第52話 はじめての
「ぶりが安いから、照り焼きと……」
「白和え!」
「いいな」
今日は、はじめて神代の家にお泊まりする日だ。
サロンに通ってトリートメントした髪の毛はサラサラだし、ひさしぶりにネイルサロンも行った。
当然色んなところも……きれいにして。準備は万端だ。
お昼に買い物をして、夜は家で食事を作ろうと神代が提案してくれたので、今は買い出しをしている。
付き合いが長くて楽なことは、好きなものは大体わかることだ。
神代は白和えが好きで、うちに遊びにきていた時もよく食べていた。
莉恵子も基本の料理はできるのだ。とにかく面倒だからやらないだけで。
神代と一緒なら遊びの一種。
駅ビルにあるお魚屋でぶりを買い、他にも色々購入したら、もう手にぶら下げるところは無かった。
ふたりで笑いながらタクシーに乗り込んだ。神代の家は駅からかなり遠いので、こうしたほうが早い。
神代は行き先を伝えて莉恵子のほうを見て口を開いた。
「それで、今日は芽依さん家にいないの?」
「そうです。今日から三日間、ホテルで合宿だそうです。なんかダンス? 三味線? カチャカチャいう何かを使って? 部活の顧問になったんです。見せてもらったんですけど……芽依はダンスはちょっと面白くて……でも楽しそうです」
芽依が働きはじめて数か月経った。
神代に「逃げ」を見通された話をしたら芽依は大爆笑して「結婚相手として信用できる人ね」と言った。
なんだか恥ずかしくていまだ神代を芽依に会わせてない。
今度お母さんに結婚することを話す必要があるわけで、その時一緒に……と考えて素に戻る。
蘭上はどれだけの頻度で家にいるのか、一度確認する必要がある。
蘭上は全く嫌いじゃない。小学生みたいなものだと思うし、なにより仕事相手としは優秀だ。
だから邪見に扱えないけど、お母さんにお父さんに芽依に蘭上に神代……その脚本は設定の詰めすぎだと思う。
そして最近莉恵子が気になっているのは、最近芽依を送ってくれている男の人だ。
「いつも芽依を送ってくる人が真黒スーツに黒縁めがねで、雰囲気がすこし変わってるんです。普通の職業の方なのかな。海外ゲストを護衛する人に似ています。芽依には、もっとやさしそうで真面目で芽依のことを誰より考えてくれて、お金持ちでしっかりしてて大人な会社員とかが良いと思うんですよ」
「莉恵子はお母さんに色々言われるのを嫌がるのに、芽依さんのことには口だしするんだ」
「むううう、芽依は今傷心なんですーー!」
「その顔!」
顔をクシャクシャにして叫ぶと神代は爆笑したが莉恵子的には色々気になる。
帰りも最近遅い日があるし、先生ってブラックすぎない? 大丈夫なのかな。
前を睨む莉恵子の手を神代がキュッ……とにぎった。
「ずいぶんと余裕ですね」
「いえ、あの、神代さんが、芽依の話をするからです」
「はい、やめましょう。じゃあ最近近所にできた美味しいパン屋の話にしましょう」
「知ってますよ~~。ホホベーカリーのお弟子さんが出した食パン専門店!」
「買って帰ろうか。すいません、そこの角で大丈夫です」
神代はタクシーを止めた。
そしてふたりで持ち切れないほど荷物を持って、パン屋さんに入った。
最近できた小さなパン屋さんだけど、前を通るたびに良い香りをさせていて気になっていた。
ふたりで食べるから……と半分のサイズの食パンを買った。
それは命みたいに胸もとで温かい。
神代のマンションの敷地に到着した。
一階にはスーパーや、コーヒーショップがある。
住人はコーヒーが半額だと神代が言うので欲張って更に小さいコーヒーも買った。
もう荷物を持ち切れなくて、ふたりで笑いながら部屋に向かう。
荷物をたくさんもって、これからふたりでゆっくり籠もる準備……という時点で、正直うれしくて仕方ない。
神代が部屋の鍵をあけた。
「どうぞ。さて、ご飯作ろう。冷蔵庫こっち」
「はい」
ドアが開くとふわりと神代の香りがして、心臓が現実を知らせる。
他のことを色々考えて逃げ回っていたけど……今日ははじめてこの家に泊まるのだ。
つまりのところ……そうなんだけど……ああ、もうずっと好きだった人だから、正直荷物を玄関に置いて帰りたい。
何を言っているのか分からないけど、それくらい緊張しているのだ。
だから芽依に毎日話をきいてもらいたかったのに! 最近帰りが遅いの!!
……と芽依に理不尽な怒りをぶつけて思考的に逃げるのをやめたい。
私はこの人と生きていく。そう決め……はああ……逃げ出したい……!!
部屋着に着替えてきた神代が……前に自宅で見ていた姿で倒れそうになる。
神代は莉恵子の気持ちなど全く気が付かずに、和室を指さす。
「リビングから続いてる和室、あそこ莉恵子使っていいから。ていうか、それを想定してこの部屋借りてるから。Amazonの箱で埋めて?」
「!!! そんなこと……するかもしれません」
「あははは!! 大歓迎だ。いつも何買うの?」
「服とか健康グッズとか肉にかけるだけで美味しい調味料とかとにかく汚れを何でも落としてくれる洗剤とか猫舌専用水筒とか良さそうなシャンプーとか無色透明なのに疲れに効くガスボムとかです」
「多い、多いな。でも楽しそうだ」
そう言って神代がほほ笑んでくれるのがうれしい。
どうしても『ちゃんとした莉恵子』でいたいけど、少しずつ神代の近くにいきたい。
奥の和室に入り、持ってきた部屋着に着替える。
押し入れを見たら、そこには新品の衣装ケースが置いてあった。
それを準備してくれたのは当然神代だと分かる。
部屋を見渡すと、新品の布団にハンガーかけ、そして小さな机も置いてあった。
その机の上には莉恵子が家で使っている卓上ライト。
……ここに私がくることを、待っていてくれたんだ。
うれしい。
莉恵子はトン……とふすまを開いて、台所にいる神代の背中に抱き着いた。
「……あの、部屋に色々と準備を……ありがとうございました」
「ああ、うん。一緒に過ごしたいって言ったのは、俺だからな」
「なんか、ものすごく、うれしいです」
「そう。良かった。実はお揃いのエプロンも買ってしまった……テンション上げすぎて恥ずかしい……」
そう言って神代はリビングの机に置いてあったエプロンをひとつ渡してくれた。
もう莉恵子は胸がいっぱいになり、それを受け取って涙ぐんでしまう。
この人、めちゃくちゃ私のこと好きで、そんなの一緒なんだもん。
エプロンをにぎって涙ぐむ莉恵子を、神代がやさしく抱き寄せた。
神代は身長が高いので、莉恵子の全身は、すっぽりと包まれる。
それは柔らかい毛布のようで、それでいて昔から何度もきた場所にように落ち着いた。
全部が、神代の香り……どうしようもなくて、胸に頬をすり寄せた。
大きな掌が莉恵子の頭をやさしく引き寄せて体温に包まれる。
長い指が伸びてきて、冷たくなっていた莉恵子の耳に甘く触れた。
せり上がる快感に眩暈がして、膝から力が抜ける……それを神代の長い腕が強く引き寄せた。
逃げ場なく密着した神代の身体は細いのに、しっかりしていて、元々ここに身体があったように居場所に間違いがなく、気持ちが良い。
どうしようもなくひとつになった身体から、心臓の音が聞こえる。
それは……莉恵子の心臓なのか、神代の心臓なのか、もうわからない。
神代が耳元でいう。
「……莉恵子。好きだよ」
「今そんなこというの、ズルいです」
「すごく好き。好きだよ」
その声は掠れていて、あまり余裕がない。莉恵子は身体を少し離して神代を見る。
すると切なそうに莉恵子を見る神代と視線が絡み合った。
莉恵子の頭のうしろ……大きな手が莉恵子の頭から、ゆっくりと首に移動した。
そのまま伝うように背中に触れた。
快感に思わず喘ぐ。
そのまま引き寄せられて……神代の顔がゆっくりと近づいてくる。
茶色の髪の毛がふわりと揺れる。そしてめがねの向こう……瞳が閉じた。
吐息を吐き出すように、すべてを任せて莉恵子も目を閉じた。
ゆっくりと神代の唇が莉恵子の唇に重ねられた。
さっき一緒に飲んだコーヒーの味。
身体の力が抜ける。
莉恵子の頭を神代が支える。そして腰を掴む。
そのまま壁際に押し付けられて、猶予のカケラもなく抱き寄せられる。
唇を少しだけ離して神代が言う。
「……莉恵子がやっと俺の恋人になった。もう離さない」
「……はい」
「ああ……ご飯食べるまで我慢しようと思ってたのに……ご飯が先に炊けてしまう……良い匂いがする……」
「作りましょう?」
そう言って動こうとした莉恵子を神代が再び抱き寄せる。
そして両手で頬を包んで再び唇を落とした。
今度は、甘く、やさしく。
頬に添えられた大きな手が気持ち良くて、うっとりしてしまう。
神代は切なそうに目を伏せて、おでこをコツン……と当てて、声を絞り出す。
「……もう一回」
「はい。神代さん、好きですよ」
「……あと十回」
「逃げませんから。大丈夫ですから」
莉恵子は神代に抱き着いて言った。
そしてふたりでお揃いのエプロンをして爆笑してしまった。
ピンクと青色で完全に新婚仕様だった。もうこうなったら楽しむしかない。
神代はもぞもぞとお揃いのスリッパも出してきた。
もう我慢できずに床に倒れこんで笑った。
他に何が出てくるのか、莉恵子は楽しくて仕方がない。
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