第71話 芽依の誕生日
「芽依、誕生日おめでとう~! じゃーん」
「おお~。ちゃんと朝ごはんね」
「えへへ、旅館風を目指したよ」
莉恵子はそう言って芽依を椅子に座らせた。
今日は芽依の三十才の誕生日だ。
でもまあ、三十にもなると、それほどめでたくもない。
むしろ誕生日の数か月前のほうが「三十才になるのね」と何度も思った。
でも実際三十才になると、二十代の『充実必須の年代』から『自分の足で歩ける年代』になる気がして、気楽になった。
何か欲しくない?! と莉恵子に前々から聞かれていたが、お揃いのタンブラーは嬉しかったし、特にない。
じゃあ莉恵子が「朝ごはんを作る!」と言ってくれたので楽しみにしていた。
机にはシャケと豆腐のお味噌汁、そしてほうれん草のおひたしとひじき煮。
手を合わせて莉恵子のほうを見て「いただきます」と言った。
お味噌汁も「市場で買った分厚いかつお節で出汁取った!」との宣言通り、香ばしくて美味しい。
シャケは皮がパリッとしてて上手に焼けていて、どれも美味しい。
芽依は台所をチラリとみて口を開く。
「なにより、作り終わったタイミングで台所がきれいなのがすごい」
「芽依に習ったとおり、ちゃんと考えてやったよ。いやあ……めんどくさいね」
「同タイミングで片付け終わるのは、本当に難易度高いわ」
ふたりで色々話しながら朝ごはんを食べて、莉恵子に甘やかされて皿も洗わずメイクをした。
今日はお昼にお義母さんと学校近くのホテルでブッフェを約束しているのだ。
学校も紹介できるし、よさこい部の練習も覗いてくれると約束した。
とても楽しみ。
莉恵子は朝ごはんのために早起きして準備を先にしていたようで、芽依と同タイミングで出られるようだ。
「ごめんねー、夜ご飯一緒にしたかったけど、どーしても今日は無理だわ」
「いいのよ。朝ごはんとっても美味しかった。ありがとう」
「週末はお家でうなぎにしようね!」
そう言ってふたりで家を出た。
良い天気で気持ちがいい!
駅についてスマホを見ると、お義母さんからLINEが入っていた。
『芽依さん、ごめんなさい! 今日行けなくなっちゃった。急遽発熱した子を預かることになったの』
芽依はそのLINEを見て電車の中で動きを止めてしまった。
『急遽発熱した子』これはお義母さんなりに配慮してるけど、拓司の子だろう。
拓司の子どもを預かったりしてるのね……そりゃそうよね、家族だもの。
奥さんは……とか色々考えて頭をふった。
これが気を使ってくれた文章だとは分かる。
芽依は気を取り直して返信を書いた。
『子どもの熱は突然ですから大変ですね。お義母さんも体調お大事にしてください』
そう書いて頭を下げるスタンプを送った。
お義母さんからは『色々あってね。今度ちゃんと説明します。本当にごめんなさい』と送られてきた。
これに対して返すと、また気を使わせてしまうので既読で終わらせた。
混んでいる電車の中で小さなため息をついて流れる景色を見た。
誕生日なんて、それほど大切にしていなかったけれど、知りたくない情報をプレゼントされるとは思わなかった。
でもお義母さんなりに気を使ってくれた文章だ。ウソついてソワソワされても悲しい。
それにもう私は家族じゃないんだし、気にすることもない。
でも……やっぱり知りたくは無かった。
「芽依先生、僕、すごく練習したから、今日は完璧に踊れると思う」
「それは楽しみ。新しい衣装着て踊るの初めてだもんね。きれいに撮るからね」
「袖がクルクルしちゃうのが難しい。でも頑張る!」
ホテルのブッフェで篤史は大きな口を開いてハンバーグを食べた。
よさこい部は無事に予選を突破して、来月ある本戦に出場することが決まった。
本戦に出場する学校は、自分たちが踊っているところを撮影編集して、学校紹介として提出する必要がある。
今日はその映像を撮ろう! とみんなでホテルの合宿所を借りた。
嫌なことがあっても、それを顔に出すのは教師失格だ。
だから愚痴は家に帰ってから、莉恵子に聞いてもらおう。
芽依は篤史とブッフェを食べながら大会の話をした。
篤史は初めて会った時から何も変わらない「とにかく楽しいことが大好き」で、目を輝かしながら大会の話をしている。
楽しそうなことがあると、目の前のやることより、それを優先してしまい、普通の学校では授業が受けられなかったようだ。
でも菅原学園のようにヘッドフォンをして自分のペースで続けられる勉強スタイルだと問題がないらしく、成績は優秀だ。
「じゃあ着替えてくる! 衣装着るの楽しみにしてたんだ」
そう言って食事を終えた篤史はブッフェ会場から出て行った。
予選は完璧な衣装が間に合わず、簡易なもので済ませた。
でもその簡易なもので見たからこそ、どうバージョンアップしたらよいか分かったらしく、衣装部の子たちは更に工夫して最終アイデアを出してきた。
結果右手だけ長い袖を付けることになり、また五十人分の衣装を直した。
大変だったけど、何とかなったし、衣装を作るのは楽しかった。
芽依も早く行って衣装の準備をしようと思い、急ぎ足でブッフェを出た。
そして廊下の角を曲がった瞬間、誰かにぶつかってしまった。
同時に足元に炭酸、そしてアルコールの匂い……それはビールの缶だった。
顔をあげると、顔を真っ赤にした男性が立っていた。
どうやら学校関係者専用のブースに一般のお客さんが……しかも酔った状態で入りこんできたようだ。
「ああん? これ、どーしてくれるの?」
男性を見ると、ビールがパンツにかかってしまったようだ。
お客さんは男性で四十代くらいだろうか。どうやらかなり酔っているようで足元がおぼつかない。
一瞬で「冷静に対処しないと」と芽依は思った。
まず自分のポケットからハンカチを出してそれを渡す。
「申し訳ありません。お怪我はありませんか」
「あるように見えるかよ?!」
男性は突然怒鳴った。
芽依はクッ……と身体を固くした。
拓司に怒鳴られて、それでも家に居続けた結果、人に怒鳴られるのが本当に苦手になってしまった。
でも、今は前の私じゃない。冷静に、冷静に。
「申し訳ございません。ゴルフ用の服となってしまいますが、あちらにパンツのレンタルがございますのでクリーニングが済むまで……」
「パンツぅ? お姉さんのおパンツと変えてくれるの?」
男性がふらふらと近づいてきて芽依の近くにきた。
酒臭い。そして耳元で息を吸い込んで大声を出した。
「だからさあ!! 濡れてるんだよね、俺!!」
怖い……!!
その瞬間に身体がふわりと抱き寄せられた。
そのまま男性から遠ざけられて、人の後ろ……背中に隠された。
視界が暗くなって、目の前には背中……右側には通路の壁……怖い人が目の前に居ないことは分かる。
左側には腕があり、芽依を囲うように守ってくれているのが分かる。
目の前にある広くて温かい背中から聞きなれた声が聞こえてきた。
「お客様、申し訳ございません。お部屋を準備しましたので、そちらのほうでシャワーをどうぞ。あちらのほうにショップがございますので、そちらでお好きなパンツをお選びください。近藤、よろしく」
「お客様、大変申し訳ございませんでした。こちらへどうぞ」
「お……おう、兄さんデカいな。何なの? 堅気? 別にいいんだよ、クリーニング代金でよ。いてててて、ちょっと痛いな、分かった、行くって!!」
酔っ払いの男性は近藤に腕を掴まれて、学校のゾーンから運び出されて行った。
同時に呼ばれたのか……数人の近藤のように黒い服を着た男性が酔っ払いを両方から掴んでいるのが見えた。
酔っ払いの足が浮いているのが見える。
そしてそのまま外に連れ出されて行く。
芽依の周りに静けさが戻り、やっと長く、細く、息を吐いた。
……良かった。怖かった。
芽依は目の前にあるワイシャツ……見覚えがある……これは屋上で手洗いしたものだ。
航平のワイシャツを掴んだ。
航平は芽依を背中側に隠し、左腕を回して芽依を守ってくれていた。
芽依はその背中に安心して隠れた。
航平は場所の掃除と、こっち側に人が入れるようになっている導線の確認などを的確に指示していた。
しがみ付いている背中から響く声に少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
それに航平の背中は、太陽をたっぷり浴びた洗濯物みたいな匂いがする。
……うん、大丈夫。
何より、しがみ付いていた状態から冷静になり、少し恥ずかしくなってきた。
背中から離れようとすると、航平が腕をクッ……と動かして背中から逃げられないようにした。
その力強さと優しさ、それに大きな背中の体温……芽依は動くのをやめた。
気が付いたら、まだ少し身体が震えていた。
……大声が、どうしても苦手ね。
本当に拓司に怒鳴られた日々がトラウマになっている。
これからもこういうことはあるだろう。カウンセリングとか受けたほうがいいのかしら。
でもそんなの効くのかしら。芽依はもう諦めて壁と航平の背中にもたれた。
「芽依、大丈夫か」
「……はい。申し訳ありませんでした。私の不注意です」
航平は指示をすべて終えて人払い、そしてブッフェの少し離れた席に芽依を座らせてくれた。
芽依は頭を下げて謝った。自分の不注意で、お客様のパンツを濡らしてしまった。
それにこのホテルに入っているお店はすべて高い。
「パンツの代金も、室料も、私が払います」
「こっち側に入れるようにしてしまったホテルの責任、ひいては俺の責任だ。そんなことは気にしなくていい。……大丈夫か」
「大丈夫です。落ち着きました。撮影が始まるし、衣装の準備をしないと。本当にありがとうございました」
芽依は気丈な顔を作って頭を下げて、椅子から立ち上がった。
航平から見えなくなる角まで早足で……でも人にぶつからないように気を付けて角を曲がり、長く息を吐いた。
もう今日は本当に最低な誕生日になってしまった。
足元がまだふわふわするし、心臓も落ち着かない。何より、また誰かに大声を出される気がして気持ちがビクビクしていた。
そこを歩いている人も、あっちに居る人も、みんな怒鳴る気がする。
でももう大人なんだし、教師だし、何よりちゃんと撮影に立ち会いたい。
でも……ちょっとだけひとりになりたい。
今ちょっとだけ、大きな音が怖いかも知れない。
太鼓の音、怖いかも知れない。
廊下で立ち止まってしまう。
でも行かなきゃ……歩き始めた手を、温かい手が引っ張った。
ふり向くと、航平だった。
「……なんだ。辛いときは顔で泣けと言ったのは芽依なのに、泣いてないじゃないか」
「っ……、そんな簡単に泣けません」
「俺には泣けと言ったのに。芽依、俺の秘密基地を見せてやる。衣装の着付けは近藤に頼んだ。少しだけこっちに来い」
そう言って航平は芽依の手を引っ張った。
その強さと掌の温かさに何だかどうしようもなく安心して、芽依は航平に手を引かれて歩き始めた。
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