第47話 真実

「気持ちがいい天気ですね」

「そうだな。でも山のほうは空気が冷たいな」

「大丈夫ですか? マフラー貸しましょうか」

「着こんでるから大丈夫だ。それにマフラーしてると、首が動かせなくて足元が見えない」

「そうですか」


 今日は雨宮家にいた時に一緒にいた拓司の義父と三田神社に来ていた。 

 結桜と文通をしているのだが、その中に毎回義父宛ての手紙も入れていて、今日会うことになったのだ。

 

 もう三月も中盤で日差しは暖かくなってきている。

 でも三田神社は駅からバスで三十分以上のぼった山の中腹にあり、結構寒い。

 義父は二本のポールを両手に持ち、ゆっくり歩いていく。 

 ずっとリハビリに付き合っていたが、家を出る前はこんなに歩けなかった。

 だから横で歩く姿を見るだけで嬉しい。

 歩道の横には清流があり、覆いかぶさるようにある緑が美しい。


「もう春ですね」

「芽依さんが出て行って半年以上経った。本当に淋しいよ。いや……先に言うと謝らないでくれ。何度も言うが、悪いのは拓司だ」

「わかってます。新しい奥さんとは、お話されてるんですか」

「いや、全く近づいて来ない。若すぎて話も合わない。二十歳だそうだ」

「なるほど」


 予想よりも若い年齢に驚いてしまうが、結構本気で「どうでもよいな」と思える自分に安堵していた。

 家を出る時は、浮気してるならそれはどんな女なのか、想像するだけでイライラしていた。

 拓司に抱かれる女が羨ましくて、憎らしくて、泣きながら目覚めた回数は一度や二度ではない。

 でも別れてから本性を見ることになり、今考えると別れて正解だと思う。

 芽依は大きく息を吸い込んで口を開く。


「でも……本当に、結婚した時はすてきな人だと思ったんですよ」

「そうか」


 義父は静かに目を伏せた。

 階段に差し掛かったので、芽依は後ろに回った。

 いつも階段がある神社に来た時は、落ちないように後ろに付くようにしていた。

 そして背中に優しく手を添える。

 

「なつかしいな」

「そうですね。あんなに気を付けていたのに、怪我させてしまって、すいませんでした」

「まったく。芽依さんの謝り癖は直したほうがいいぞ。悪くないだろう」

「そうですね。でも性格なんです」


 芽依は苦笑した。

 とりあえず自分が謝れば丸く収まる、自分が我慢すれば……ずっとそう思ってきたけど、どうやら違うようだ。

 それを教えてくれたのは莉恵子であり、菅原学園の人たちだと思う。

 私は、ちゃんと私の意見を、心の中心に置くべきなのだと、今は思える。

 どうしても周りの気持ちが気になってしまうけど、それでも自分の気持ちを手放さないようにしたいと思う。



 階段をゆっくりと上ると、朱塗りの鳥居が現れた。境内へと連なる提灯は赤く美しい。

 ゆっくり進むと、巨大な御神木が見えてきた。

 そこにはたくさんの人たちが集まっている。

 今日は半年に一度行われる『御神水の儀』が行われる日なのだ。


 まず神社の裏に湧いている御神水を神主さんが準備、それを柄杓に受け取って、御神木へ。

 柄杓に少しだけ御神水を残して、専用のガラス瓶に入れて持ち帰るのだ。

 それが半年の間、身を守ってくれる……もしくは傷む所に塗ると良くなる……という言い伝えがある。


 順番に並び、柄杓を受け取る。

 ひのきで作られた柄杓は御神水を注ぐと、ふわりと香りが広がって背筋が伸びる。

 それをゆっくりと御神木にかけた。


 御神木は高さ四十メートル、樹齢三百年の歴史ある巨木で、単純な一本の木ではない。

 たくさんの細い枝があつまり、そのまま天に伸びて、一つの幹になっているのだ。

 その見事な姿から、ファンが多く、芽依も一度は来てみたいと思っていた。

 下から見上げると、空を突くように美しい。


 少し残した御神水を、購入したガラスの瓶に入れる。

 そして封をして……お守りの出来上がりだ。

 芽依はそれを両手で包んで抱きしめた。義父が足を怪我してしまってから、ずっとここの御神水が欲しいと思っていた。

 だから嬉しい。


「良かったですね」

「そうだな、今日の夜にでも足に塗るよ」

「はい」


 芽依と義父は鏡内をゆっくり歩いてお参りをした。そして御朱印帳をお願いしてお守りを購入した。

 そして神社を出て、近くにある甘味所を目指す。

 義父とお参りにくるといつもこのルートで、芽依は最後にゆっくりと甘いものを頂けるこのコースが大好きだった。





 神社から少し離れた場所にある小さな茶屋は、来るとき気になっていた店だ。

 小さなお餅と抹茶の注文を済ませて外を見た。

 ここからも清流が見える。サラサラと流れる川の音が心地よい。

 そして……芽依はずっと聞きたかったことを義父に聞いてみることにした。


「……あの、ずっと気になってたんですけど。お義母さんはどうしてここまで頑なにお義父さんの介護や病院に付き添われないんですか?」

「ああ、うん」


 義父はそれだけ言って、うつむいた。

 実は結婚して雨宮家に入ってから、ずっと違和感があったのだ。

 お義母さんは頑なにお義父さんの病院や介護に付き添わない。趣味の日舞の教室を大きくすることだけに集中していて、ほぼ芽依に任せていた。

 しかし見ていてそれほどお義父さんを嫌いなようには見えないのだ。長く付き添った夫婦そのものに見えた。

 昔、病院とかで嫌な目にあったのかな……と芽依は少し考えたが、理由はまったく分からなかった。

 雨宮家にいる時は、知るのが悪い気がして聞けなかった。

 義父は静かにお茶を飲み……顔をあげた。


「そうだな。ずっと話そうと思っていたし……今日はそれを話そうと思っていた。でも……話したくなかったんだな。いつまでも卑怯者だから」

「え……?」

「俺はな、芽依さんがくる直前に浮気をしたんだ。同業の女性だ。退職したのに家に母さんがいなくて淋しかったのもある。何よりずっと優しくしてくれる彼女に惹かれていた。今思うと考え無しの愚かな行為だ。でもあの時は……運命だと思ったんだ」


 義父が語り始めた過去に芽依の心臓は大きく脈をうち、苦しくなってきた。

 まさか義父が、拓司と同じ浮気をしていたなんて。


「結局数回で母さんに気が付かれて、慰謝料を払って別れた。母さんは日舞の教室を増やして一緒に旅行に行こうとお金を貯めていてくれたみたいだったのに……俺は何も分かってなかった。そして拓司が結婚して……芽依さんがきて……俺は怪我をした。母さんの態度は当たり前なんだ。俺がそれを黙って、芽依さんに甘えていただけだ」


 芽依は何も言えない。

 あの頑ななお義母さんの態度は、過去を清算しきれない苦しみの表われだったのか。

 その気持ち……芽依には簡単に理解できた。今拓司の介護をしろと言われたら、無理だ。想像すると……本当に無理だと思う。

 心にあるのは『関わりたくない』だけなのだ。

 義父は続ける。


「離婚も申し出たんだけど……頑なに断られてな。顔見なきゃ離婚したのと同じ状況ですから……って」

「でもお義母さん……お義父さんのお食事準備されたりしてますよね。それほど愛情がない状態には見えなかったです」

「外からどう見えるか……じゃない。中は全部……あの時に壊れたままだ」


 その言葉に芽依は唇を噛んだ。

 芽依もずっと……拓司とちゃんと夫婦のつもりだった。いつから浮気されて、心が無かったのか全く気が付かなかったのだ。

 義父はお餅を小さくして口に運び、話す。


「拓司が浮気して芽依さんが出て行って……すべて俺がしてきたことを目の前で見せられて……正直こうして合わせる顔もない。今日は謝りに来たんだ。許してほしい。ずっと言えなかった。傷つている芽依さんと……同じことを俺は母さんにしたんだ。だからもう、俺は施設に入ることにした」

「え?」

「知り合いが田舎に施設を作ったんだ。そこに入る。土地を持ってたんだけど、その権利はすべて母さんに譲渡した。母さんは俺がいなければ自宅を改装して日舞の教室も始められる。俺は働いてた頃の貯金だけで施設に入れそうだ。海の近くで落ち着いて死ねる」

「お義父さん!」

「いや、これは雨宮家にとって、最高の手段だし……俺にとっては幸せなんだ。もう逃げ出したい、ごめん、弱いんだ……」


 そう言われてしまうと、もう言葉がない。

 

「俺が浮気したことを、姉の志乃は知ってたし、拓司も知っている。でも……結桜は知らなかったんだ。今回、施設に入ることを決めて、すべて話した。結桜は……おじいちゃんがいなくなったら芽依さん悲しむし、もし何かあったら私が面倒を見るって言ってくれてな……それがどうしようもなく辛かったんだ。結桜ほど未来がある子に、俺みたいなクズの面倒を見る必要はない。本当は今日……結桜は一緒にくるつもりでずっと準備してたんだ。でもこの話をしたら……行かないって。そりゃそうだよな……すまない、本当に……愚かだった……」


 そう言って義父は静かに頭を下げた。

 お義母さんの気持ちを考えると単純に「顔をあげてください」とは言えなかった。

 芽依は出てきた言葉を素直に出す。


「なんで浮気するんですか?」

「……すまない」

「なんで愛されていることに気が付けなかったんですか?」

「……すまない」

「なんで私は……拓司さんじゃなくて、お義父さんを責めてるんですか」

「……すまない。本当にすまない……」

「お義父さんも謝る相手は私じゃないし、私も責める相手を間違ってますね。でももう……きっとどうしよもない。あーー、ほんとどうしたら自分だけを愛してくれる人に巡り合えるの?」


 食事を終えた芽依は、もはやひとりごとのように文句を言った。

 義父は責められている時のほうが気楽なようで「すまない」と繰り返していた。

 自分の息子である拓司が他の女を妊娠させて、保証人の所に判をついたお義母さんは、どういう気持ちだったのだろう。

 私を追い出して、子どもが産める人を優先したのだと勝手に思っていた。



 駅で義父と別れて、芽依はLINEを立ち上げた。

 そして結桜に連絡する。今日は今すぐ話したい。こういう時に、まさにLINEだ。


『ねえ、裏切らない人って存在すると思う?』

 すぐに既読になった。

『聞いた? ついでに知ったんだけど、私のお母さんはホストに貢いでお父さんに見捨てられたんだって! マジで雨宮家、ヤバいのしかいない。私の遺伝子超危険じゃない?! だからさあ私、仕事に生きるのが正解な気がしてきた。そしたらクズ引いても生きていけるし!』

 結桜のLINEに芽依は噴き出して笑った。

『クズを引くのが前提なのね』

『私、美容師の資格取ろうかなーと思ってて。どうかな』

『良いじゃない! 結桜、髪の毛縛るの上手だったもんね』

『高校に通いながら資格取れる所とかあるの。調べてみるね』

『私も四月から学校!』

『もうダメだ、自力で生きられるように頑張る』

『それならどうなっても、とりあえず生きられるからね』


 電車が来たのでスマホを鞄に入れて顔をあげた。

 愛されて結婚して普通の家庭を持ち、自分の子どもを産み、幸せに老いていくのが夢だった。

 でもそれは……ものすごく難易度が高いことね。もはや夢物語。

 そう見えてみても、そうじゃない人たちのほうが多いのだ。

 だったらどうするの? どうしたいの? ……わかんない。

 芽依は電車の中で目を閉じた。

 

 

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