第72話 人生最初の誕生日


「こっちだ」


 芽依は航平に手を引かれたまま、ホテルの敷地内を進む。

 合宿棟も、ホテル棟も、裏の広場も抜けて従業員が宿泊している建物も抜ける。

 やがて足元の道は、それほど整備されていない状態になった。

 歩きにくいが繫いでいる航平の手は温かく、安心感がある。

 そして崖のような場所にある古い建物に航平は入って行った。


 建物の扉を開くと、音が一気にあふれ出してきた。

 頭上には太いパイプ……水が流れているのか、ドウン……ドウン……と深い音。

 奥には羽状の物が回転していて、地響きのような振動が響く。

 大量の室外機が、外に向かい呼吸をするように動き続けている。

 

 横に階段があり、それは地下に繫がっているようだ。

 筒の横に沿うようにある階段は暗くて狭い。

 航平の温かい手だけを頼りにゆっくりと下りて行く。

 

 目の前に鉄の扉が現れて、壁に小さな小窓があった。

 そこをあけて航平が目を近づけると、扉が開いた。

 暗くて何も見えない細い通路を抜けると、一気にまばゆい光に包まれて目を細めた。

 

 突然、巨大空間の真ん中に出たのだ。

 高さは三階分くらいあるだろうか。上から見下ろしている。

 窓は一面ガラスで、外には美しく整備された緑が広がり、川が見えた。

 壁際はすべて本棚で、沿うように通路があり、長い階段がついている。

 上から無数のランプが垂れていて、薄暗い空間を照らす。

 すごい! 本当に秘密基地だ。


「おいで」


 航平は芽依の手を引いて階段を下りて行く。

 壁沿いの階段を下りて行くと一階まで行くことが出来た。

 床にはふかふかな絨毯。なにより大きな窓から見える緑が気持ちが良い。

 滝にあった物と同じ水車や温室も見える。部屋には実験に使うマシンが所せましと置かれている。

 パソコンの台数はもう数えきれないし、そこら中にケーブルが這わせてある。

 芽依は踏まないように、ゆっくりと進んだ。

 

 三畳ほどありそうな巨大な机があり、モニターが三つ置いてある。

 その前に大きなソファーがあった。航平はそこに芽依を座らせた。

 使い込まれた柔らかい皮製で、芽依は包まれるようにすっぽりと座ることができた。 


 巨大空間に色んな機械の音が絶え間なく続く。

 それはやむことがない雨のようで、決まった感覚で続く音を聞くのは心地が良かった。


 航平は窓際にある台所でコーヒーを入れ始めた。

 普通なら立ち上がって手伝うけど、ここは航平の秘密基地。

 芽依が何かするところではない。窓は大きいが南や東向きではない。だから直接日光が入ってくるわけではない。

 その少し薄暗い雰囲気が、また良い。

 コーヒーの良い匂いがして、ソファーに背中を預けた。 


 ……すごい場所。ホテルの敷地内に、こんな秘密基地を持ってるなんて。

 前から思っていたけれど、やはり航平は住む世界が違うお金持ちだ。

 航平がコーヒーを持ってきてくれた。

 

「芽依はそのままだろ」

「はい、ありがとうございます」


 芽依はそれを受け取った。

 マグカップに写真が見えてそれを見ると『菅原学園創立88周年記念』と書いてあり、航平の顔がプリントされていた。

 

「ちょっとまってください。これ、なんですか、面白いんですけど」

「ん? ああ、学生たちが面白がって毎年作ってるんだ。88周年から全部俺」


 そう言って航平は棚から何個かマグカップを出してきた。

 89周年はピースサインをしている航平。若い!! というかこれは学生ね。そういえば高校生の時から学長なんだと長尾は言っていた。

 90周年は運動会かしら? 騎馬戦で戦っている航平。

 91周年はスーツを着ている。卒業したのかしら。横に長尾が立っている。長尾も若い!

 92周年は、学長室でレゴまみれの航平。

 93周年は、レゴで作られた航平の顔だ。もう航平なのか分からないが、きっと航平。


「航平さんの歴史ですね」

「やめろって言ってるのに毎年作って年末のビンゴ大会で配るんだ。だから芽依も今年ひとつ貰うことになる」

「要らないですね」

「そう言うな。こうして使えるぞ?」


 航平はそう言って床に落ちている本や雑誌、そこら中に転がっている大量の水のペットボトルやラムネの空袋、ヘッドフォンやケーブルを片付けながら歩いた。

 

「ここには誰もこないから、そのままなんだ」

「片付けなくていいです。この前私も莉恵子の本を片付けたら『レシートの裏に書いたメモがない!』って怒られました。ここは航平さんの頭のなかですね。片付けなくていいです。だって学長室はいつも綺麗ですもんね」

「そうだな。ここは俺のラボだ。元々そこに川があって、水量調節のポンプがあったんだ。それをホテルが改造して機械室にした。俺はこの吹き抜けが気に入って、そのまま部屋にした」

「音が響いてすごいですね。でも、トンネルの中みたいで落ち着きます」

「反響する音が好きで、ここにいるんだ」


 そう言って航平は窓際にあるひとり掛けのソファーに座った。

 外には柔らかい光が見える。そして水車がゆっくりと回っている。

 見たことがない鳥が飛んできて、草を軽くつまんでいる。

 ものすごく平和な空間だ。

 そこに……間違いない異物が見えた。


 美しい庭に、段ボールが放置してあるのだ。


 長く雨ざらしなのか、ボロボロになっている。

 クマの絵柄が描いてあり『お誕生日おめでとう』と可愛い文字が踊る。

 しかもその箱は、一つや二つじゃない。四つも五つも、同じクマの絵柄の段ボールが放置してあった。

 芽依の視線に気が付いたのか、航平が「ああ」と言った。


「あれは晶子……母親が毎年誕生日に送ってくるんだ。俺が生まれたときの体重……2911gのクマのぬいぐるみ。俺の母親はマジで狂ってるんだよな」


 航平は「腹が減ったな」というのと同じくらい軽い感じで言った。

 それは同情を求めていない、ただあふれ出した言葉だと分かる。


「家の部屋に突然乱入してきて説教されたり、知らねーヤツのパーティー連れていかれたり、PC盗まれたり、机荒らされたりするからさ。もう面倒になって、ほとんどここにいる」

「……そうですか」

「あのクマは一回捨てたら、次の日同じのが建物の前に置いてあった。何が仕込まれてるのか、気持ち悪くてしかたねぇよ。だから庭に放置だ。ああしてから、年に一度しか送ってこないから、何か仕込んであるんだな。触りたくないから調べないが」


 壮絶な話なのに、それを聞いていたら落ち着いてきた。

 そして芽依の口からも、言葉があふれ出す。


「私の元旦那は、優しい人だったんです。最初は。でもいつの間にか、些細なことで怒鳴るようになりました。ゴミが落ちてるとか、埃があるとか、おかずの味付けが違うとか、そんなことで私を怒鳴りました。最後のほうは何をしても怒鳴られる気がして……怖かったですね。だから今日も……すごく怖かったんです。航平さんに助けてもらって、助かりました」

「……そうか」

「最後には、髪の毛を引っ張られて……あれは、なんだったんでしょうね」

「芽依」

「それでも私は……なぜか謝ってたんですよね。何をされても私が悪いんだと思い込んでました」


 実は、この話は莉恵子にも、誰にもしていない。

 だってどう考えてもドン引きレベルで、聞かされても反応に困ってしまうだろう。

 なぜ反論しなかった、どうして逃げなかったと言われても、分からない。

 分かるのは『普通に聞かされたら困る話』ということだけだ。

 でも航平の話が普通ではなかったので、芽依も普通ではない話が出来た。


「芽依、悪い、ハンカチがない」

「え……、あ。すいません」


 気が付いたら芽依は泣いていた。 

 どうしようもなく涙がぽろぽろ落ちてきていたことに、気が付いた。

 航平はポケットに手を入れてタオルやティッシュを探してウロウロしていたが見当たらず、自分が着ていたワイシャツを脱いで押し付けてきた。


「これで拭け」

「そんな……」

「ん」

 

 そう言って押し付けられたワイシャツは……さっき抱き着いて泣いた太陽の匂いがした。

 きっと誰かに話したかったのだ。でも誰に言ってもそれを忘れられるわけでもないし、記憶を消す方法があるわけでもない。

 でも……こうして、同じように『抱えている人の前では』楽に吐けるのだと気が付いた。


 泣きながら芽依は思った。

 航平と自分は違う世界の人だと思っていた。

 お金持ちと庶民。天才と凡人。

 でもそれは外面のことで……同じように重たいものを抱えて、それに蓋をして、生きている同じ人だと分かった。

 吐き出せたことが気楽で、芽依はやっと泣いた。

 航平は芽依が泣き止むまで、静かに待っていてくれた。

 何も言わず、ただ静かに。


 気が付くとティッシュが差し出されたので、それで鼻水と涙を拭いた。

 でも……ワイシャツが濡れてしまった。

 芽依は泣き顔が恥ずかしくて、ワイシャツを顔の前に抱えて目だけ出して航平を見た。


「すいません、洗って返します」

「いや、大丈夫だ。ワイシャツは全部クリーニングに出すから。……大丈夫か」

「大丈夫です。そうですよね、オーダーのシャツを、スワローチェーンに出しちゃダメですよね」

「そんなことはないが……そうではなく、大丈夫か」


 航平は何度も心配そうに芽依に顔を覗き込んで言う。

 その表情が、小さな子どもを心底心配しているような表情で少し笑ってしまう。

 芽依は航平を子どもだと思っていたけど、突然泣き出す芽依のほうが子どもなのかも知れない。

 大丈夫です、と芽依は何度も言った。

 航平は、頭をかきながら口を開いた。


「泣きたくなったら……この部屋にくると良い。この部屋は俺以外入れないようになってるが……芽依ならいい」


 そう言って航平は芽依の耳の写真を撮ってパソコンデスクの前に座った。

 そしてカチャカチャとキーボードを触りながら口を開く。


「……晶子の話、芽依は怖くないのか」


 芽依は靴を脱いで、膝を抱えた。

 そして少しだけ乾いてきた航平のワイシャツを抱えながら口を開いた。


「怖い話だから……私は今まで誰にも話せなかったことを言えたんだと思います」

 

 そうか、と短い返事が返ってきて、広い部屋にカチャカチャとキーボードを操作する音が響いた。

 数分後、航平は芽依を窓際にある、そこから外に出られる場所に呼んだ。

 そこにも入り口と同じ小窓があり、それを開いて耳を見せると、ロックが開いた。


「よし、OKだ」


 そう言って航平は芽依を見てほほ笑んだ。

 その少年のような……それでいて優しい表情に芽依は目を細めた。

 芽依は貸してくれたワイシャツをもう一度優しく包んで抱きしめて、それを航平に返した。


「すいません、濡らしてしまいました。洗いたいですけど、特殊なクリーニングだと困るので……お願いします」

「……ん」


 航平はそれを受け取ってソファーに置いた。

 芽依は、ここ数年で感じたことがないほど、気持ちがスッキリしていた。 

 スマホを見ると大量の通知……なにより一時間以上経過していた。


「航平さん。戻りましょうか、一緒に」


 と芽依は顔をあげた。

 ここは航平の秘密基地なんかじゃない。

 きっと心の一番奥、下の方の、柔らかいところ。

 ここに連れてきてくれたことを、嬉しく思う。


 違う世界の人なんていない。

 ただ、その人のことを知らないだけなのだ。


 最低の誕生日だと思ったけど、胸の奥の重たい物がほんの少し軽くなったのを感じていた。

 芽依は外に出て思いっきり空気を吸い込んだ。

 誕生日おめでとう、私。



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