第64話 その顔を知っている
ぴたりとひとつからその声は始まる。
天窓から光が降り注ぐ吹き抜けに、それは迷いなく響く。
声は下から響いているはずなのに、まちがいなく天井から聞こえる。
芽依はおもわず天井を見てしまうが、そこにはガラスのドームがあるだけ。
夏前の日差しが眩しいほど降り注いでいるだけだ。
スポットライトを受けているように光の中心にミコがいる。
空気すべてを引き寄せて震わせるように甘く呼びかけると、他の階にいる人たちが我慢できずに手すりに近づく。
それは間違いなく始まりの予感。
蘭上がピアノの一番下から、波のようにミコに音で近づく。
ミコは大きく広げた口で、魂を吸い上げるように笑い、細く長い腕を回して光を捕まえる。
ドン……と大きな太鼓が鳴り響き、ミコは楽しそうに高いヒールを鳴らして歌い出した。
彼女はきっと存在自体が音楽なのだ。
芽依はミコの歌を聞くたびに、そんなことを思う。
「やっぱり蘭上とミコの歌は生で聞くとすごいですね」
「ふたりともドームを埋めるクラスですから」
「脳内に直接映像を送り込んでくる歌って……あ、そこで一度ストップです」
「ここで、ですか」
「これ、よく考えられて作られててすごいですよ」
芽依は衣装部の人たちから受け取った紙を近藤に見せた。
そこには衣装の縫い方が細かく指示されていた。
途中、六センチまでは裏から縫い、そこでひっくり返す。
最初なぜだろうと思ったが指示通りに縫ったら、スカートの膨らみ方が違った。
理屈は分からないけれど、よく考えられている。
これを作ったのも学生だというから、本当に菅原学園は色んな人たちがいる。
先日から学校近くにあるホテルの合宿棟で、よさこい部の合宿をしている。
大会は夏なのだが、予選はもうすぐある。
その時点で一曲仕上げる必要があり、みんな必死だ。
曲もダンスも決まった。そして衣装案も上がってきた。
衣装部の子たちが必死で作っているが、部員数が多く間に合わず、芽依はひたすら衣装を作っている。
終わらないので近藤に助けを求めたら、すぐに来てくれた。
とても丁寧に作業をしてくれて助かっている。
一階からミコが蘭上に教えている声が聞こえてくる。
「蘭上違う、あんたはC班でしょ!」
「あれ?」
「蘭上くん怒られてる」
「蘭上くん駄目だね」
「むきーーーーー!!!」
蘭上が小学生を追い回している声が三階の吹き抜けまで届く。
この建物は吹き抜け構造になっていて、真ん中にピアノが置いてあり、踊るスペースがある。
合唱部や吹奏楽部なども使う建物らしく、音が遠くまで届きやすい。
練習風景を見ながら、三階の通路に布を広げて作業している状態だ。
芽依はため息をついた。
「はあ……疲れました」
「お昼の時間ですね。休憩しましょうか。そういえば小清水さんが今度ランチをご一緒したいと言われてましたが、どうでしょうか。一応、お忙しいのでは……と答えてあります」
その返答……さすがすぎる。近藤の気の使い方は素晴らしい。
「気を使っていただき、ありがとうございます。そうですね……私、あまり小清水さんに近づきたくないです」
「失礼ながら、理由を伺ってもよろしいでしょうか」
この学校で一番なんでも話せるのは間違いなく近藤だ。
そして小清水と距離を置きたいなら、近藤に話しておくのが一番楽だろうと芽依は判断した。
ハサミを置いて、顔をあげる。
「あの……小清水さんって、航平さんのことお好きですよね」
「ああ、そういうことでしたら。小清水さんはニ十回ほど航平さんに告白されてふられてますので、大丈夫というのは失礼ですが、大丈夫だと思います」
勇気を振り絞って言ったのに、驚きの答え。
芽依は「ええ?」と表情を歪めてしまった。
だって立場的に……難しいのでは。
近藤はそれを察知して口を開く。
「小清水さんは、小さい頃から航平さんをお好きで、婚約者が決まる前に十回ほど。そして婚約者が岳秋さんになってから……ニ十回ほど」
「合計数が合わない気がしますが」
「そうですね、隠す気は全くない……ということだけお伝えします」
近藤は静かに言った。
でも自分の婚約者が違う男を好きでも岳秋は良いのだろうか。
近藤はアイロンを片づけながら言う。
「小清水さんが航平さんをお好きだということは、岳秋さんもご存知です。岳秋さんも航平さんをお好きなので、小清水さんの気持ちが理解できる……そう言われていたのを聞いたことがあります」
「そうなんですか。独自のパワーがある人ですね、航平さんは」
「とても強い方で、私も尊敬しています」
近藤は静かに言った。
航平はいつも楽しそうだし、迷いを感じない。その強さと明るさに皆安心するのだろう。
何度もふられているという理由で安心するのは違う気がするが、必要以上に気を使う必要は無さそうだ。
別にそれ以外は気持ちがよく楽しい人だと思う。
「では……小清水さんには学校の掲示板から連絡を入れておきます」
「喜ばれると思います。喜代美さんのお話もしたいようですから」
芽依は頷いた。近藤から喜代美と連絡がついた……とは聞いていた。
そしてやはりお寺が大好きで、わりと気ままにお寺周りをしていたという事も。
お寺を回る体力があることに安堵した。わりと大変な場所にあるので回るのも大変なのだ。
それなら体調はそれほど悪くないのだろう。そうね、知られている恋心なら……ほんの少しだけ気が楽ではある。
簡単に片づけて、隣のホテルにランチを食べに行くことにした。
すると1階からミコが大声が芽依を呼んだ。
「芽依ちゃん先生ーー、最初から流すから見てー!」
「わかった、今から行くわー!」
一階に降りると、五十人ほどが待っていた。
もうそれだけで圧巻の力強さがある。
「いくよーー!」
センターに立った蘭上がぴょこぴょこ跳ねる。
そして静まり返った空間に、ミコの独奏が響く。
それは本当に細くてキラキラと光るようなひとつの道しるべ。
ドン……と大きな太鼓の音と共に蘭上が瞳を開けた。
そこにはさっきの小学生はどこにもいない。
目の前にいるのは間違いなく、アーティストの蘭上だった。
……のは開始一分だった。
「蘭上、フォーメーション覚えて!!」
ミコの叫び声が響く。
「違うんだよお~~~こっちから来るじゃん? そういうすると、なんでだか足が動かなくなるんだよーー」
「それはカメラドリー誘導にやられてるんだ」
合宿の建物に航平が入ってきた。珍しくスーツ姿できっちりとしている。
そしてジャケットの前ボタンを取って椅子に座った。
蘭上に嬉しそうに寄って行って口を開く。
「学長じゃーーーん。んで、なんたら効果って何?」
「人の目は基本的に前に向かってピントがあうようになってるから、そこを移動していったものに視点が合うようになっている。蘭上が歩いて視点の先から、こっちの集団が入ってくるから、そのまま引っ張られて歩く速度が落ちてるんだ。だからこのタイミングで蘭上たちは意識的に反対側を見る。そしたら速度は落ちないだろう」
「へえ~~~、やってみる~~~」
航平が言う通りに見る方向を変えるだけで、動きが綺麗になり、蘭上はフォーメーションを間違えずに、通して踊ることができた。
ダンスも理論で成り立ってるのね……芽依は素直に尊敬した。
通したダンスを終えて、みんなで敷地内にあるホテルにお昼ご飯に来た。
ブッフェは朝の八時から夜の九時まで、途切れることなく利用することが出来て、一般のお客さんもたくさん来ている。
菅原関係者は専用の場所があり、そこで食事を取る。
「レコーディングより疲れる……」
蘭上はもうヘロヘロだ。
「炭水化物よ、炭水化物。午後もあるんだからね、蘭上」
ミコが言うと蘭上は
「ちょっと分かってきたから、がんばる!」
と叫んだ。
蘭上の横に小学生たちが群がり、休憩時間にゲームしようぜ~~と誘っている。
最近小学生たちに誘われて、紛れ込んだ殺人者を見つけるゲームを始めたようだ。
蘭上は素直そうに見えるのに恐ろしく嘘が上手く、手ごわいのだと聞いた。
航平がブッフェで何を食べるのか芽依は少しだけ興味があった。
仕事ができる人の食事は、偏っているイメージがある。莉恵子は最近薄皮ミニパンシリーズにハマって、毎日そればかりだ。
あれだけで食事を終わらせるのは、ちょっと……。横からウインナーとか卵を出すともくもく食べるからどうしても面倒を見てしまう。
後ろから見てると航平は、肉に野菜、サラダの上には豆を多めに置いていて、極めつけに豆乳を持って行った。
……ものすごくちゃんとしてる。予想と違って驚いた。忙しい人を一括りにしては駄目ね。
莉恵子が駄目なのでは……? とこっそり苦笑した。
航平はお肉を小さく切って口に運んで言った。
「ん、肉がうまい! 近藤、今度鹿肉を食べに行こう」
「鹿ですか……?」
「芽依もどうだ!」
「鹿……どうでしょうか」
「栄養バランスが素晴らしいんだぞ、鹿は!」
航平の楽しそうな声を背に、芽依は再びサラダを取りに行った。
ここの野菜がとにかく美味しくて、ずっと食べてしまう。
近藤に聞いたら、この野菜は小清水がいる研究所で作られているものらしく、野菜のパワーを最大限に生かしたものらしい。
すごく味が濃いのに土臭くないのだ。
サラダを取っていると小学生たちの騒ぎ声が聞こえてきた。
「航平だ!」
「航平が出てるぞ!」
ホールのテレビにはワイドショーが映っていて、その画面に航平が出てきたようだ。
でも真ん中にうつっているのは、菅原道三郎だった。
内容は『菅原が返却不要な奨学金を始める』というものだった。
将来有望な学生に菅原が何も求めず出資する。ただ面白そうであれ……と道三郎は語っていた。
でも小学生たちは内容なんて関係ない、画面の隅に立っている航平に夢中だ。
「航平、このスーツじゃん。さっき撮ってきたの?」
「そうだ。かっこいいだろ」
「コスプレみたい」
「おいこら」
小学生と航平は同レベル……ギャーギャーとやりあっているが、着ているスーツは本当に良い物だと一目で分かる。
一か月分……いや二か月分の食費になりそうだと考えてしまうあたり、脳内が貧乏すぎる。
芽依はテレビにうつっている道三郎をまじまじと見てしまう。
厳格そうな雰囲気に、太い眉毛。それに射るような視線……なによりお金持ちが溢れている雰囲気。
もうすべてが別世界だ。
ワイドショーはそのまま菅原学園の紹介を続けた。生徒たちは自分たちが出ないか大騒ぎしながら見ている。
いつの間にテレビが来てたのかしら、全然知らなかったわ。
芽依は最後にデザートを食べることにした。ここのプリンがまた美味しいのだ。
何か特殊な卵とか使ってるのかしら。
航平に聞こうと思って話しかけた。
「ここの卵って、何か特殊だったりしますか?」
「うん?」
そう言ってあげた航平の顔に、芽依は違和感を抱いた。
どこか焦点があってなくて、それでいて、張り付いたような……そして芽依はこの表情を自分がしていた時期があることを思い出した。
それは……
芽依は航平の視線の先に、強引に自分の顔を入れた。
航平がキョトンとする。
芽依は口を開く。
「……あの、航平さん。見てもらいたいものがあるんです。少し屋上に行きませんか?」
「あ、ああ。そうか、いいぞ」
もう食事を終えてコーヒーを飲んでいた航平を連れてランチルームを出た。
芽依はあの表情に覚えがあった。
拓司が浮気しているかもしれない……そう初めて気が付いた時は、お義父さんのリハビリに付き合っていた。
その時、大きな鏡がある部屋で、自分の表情を見て驚いたのだ。
笑顔が張り付いているのに、完全に視線が死んでいた。
でも口元だけなんだか不自然に笑ってしまうのだ。
何も楽しくないのに、どうしようもなく笑顔だった。
今目の前で航平がしていた顔は、まさにそれだった。
芽依はあの時、強烈にあの場所に居たくなかった。
消えたくて消えたくて、それでも立場があるから消えられなくて。
この場所でしゅるりと空気に溶けてしまえたらいいのに。
それはとても気持ちがいいのに。
そう思っていた。
それを思い出したのだ。
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