第20話 揺れる心と白い息

 

「ちょっと莉恵子、何なの。色々盛りすぎでしょう?!」

「ねえねえ芽依、スチーマーに水足して? なんかエラーの赤色が見えるよう……」

「ちょっと待っててね。これ精製水じゃないていいの? そう書いてあるけど」

「そうだった。ちょっと待ってね、この前買ったの……そこにある……そこ……」


 莉恵子は顔にパックをつけたまま、もそもそと立ち上がった。

 でも前が見えてなくて段ボールにぶつかる。


「いたーい!」

「目の部分だけ取ったら?」

「あ、そうだ。これ目のところ取れるんだった」


 莉恵子は顔に張り付けたパックの目の部分だけ取って歩き出した。目当ての段ボールを抜き取り、スチーマーに精製水を入れた。

 そして目の部分に再び戻してスチーマーの前に座る。

 莉恵子は木曜日まで終電帰宅して始発で出社……みたいな働き方をしていたのに、金曜日の今日は二十時すぎに帰ってきて驚いた。

「お腹すいたのおお……」と突然言うので、簡単に鍋を作って出したら美味しそうに食べて、そのままお酒を飲むのかと思ったら「今日は飲まないの!!」と宣言。

 フェイスマッサージをしてクリームを塗りこみ、パックをしてスチーマーをつけた。

 そして髪の毛に何か怪しいドロドロとした液体をしみこませて、ラップでぐるぐる巻きにして、さっきネイルをしたようで、指をピンと伸ばしている。

 つまりのところ、ものすごく変な状態だ。

 でもさすがにわかる……。


「明日デートなの?」

「でへへ……デートじゃないけど……デートなのかな? いやあぁ……デートなのかな? デートぉ……でへへ……」


 その姿が可愛くて、横でほほ笑んでしまう。

 よく考えたら私は『将来性がある人と幸せな結婚するために恋愛する』という気持ちが強くて、好きとか、あまり感じたことがない気がする。

 だから莉恵子のこの状態は新鮮だし、可愛い。

 こたつに一緒に入ってみかんを食べながら聞く。


「会社の人?」

「同じ仕事関係だけど……同じ会社じゃなくて、尊敬してるけど、話してると一番楽しくて……でも尊敬してて……」


 莉恵子は指先をひらひらさせながら、パックをしててもわかるほど口元をもぞもぞさせている。

 やだ、すごく可愛い。


「どこに行くの?」

「美術館だって。ねえ、芽依、何着ていこうかな。ZOZOの箱は全部開けて、そこに広げたんだけど。仕事の服しかないの。でも仕事の服っぽい感じのがいいと思う? あんまり可愛いアピールするのも、ちょっと痛くない?」

「うーん? 確かになんか……暗いわね……なんでこんなに黒紺灰色なの……?」

「色合わせを考えるのが面倒で、同じ色ばっかり買っちゃうの。あ、押し入れに派手なのあるかも」


 莉恵子に言われて、リビング横にある押し入れを開けると、中から恐ろしい量の服が落ちてきた。


「きゃああああ!! ちょっとなにこれ!!」

「あ、そういえば畳の部屋から持ってきた服ねじこんだんだった」


 高そうな服がタグをつけたまま、ゴロゴロと転がり落ちてきて、最後にカバンも落ちてきて頭にゴンとぶつかった。


「痛っ!! 整頓しなさーーい!!」

「なんかいい感じの考えてくれたら、明日やる!!」

「デートの話聞かせてよ?」

「もちろんだよお。むしろ明日の夜、聞いてほしい」

「あら、帰ってくるの?」

「かえっれめ、ええいう、帰ってくるよ!!」

「あらそう、そうなの」

「芽依はハレンチ!! ハレンチさんだ!!」

「二十九にもなって何言ってるんだか。あ、このワンピース可愛い」

「えー……ワンピースう……可愛くしてきた感じが強すぎない? もっとこうちょっとだけ気合い入れたけどそんなに本気じゃなくて、でも『お、いい女になったな』みたいのをバリバリ感じる雰囲気にしたいんだけど」

「何言ってるのかよく分からないわ」


 服をひっくり返してあれこれ選ぶの楽しくて、何パターンも作って服を選んだ。

 ああ、なんかこういう楽しさって本当に久しぶり。

 それに同じような服ばかり出てきたので、かなりの量の新品を莉恵子がくれた。

 雨宮家から持ってこなくて本当に正解だった。







「なんかちょっと……素顔すぎる気がする。いや、そんなことないかな」

 

 莉恵子はスマホを鏡代わりにして顔を見る。

 芽依に「何を塗るより早く寝るのが一番いいの!」と言われて、昨日は驚きの二十三時に寝た。

 その結果、肌がつやつや……だからあまり塗らずに来たけど、会社に行くより薄化粧で心配になってしまう。

 駅のエレベーターの大きなガラスに服をうつすと、深緑色のプリーツスカートに黒のハイネック、それにワンポイントのタイツに真珠のピアス。

 莉恵子は面倒で前髪を作らぬワンレングスで、ただ伸ばしている。

 ただ月に一度恐ろしく高いトリートメントを美容院でぶち込んでいるので(その間眠る)髪の毛はサラサラだ。

 時間がないから金に頼む。それがポリシー。

 冷静に見るといい感じに美術館デートっぽく仕上げられた気がする! すべて芽依が発掘してくれたの。

 ここまでくるとそろそろ「拓司さん、芽依を開放してくれてありがとう……」とお歳暮送ったほうが良い気がする。

 もちろん嫌がらせですけどね?

 

「莉恵子」

「神代さん!」


 神代が駅にきた。

 いつも通りの黒のハイネックにGパンと灰色のマフラー姿なんだけど、眼鏡がいつも違う。

 メディアに出る時だけ使ってるちょっと良い眼鏡だと莉恵子は知っている。

 もうそれだけでソワソワしてしまう。

 神代は莉恵子をゆっくりと見て口を開いた。


「なんかすごく大人っぽい。莉恵子がねえ……」

「もう、毎回このやり取りやめてください」

「最初にあった小学生の頃のイメージが一番強いんだよな。よみうりランドのコーヒーカップ、気持ち悪くなるまで乗せられたのがさ……」

「あー、久しぶりに乗りたいです。今度行きませんか?」

「ええ……今乗ったら秒で寝込むと思う。俺、あの駅から出てるゴンドラが好きなんだよ。巨人軍の二軍のグラウンドが見えて」

「え? そんなのありましたっけ?」

「気にしてないと見ないかもなあ」


 神代は話しながら「行こうか」と莉恵子の背中に軽く手を添えた。

 その体温に押されるように歩き出す。手を繋いで歩いていたのは小学校までで、よみうりランドは小学校六年生の卒業記念に連れてってもらって……手を繋いでいたと思う。

 でも十二歳と二十二歳が手を繋ぐのと、二十九歳と三十九歳が手を繋ぐのは、きっと違うことだ。

 それでも心の真ん中にある『神代さんと話したい』という気持ちは何も変わらない。


「そういえば、竹中芽依って覚えてますか? 何度か居酒屋で一緒に食事したことあると思うんですけど」

「ああ、近所に住んでた子。覚えてるよ。生徒会長さんだ」

「そうです! 最近彼女離婚して、今一緒に住んでるんですけど……もう料理上手だし片付け好きだし、最高です」

「莉恵子は働きすぎなんだよ。だって高校生の時はわりと家事とかしてたし、部屋もキレイだったじゃないか」

「そうなんですよね。別に料理はそんなに嫌いじゃないんですよ。普通に作れますし。本当に仕事が楽しくて」


 そう言って顔をあげると神代がやさしい目で莉恵子を見ていた。 

 その甘さに恥ずかしくなって視線をそらす。


「なんかずっと俺がさ、劇団の子役として無理矢理デビューさせたり、映画の端役として無理矢理使ったり、子どもが作る学芸会が見たいからってもぐり込ませてもらったり、なんなら勝手に監督したり、子ども向けの映画を見たいからって莉恵子と一緒に見に行ったりさ、わりと強引に映像業界に巻き込んだ気がしてたから……そうやって楽しそうにしてるのを見ると嬉しいよ」

「……思い出すと、予想以上に神代さんに利用されてますね、私」

「昔から莉恵子といるのは楽しかった。それもあるんだ」

 

 静かに電車がホームについて、影から光が満ちる。

 神代がやさしくほほ笑んで莉恵子を見ているのが分かって、心臓が素手で捕まれるように痛くなった。

 ホームドアが開いて、駅に降りた。冷たい風がふわりと髪を揺らして首を抜ける。

 電車とホームの間にわりと空間があり、神代は自然と莉恵子に向かって手を伸ばした来た。

 電車が発車するアラームを背に莉恵子は神代の手に、自分に指先を置いた。

 体温を交換するように触れ合って、少しがんばって履いてきたヒールがホームにつくのと同時に、莉恵子は神代の手から自分の手を離した。

 背中を電車が走り抜けて、神代のすこしふにゃりとした前髪が揺れた。

 眼鏡の向こうからやさしい瞳がほほ笑む。


「行こうか」


 神代は柔らかく莉恵子にほほ笑んで歩き始めた。

 揺れるコートとマフラーと白い息。

 莉恵子は胸元の服を掴んで、胸をしめつける息を吐き出した。

 手が熱くて、熱を逃がすようにグーとパーを繰り返す。

 どうしよう、息が苦しい。

  

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