第65話 この気持ちは、青


 花が腐ったみたいな匂いなんだ。

 茎じゃない、間違いなく花が腐ってる。

 真ん中のグチュグチュした部分が、ドロドロに溶けて、周りの花びらも腐らせる。

 そして何事も無かったかのように、茎だけが残るような女。

 だから近づいてきた瞬間にわかる。

 そして耳元で小さな声で言うんだ。


「航平。来てくれてありがとう。私は前に出られないから……助かるわ」


 ほほ笑んだ晶子が航平の腕に触れようとしたので、避けようとした。

 すると目の前に光……、マスコミのカメラだ。

 マスコミは航平たちを「面白おかしく」狙っている。

 本家の道三郎や岳秋の所よりカメラの数が多い下世話さに笑ってしまう。

 晶子は黒い帽子を深くかぶって、航平の後ろに隠れる。

 それが『愛人の姿』で、得策だと知っているからだ。


 自分から前に出ない。出るなら息子。

 だって菅原と『血が繋がってるから他人じゃないから』。

 そして影でいるほうが、自由に動けると知っている。

 晶子は誰にも聞こえないような静かな、それでいて細い針で刺すような声で言う。


「航平は学長ですものね? 学園が大好きだもの」


 そうだ。菅原学園が大好きで、学長をするために菅原にいる。

 何を作っても引き継ぐ未来がないとそこで死ぬ。更に遠くへ行きたいなら、希望を繋いでいくしかない。

 学びたい意欲があるヤツがいないと、もっと面白い世界にはたどり着けない。


 奨学金自体のシステムは素晴らしいが、これを道三郎に勧めたのはたぶん晶子だ。

 年に一度、こういうことをわざとする。

 晶子の狙いは、菅原学園のことなら出てくる『航平』という付属品を世間に見せつけることにある。

 そして記事が出る。それを楽しそうに音読して家を回るんだ。

 俺はお前の付属品か。ああ、そうだったな、付属品だった。

 脳内が似たような、付属品だったな。だから好きに動けるんだもんな。

 頭がクラクラしてくる。

 久しぶりにあの花が腐った匂いを嗅いだからだ。




「航平さん、こっちです」




 そこに芽依の顔が入ってきて航平はハッ……とした。

 前から思っていたが、竹中芽依の目は真ん丸だ。猫が驚いた時のような目をしている。

 肩より少し長い髪の毛はまっすぐで黒い。身長はそれなりなのに、やたら小さく感じるのは肩が細いからだろうか。

 そして前を跳ねるように動く。


「良い風が抜けてきてますね」


 そう言って、合宿棟の屋上に繋がる細い通路を芽依は誘導していく。

 歩くと腹の中の気持ちの悪いものが暴れているのが分かる。

 本当にあの女に会うのは気分が悪くなる。

 そう思いながら一歩屋上に出ると、一気に強い光が降り注ぎ、目を細めた。


「見てください」


 そう言って芽依が細い腕を広げて指先を空に向けた。

 夏にはまだ早く、春だと言い切るには強い日差しの下、恐ろしく青い空に白の四角。

 それは奥へ、奥へ、奥へ……ずっと並んで青い空に意志を持って浮いている。

 それはまるで天国にのぼる階段のように無限に、空へ。

 足元から浮き上がらせるように風が吹き抜けて、背筋を伸ばした。

 自然と追うように、俯いていた顔をあげた。


「……連凧れんだこか」

「昨日みんなで作って、今朝あげたんです」

「ああ、いいな。すごくいい」


 連凧は真っ白で四角い。その本体の下に紐が付いてバランスを保っている。

 ここは少し谷になっている所にあるので、風が抜けやすい。屋上だから場所が狭いが、連凧は普通の凧よりあげるのが簡単だ。

 ひとつが風を受ければ、もうひとつが、自動的にあがっていく。


 ふわりと風が抜けて、一番先の凧が風に煽られて太陽とかぶる。

 芽依とふたり、無言で連凧を見ていた。さっきまで身体を包んでいた腐った匂いが消えていて大きく深呼吸した。

 そして芽依が建物の後ろに行って、何かもってきた。

 

「見てください」

「おお、持ってきたのか。どうだ、動かせたか」


 気分がよくなってジャケットを脱いでベンチにかけた。

 芽依が建物の影から持ってきたのは、前のカルタ大会の時に作ったキャリーだった。

 試作品だったが、完全に動くものだ。基本的に何か作る時は、手元で簡単に作る。

 それが可能になったのは3Dプリンターが当たり前になったことが大きい。作るのに時間がかかった特殊なものが、即日作れる。

 だから何でもすぐに試せるようになった。

 芽依はキャリーを床に置いて、ノートパソコンを出してきた。


「長尾さんに借りて勉強したんです。あの、これ難しすぎですよ。素人にコマンド入力はわかりません。この言葉も長尾さんに習いました」


 芽依は眉間に皺を入れて膝を抱えて丸くなった。

 そして「えい」と言いながら触っている姿に笑ってしまう。

 横に膝をついて座る。


「長尾はどうしたんだ」

「ほら、これです。矢印を押せば動くアプリを作ってくれたんです」

「これでは前後左右しか動かせないだろう。貸せ」


 そう言って手を伸ばしたら、芽依はノートPCをズルズルと自分の方に引き寄せて航平を睨んだ。


「いいんですよ、この程度で。長尾さんも笑ってましたよ、航平さんは昔から自分が分かるから他人が分かるように作れないって」

「俺が天才って話だろう?」

「わかりましたから!」


 芽依はそう言って髪の毛を耳にかけて笑った。

 乾いた風が吹き抜けて、連凧を更に高く上らせる。

 風に押し上げられるように揺れる連凧を見ていると、自然と気持ちが晴れてきた。

 よどんでいた頭の中が自然と動き出す。


「よし、それを俺がもっと進化させてやろう」

「難しくしないでくださいよ。やっと動かせるようになったんですから。でも元気になってきましたね。良かった」


 そう言って芽依は立ち上がり、遠くに行っていたキャリーを持って戻ってきた。

 そして足元にトンと置いた。

 『元気になってきましたね』……その言葉の意味に気が付いて航平は顔をあげた。

 どうやら腐った匂いに疲れたのを気が付かれたようだ。


「……すまない、気を使わせたな」

「ああ、やはり少し疲れてましたか。なんとなくそうかなと思って。でもまあ連凧とキャリーちゃんと見せたかったのは本当です。あ、この矢印を押せば動くシステムは変えないでくださいね。約束ですよ」

「分かった」


 航平は長尾が作ったというアプリに目を落とした。

 それはプログラムにビジュアルを持たせることで明快にしていた。

 しかしこれだとキャリーが持つ段差を自在に超えていく面白さが消える。 

 面白くなってきて夢中でPCをいじっていたら、太陽の光で見えにくくなってきた。

 PCを押しながらジリジリと日陰を求めて移動すると、身体全体が日陰になった。

 顔をあげると、芽依が校舎の上にあったカーテンのようなものをクルクルと伸ばして日陰を作っていた。

 そして小さな椅子と冷たいお茶も持ってきてくれた。うん、頭が回る。

 夢中でPCを叩いて納得できるものが出来た。

 見せたくて芽依を探すと空を見上げて連凧を見ていた。


 昼下がりの屋上は、青しかない。

 空を食べるように、細い唇が気持ち良さそうに動いている。

 そして空気を味わうように身体を揺らす。髪の毛がさらさらと揺れている。

 よさこい部の練習が再開したようで、ガラスの吹き抜けから、歌が聞こえてくる。  

 芽依は口だけあけて、歌っているようだ。


 吹き抜けの下で歌っているのは日向ミコだろうか。

 甘えるような抜けるような、空に話しかけるような歌が、屋上までダイレクトに響いてくる。

 芽依はその響きに身を任せるように気持ち良さそうに両手で手すりを持ち、背をそらした。

 長いスカートが風を飲み込んで広がる。

 少し背伸びした足先がクンと影を伸ばす。


 舞い上がったスカートの先……連凧がふにゃりと曲がった。

 一瞬、風が消えた。

 そして日向ミコが息を吸い込んで、再び声が響くと、大きな風吹いて、凧が再びクッ……と舞い上がった。

 芽依はゆっくりと風を浴びるように髪を震わせて、白い指先は青空に溶けた。

 そして航平に気が付いてふり向いた。


「できましたか?」


 思いっきり見とれていて、言葉を失う。

 芽依はキョトンと航平の方を見て走り寄ってきた。


「太陽に疲れましたか? 戻りましょうか」

「いや、大丈夫だ。もう少し、ここに居たい」


 そう発した自分の声がかすれていて驚く。

 小さくせき込むと「ちょっと待ってくださいね」とポケットから蜂蜜が入った飴を出してきて渡してきた。

 口に入れると眉をひそめるほど甘かった。

 そして芽依もその飴を口の中に入れる。


「甘すぎですよね。同居してる親友が気に入ると同じような商品をバカみたいに買うんですよ。この飴も抗酸化作用? とかで大量に買ったみたいで。もう私が持ち歩くことにしました」


 芽依は航平を日陰のベンチに誘導した。

 そしてさっき飲んでいたお茶をもう一本持ってきた。

 芽依も横でお茶を飲み飲みながら口を開く。


「あまり……感情の知ったかぶりをしたくないんです。辛いだろう、とか、イヤだろう、とか。そういうのは人によって違うので。だから私は私が持ってる物だけで、なるべく話します。私はですね、最近イヤなことがあると、泣ける映画とかみて泣いちゃいます。意識的に。そうするとものすごくスッキリするんです。だから航平さんも……泣くなら心で泣かないで、顔で泣いたほうがいいです。そしたら誰かが涙を拭いてくれますから」



 なんだ、それは。



 心の真ん中に重たい何か。

 それを鷲掴みにされたように息が苦しくなった。


 知ったかぶりはしたくないと言うくせに、何も知らないくせに。

 俺は、誰かに涙を拭いてほしいなんて、思わないのに。

 それに泣いても誰もいないのに。

 それでも、きっと、この気持ちは。

 航平は口の中にあった飴をかみ砕いだ。


「竹中芽依」

「はい?! なぜ突然のフルネーム……」

「なんでお前はスマホを変えて連絡先をそのまま入れてないんだ」

「あ……ああ、それは……私が結婚していたことは知っていますか?」

「そうなのか?! どんな男だ」

「……話したくないです。泣きますよ」

「そうか。ハンカチならあるぞ」


 そう言って航平はポケットからハンカチを出した。 

 芽依はそれを見て笑いながら断った。


「冗談ですけど。離婚して、その関係者と縁を切りたくて変えたんです。だから連絡先はすべて消しました」

「そうか。じゃあ俺は入れてくれ」

「あの航平さん。学校の掲示板、素晴らしいですよね。色んな所から見られるしシークレットモードもあるし。LINEより使いやすいと思うんですけど」


 違う、そんなことはわかってるんだ。

 芽依の言葉を聞きながら、なんとか言葉を探す。

 でも自分の中に『これ』という言葉が見当たらなくて、無理矢理言葉を引き寄せる。


「竹中芽依、俺は泣かない」

「あ……そうですか。男性は泣いてストレス解消とかしませんよね。よく分からないことを言ってすいません」


 芽依は少し落ち込んだように目を伏せて、小さく頭をさげた。

 違う。違うんだ、そんな顔をさせたいんじゃない、それが見たいんじゃない。

 航平はこめかみを押さえて、頭をふり、出てきた言葉を口にする。


「竹中芽依、俺の近くにきてくれないか」

「はい」


 肩に体温を感じて顔をあげると、真横に真ん丸の目をした芽依がいて驚いた。

 思わず身体を引いてベンチに腰をぶつける。


「近いな!!」

「なんなんですかもうーーー」


 芽依は少し不機嫌になって航平の横から立ち去ろうとする。

 手を伸ばそうと思うが、掴んで何になるのだと空を握る。

 違う……違うんだ。


「っ……教えないと、芽依がさっき歌っていた姿を掲示板に全公開で貼る」


 言葉が見当たらず、結局子どもが拗ねたようなことを言ってしまう。

 実はさっきの姿があまりに美しかったので、俺が作った腕時計の録画機能で録画していた。

 操作して動画を見せると芽依は「あーーー!」と叫んで航平を睨んだ。

 でも揺れるようにフワリと笑った。


「分かりましたよ。無敵な少年だと思っていた航平さんも人間っぽいんだな……と思ったので、別にいいです。でも連絡は学校の掲示板ですると思いますけど、いいですか?」

「いいぞ。スマホを貸せ。なんでこんなクソメーカーのものなんだ。もっと良い物をやろう」

「もう、何でもいいんですって。オタクはこれだから」

「やっぱり公開しよう」

「嘘ですよ!!」


 芽依は風に押されるように立ち上がって、連凧を片付け始めた。

 航平は自分の連絡先を芽依に入れながら思った。


 歌っている動画を公開なんて絶対しない。

 あれは……俺だけのものだ。

 未来永劫、誰にも見せない。

 見ていると、とても気分が良いんだ。

 これが大切なものだということは、ハッキリと分かる。


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