第57話 知恵袋
「あら、バッグを忘れてきたわ」
「もう芽依ちゃん先生ー!」
「先にバス停に行ってて。すぐに戻るわ」
入学式会場で写真撮影をしたのが楽しくて、持ってきたバッグを会場の入り口に置いてきてしまった。
いつも使わないようなかわいい小さなバッグにしてみたので、存在に慣れていなかった。
会場に戻るとバッグはまだあり、安堵した。中身も問題ない。
一階に戻ろうと廊下を歩き始めたら、横を小学生くらいの子どもが走り抜けた。
そして目の前をゆっくり歩く女性にぶつかりそうになった。
あぶない! 芽依は子どもの背中を引っ張って止めた。
「走らないの。ぶつかるわよ」
「はぁい~」
子どもは芽依の手からすり抜けて、反対側に走って行った。もう……。
ぶつかられそうになった女性は、芽依のほうを見て頭を下げた。
「すいません、ありがとうございました」
「いえ……あの、大丈夫ですか」
芽依は女性が少し辛そうにしていたのに気が付いて、なんとなく声をかけた。
女性は近くにあった椅子に座って腰を撫でた。
「先週から突然右足の付け根が痛くなっちゃって。とりあえず昨日整体行ったんですけど治らないんですよね。でも今日はどうしても来たくて」
そう言って手提げ袋を抱えた。
入学式の関係者だろうか……そう言って笑う女性は動くたびに甘い香水の香りがした。
服装やバッグから、お金持ちそうだ……と芽依は思った。
年齢は母親にしては若いが、芽依よりは年下くらいかしら。
女性は苦笑しながら続けた。
「もう仕事してても痛いし、困っちゃうの」
「あの……痛いのは右足の付け根だけ、ですか?」
「そう。関節がなんか変で。足の寝違えみたいな感じかな」
「あの……大きなお世話だし、聞き流してもらってもいいんですけど、私の知り合いで片足だけ動かなくなって調べたら大腸に潰瘍があった人がいます。整体だけじゃなくて、外科も行ってみたらどうでしょうか。問題なかったらそれで良いんですし」
「へえ……行ってみます。ありがとう」
女性は入学式会場に用事があると言うので、その場で別れた。
式はもう終わってるけど、誰か知り合いがいるのかしら?
エレベーターに乗り込んで外を見ながら思い出す。
実はPTAで一緒になったママさんがそういうことになったのだ。
ずっと「なんか右足だけ上がらないの。良い整体知りません?」と聞くので、何か所か教えた。
その数週間後に潰瘍で入院したのだ。どうやら大腸が炎症をおこすと腫れて足が上がらなくなるらしい。
しかし我ながら……おばちゃん力が高まってるわね……と苦笑してしまう。
はじめて会った人に健康アドバイスなんて、病院の控室で「あそこがいい」「ここがいい」と語り合っていた人たちと変わらない。
まあそれが有効なこともあるけど、あまりおせっかいおばちゃんにはなりたくないわ。
次の日から出勤が始まった。数日間は学校に慣れる時間だった。
まず菅原学園には職員室がない。個々のロッカーがあり、そこに荷物を置いた。
職員がメインでPCを使える部屋があるので、作業がある時はそこを使ってほしいことなどが伝えられた。
しかし普通の学校と違い、担任システムがない。
ただ教室で勉強の疑問に答えるシフトだけが決まっていて、後は菅原の敷地内で生徒たちと過ごしてください……とのことだった。
敷地内で? 生徒たちと過ごす?
それは航平が篤史と自転車を分解していたように……だろうか。正直そのほうが難易度が高い。
芽依はすることを決めてもらうのが楽なタイプなので、何も決まってないと困ってしまう。
でもそれが菅原学園だし……慣れていくしかない。
入学式から数週間経ち、普通の授業シフトには慣れてきた。
最初は緊張したが、ソフトの手助けもあり問題無さそうだ。
さて、今日の午前中はどうしようかしら……? と思ったら職員室のドアが開き、そこに近藤が立っていた。
「竹中さん。おはようございます。今日授業午後からですよね。もしよろしければ、こちらにお願いできますか」
「はい」
することがありそうで助かったが……近藤の服装を見て芽依は絶句した。
いつものようにスーツ姿ではなく、上下真っ黒なジャージだったのだ。
ジャージに黒縁メガネで強面なので、なんだろう……失礼を承知で言うならスポコン任侠さん……?
それが何なのか、いまいち分からないが。
ぽかんとしている芽依を見て、むしろ近藤のほうが困っていた。
「あの申し訳ありませんが、明日から汚れても良い服装を持ってきて頂けると助かります。学校にはシャワー室もあるので、作業が終わり次第着替えて頂くことも可能なので」
「……ひょっとして畑が始まりますか」
「そうです。土は待ってくれませんから」
言い方があまりに真剣なので「そうか、土は待ってくれないわね」と思ってしまったが、何か違う気がする。
とりあえず今日は学校のジャージを貸しますから……と言われて、古びたジャージに着替えた。
男性サイズだし、なんだか臭い……でも仕方ない。そして軽トラックに乗せられた。
小学校の裏側から坂をうねうねと下りていく。森を抜けて……谷のようなところもこえていく。
この山のどこまでが菅原学園の敷地なのか、よく分からなくなるほど遠い。
かなり走って車は止まった。
車から出ると、見渡す限りの土……そして広い空、奥には大きな建物が見えた。
想像以上に視界が開けてすごい!! 近藤は荷台から長靴を出しながら口を開く。
「奥の建物は遺伝子研究所で、その先の建物も畑です」
「ものすごく広いじゃないですか!」
「ここは農業大学の一部でもありますし、ただの畑ではなく、肥料の種類などを変えた実験も多く行っているんです」
なるほど……。
近藤の話を聞いて頷いていたら、ドルドルと妙な音と共に、聞きなれた悲鳴が聞こえてきた。
音と悲鳴はどんどん近づいて来る。
「うわあああ~~~~い、近藤さあ~~~~ん、このマシンすごぉぉ~~~いい~~~! 止まらないよお~~!」
それは何か手で押して畑を耕すマシンに振り回されて移動していた蘭上だった。
ド派手に土をまき散らし、マシンの振動に身を振り回されるように土埃まみれになっている。
近藤はサッと近づいて、マシンを後ろから止めた。プシュウ……と土煙は止まった。
そして土だらけの蘭上の顔が見えた。
「ふううう……なにこれ楽しい」
美少年で売っているはずだが、酷い泥の塊だ。
服装は全く農作業用ではない、高そうなブランド物の白い服上下。
それが恐ろしいほど泥だらけになっている。もはや茶色の塊。
芽依は思わず真顔で口を開く。
「……それ洗濯しても落ちないわよ」
「じゃあ捨てる~! あー、楽しい。ねえ近藤さん、これどこまでやっていいの?」
「あっちまでしてもらって大丈夫ですよ」
「やった~~~!!」
蘭上は再びマシンの電源を入れて土をまき散らしながら去って行った。
近藤が口を開く。
「あれは学長のお手製のマシンで、とにかく深い所まで一気に混ぜられるんです」
「……見てるだけで馬力を感じます」
「服を貸すと言ったのですが……」
「ジャージは着ないと思います」
「そう言われました。蘭上くんもお豆腐が好きで、大豆を作りたい……ということで朝から来られてまして、向こう側から全部耕してくれました」
「そういえば家では豆腐ばかり食べてますね」
「では、美味しい豆を作りましょう。丁度今日は先生もいらしてて……小清水さん!」
近藤が声をかけると、畑の奥のほうにいた女性が近づいてきた。
「やっほー。近藤くん」
「小清水さん、おつかれさまです。こちらは新任の竹中芽依先生です。今日から畑の作業を手伝ってくださいます」
「初めまして」
と頭を下げて小清水と目が合って……お互いに「ああ!」と叫んだ。
小清水と紹介された方は、入学式の時に会った女性だったのだ。
あの時は美しいスーツ姿だったが、今は髪の毛をひとつに縛り、メガネをしている。
白衣を羽織り、あの時の華やかさはない。でも間違いなく同じ人物だ。
「あなた……良かった、探してたのよ!」
小清水は芽依の両肩を掴んでガタガタと揺らした。
「先生でしたか。足はどうでしたか? 気になってました」
芽依は揺れる視界そのままに聞いた。
「大腸じゃなくて、虫垂炎、盲腸だったのよ! ギリギリ間に合って注射で治ったの。近藤くん、この子よ、ほら、盲腸教えてくれた子!」
「ああ……そうだったんですか」
近藤は静かに頷いた。
小清水は芽依の肩を掴んで揺らしながら続ける。
「あーー、良かった、探してたの! もう
岳秋……岳秋ってどこかで聞いたような……?
芽依はまだガタガタ揺らされたまま考えるが思い出せない。
そこに近藤が助け船を出してくれる。
「小清水さんは菅原本家の岳秋さんの婚約者なんです。大事に至らなくて良かったです、本当に」
「ええ?」
「航平にも『こんな子知らない?』って聞いたのになあ。あいつ昔っから使えないクソバカだから!! 新任かあ、あ~~~良かったぁ。探してたの~~~!」
小清水は今すぐランチに行こうと言ってくれたが、午後から授業なのでまた今度……と断った。
ただのおばちゃん井戸端会議ネタを伝えただけだ。
とりあえず盲腸が酷くなる前で良かったと芽依は思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます