第21話 神代の想い


 手にポタリと落ちたのが涙だと気が付くのに、少し時間がかかった。

 古びた小さな劇場で、意味がわからない感情に襲われて、気が付いたらボロボロと泣いていたことを神代勇仁かみしろゆうじは今も覚えている。

 高校の先輩が「伝説の脚本家らしいよ」と連れてきてくれた劇場は、ワンルームくらいの広さで、椅子なんてドン・キホーテで五百円で売っているような丸椅子だった。

 お尻は痛くなるし、狭いし見にくいし……「面白い作品なら、もっと大きな劇場でやってるだろう」とバカにしていた。

 でも見終わった二時間後……どうしようもなくあふれ出す涙に顔を覆った。

 泣かそうとしてないのに泣かされたのは初めてだった。


 脚本家の名まえは、大場英嗣おおばひでつぐ……全然知らない人だった。


 連れてきてくれた先輩に頼んで、その場で紹介してもらった英嗣はおそろしく普通の男性だった。

「わあ、そんなに気に入ってくれてうれしいな。次? 次かあ……来年か、再来年か……なんならもっと先かも」

 そう言ってほんわりと笑った。

 話を聞くと、普通の会社で働いていて脚本は全くの趣味だった。

 演出家が列をなして本を待つ脚本家……それが大場英嗣だった。

 自分のことを多く語らないまじめな性格と、静かな知性、才能があるのに偉ぶらない人格にほれ込んで、勝手に付きまとうようになった。

 半年ほどして、娘さんを紹介された。当時幼稚園だった大場莉恵子はクルクルと丸い目で俺を見てほほ笑んだ。


「おじさん、私いま、自転車練習してるの。みてて!」


 当時高校生だったのに『おじさん』と呼ばれて「??」と思ったが、今考えれば妥当だ。

 莉恵子は自転車に少し上手に乗れるとパアアと笑顔になり、転ぶと号泣して道路に転がるような素直な子だった。

 アイスが大好物で、大嫌いな自転車の練習も少し先にある31の自販機のためになら頑張った。

 上と下をぺりぺりはがして食べるアイスを食べながら、河原で遊んだ。

 キラキラと美しい川面と、莉恵子が歌う……アメリカの妙な生物が暴れるテレビ番組の曲と、口の中に残る甘さ。


 一緒に遊ぶようになって三年ほど経った頃……今もよく覚えている。


 ペンキをぶちまけたような青空が広がる冬の日だった。

 公園を歩いていたら、突然雪が舞い上がった。

 世界の青に、真っ白な花が咲き乱れるように下から上に向かって、次から次に。

 そして電話が鳴った。

 青空に白い雪がゆっくり消えて、言葉にならないただの泣き声がひたすら続いた。

 それはやがて叫びになり、漏れ出した感情になり、そのまま莉恵子は『神代さん、神代さん』と名まえを呼び続けた。

 何度も何度も「莉恵ちゃん、落ち着いて」と言ったが、何も伝えてくれなくて。

 結局濡れたハンドルを握りしめて自転車で駆けつけて、事実を知った。

 大場英嗣は心臓発作で突然亡くなった。

 なんの前触れもなく、部屋に倒れていたのが発見されたのだ。

 

 色々手伝って挨拶して、やっと落ち着いて莉恵子の顔を見たら……笑ったんだ。

 それはからっぽの感情が風に揺れてチリンと鳴るような、そんな空虚な表情で。

 瞳がゆっくりと震えて、もうこれ以上我慢できないように、大きな涙が零れ落ちた。

 あれを真横で見た瞬間から、出来る限り莉恵子の近くにいようと決めた。


 小学校の卒業式に立ち会わせてもらって、中学の入学式も見に行った。勉強も教えて、話も聞いた。

 莉恵子が高校生になるまでは、本当に父親の気持ちで接していた。

 高校に入学が決まって、制服で待ち合わせ場所にきた莉恵子は……視線の高さもあまり変わらず、完全に女性だった。

 そして言ったんだ。


「神代さん、私もう、子どもじゃないですよ」


 これは宣言だと思った。

 父親として横に居続けた俺へ、もう子ども扱いしないでほしいという宣言。

 そして同時に思った。


 じゃあ俺たちの関係って何なんだよ?

 どういう関係になりたいんだよ?


 そこからギクシャクしはじめて……もう十年。

 神代は三十九才になり、莉恵子は十才下の二十九才。当然だけど子どもじゃないし、それどころか……。

 莉恵子は高いヒールをカンと鳴らして階段を登って、顔をあげた。

 その頬がピンク色に上気している。


「神代さん! やっぱりここの美術館は、ものすごーーーく長いですね。すごい、カッコイイ。やっぱり大きな建物はテンションあがります」

「……莉恵子も昔から大きい建物が好きだよな。昔東京タワーに行ったの覚えてるか?」

「もちろんですよ。今も覚えてます、下から見た東京タワー、今も好きです。今度スカイツリー行きませんか? 行っても行っても雲の中で先っぽを見たことがない」

「そりゃ運が悪いな」

「存在しないのでは……と思ってますよ、もう」


 長い髪の毛を耳にかける莉恵子は、めちゃくちゃ美人に育った。

 二十九才に向かって『育った』というのは違うと分かっている。でも顔に昔の面影があって、やはり『育った』なのだ。

 正しく言おう、すごく俺好みの女の人に、なった。

 神代と英嗣と莉恵子は、三人でよく大きな建物をめぐって散歩していた。

 今日も美術館というより、この建物がリニューアルオープンしたのを知り見に来たのだが、莉恵子も一緒に楽しんでいる。


「これ……どういう構造なんですかね。ここまで広い空間がどうして取れるんだろう」

「これは横の支柱がすごく太いんだよ。百階建てのタワーにも使える鉄筋らしいよ」

「それが横になってるんだ。ほわー! こっちこっち! 登りたいです」


 そう言って莉恵子は神代の袖を引っ張って、二階に行く。

 昔から莉恵子は神代の袖をクイクイ引っ張る癖があって、それは変わらない。

 神代はスマホを取り出して、写真を見せた。


「ここさ、ヤクルトの旧ビルなんだけど……見てよ、この階段。めちゃくちゃカッコ良くない?」

「こ、これは! 細い鉄骨を溶接して骨組みを作ってるんですね。カッコイイ……」

「もう取り壊しちゃうんだってさ」

「ええ?! もったいない。階段だけもらえないんでしょうか」

「階段もらってどうするんだよ」

「家に……飾る?」

「あの家のどこに置くんだよ」


 神代は笑った。ああ、やっぱり莉恵子と話しているのは楽しい。

 莉恵子は写真を見ながら口を開いた。


「でもあれですよね……こういう気合いが入った古い階段とかをみると思うんですけど。これを作った人の想いがまずあって。どうしてこういうのを作ったのかな……ってすごく思うし……そしてこの階段を上ってた人たちがいる。この下でタバコ吸ったあとがありますよね。階段を見ながらどんなことを考えたんだろう。上がすけるから、下から手をふったのかな……とか、スカート無理だな、とか。それに、私たちみたいにただ階段を見て『もったいない』と思う気持ち。全部ふくめて、カッコイイんですよね」


 神代はポカンとした。

 物事の見方が多角的で……それはまるで英嗣と話しているようだったからだ。

 はじめて舞台を見た時には、英嗣の脚本の良さがまったく分からなかった。でも仕事を続けてやっと「良さ」が分かるようになってきた。

 英嗣の脚本は、ひとりの感情にひとりの話ではないのだ。

 多くの視点でひとりの感情を描き出していくから、大きな物語になる。

 その感情に気が付いた時、俺は泣いたんだ。

 それと同じような、非常に高い所から見る視点を……娘の莉恵子が持っていると神代は確信した。


「莉恵子……次の俺の仕事、企画出してくれるんだろ?」

「お! 今ですね、超がんばってますよ。神代さん、私たちの企画わかりますかね~~。シークレットですよね、コンペ」

「楽しみにしてる。莉恵子と仕事したいよ。莉恵子、大人になったなあ」

「えっ……突然なんですか、もう。ほら神代さん、カフェ行きましょう? ここホットケーキあるんですよ。調べてきたんです。トッピングは五種類あって、生クリームとアイスとチョコとバターとシロップですよ。もう全部載せちゃおうかな。神代さんは?」

「シロップだけでていい……」

「盛り足らなくないですか?!」

「莉恵子が美味しそうに食べてるのを見てるのが楽しいよ」

「あっ……もう、そんな……ズルい……」


 そういう莉恵子は口元をもぞもぞさせて、耳を真っ赤にして、めちゃくちゃかわいい。

 仕事視点の時はものすごく冷静なのに、女の子になるとかわいいなんて……ズルすぎる。

 さっき電車を降りた時に指先に触れて、どうしようもなく自覚した。

 俺は莉恵子を女性として好きなんだ。

 そんなこと、とうの昔から分かってたけど。

 ゆっくり息を吐き出して思う。


 英嗣さん、俺、娘さんの彼氏になれるくらい、成長しましたかね?


 そうすると、脳内に住みついた英嗣が笑顔で言うんだ。

「まだまだじゃないかあ? ここの詰めが甘すぎて意味が不明だなあ。なんでこう書いたのかわからないなあ。これで面白いのかなあ」

 神代は苦笑する。

 まだまだだと分かってますよ、だから娘さんを貸してください。

 娘さん、英嗣さんを受け継いで、ものすごく優秀です。

 だから貸してください。一緒に進みますから。

 神代は莉恵子の手を優しく握った。

 

「!! 神代さん、手……あの……」

「昔はよく繋いだじゃん」

「もう迷子になんてなりませんよ!」

「いや、俺が繋ぎたいから。ダメ?」

「あの……いえ、えっと……私も繋ぎたいです」

「良かった。行こう。確かにお腹すいてきたな」

「サンドイッチもあるんですよ」


 莉恵子が神代の腕に軽くしがみついて来る。

 ふわりと真っ黒な髪の毛が揺れて、甘い香りがする。

 そしてまんまるで大きな瞳が優しくほほ笑む。それは昔自転車に乗って見せていた自慢げな笑顔と変わらない。

 莉恵子が好きだ。ずっと一緒にいたい。もう迷わない。

 だからこそ莉恵子と仕事をして、頭にすみつく英嗣に勝つ。

 そして堂々と、莉恵子に好きだと伝えるんだ。


「飲むならビールのがいいな……」

「昼からビール飲むと芽依に怒られますよ! すっごく怖いんですから!!」

「そうなん?」


 俺たちはゆっくりと手を繋いで歩きはじめた。

  

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