の毛が蛇のように揺れる。
晶子はそれを耳にかけて、真っ赤な口元をゆっくり光らせて、唇だけ大きく動かして言葉を出した。
何て言っているのか、芽依には分かった。
そして晶子は数人の男性と共に反対側のホームから電車に乗り、消えて行った。
黙り込んだ芽依に航平が叫び続けている。
『芽依!! 芽依大丈夫か!!』
芽依はからからに乾いてしまった口を閉じて、ごくんと唾を飲んだ。
スマホを耳に当てて声を出す。
「……はい。今、晶子さん……反対側に向かう電車に乗って消えていかれました」
『芽依、電話を切るな。もうすぐ近藤が行く』
はい……と芽依は静かに答えた。
遠くて匂うはずなんてない。そんなはずないのに、間違いなく晶子の香水の香りがした。
それは身体にまとわりついて、まるで芽依の横に立っているようで、身震いした。
晶子が言った言葉は『まってるわね』だ。
圧倒的な存在感。これが航平のお母さん……晶子。
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