第11話 もう後悔はないと顔をあげて


 二日前まで普通に生活していた町なのに、もう駅の名前を見るだけで気が重い。

 芽依は「はあ……」とため息をついた。


 朝莉恵子の家を出て、またこの駅に戻ってきた。

 四年間暮らしてきた町。実家が消滅した芽依は、結婚して出来た『自分の帰る家』が何よりうれしかった。

 その街にこんな気持ちで戻ってくるなんて……考えてもいなかった。

 駅に近づき、スマホをカバンに入れる。

 もっと助けてをもとめるべきだったと頭では理解してるけど、それは出来なかった。

 昔からそうだ。いい顔して、自分さえ頑張っていれば、それで世界が笑顔で回るなら、それでよいと思っていた。

 でも結局手は二本しかないし、時間は平等に二十四時間だ。

 何かをしていたら、何かが消えていく。

 私は外に向けた良い顔をして、拓司さんと愛し合う時間を失った。


 駅から降りると、いつも買い物をしていたスーパーが目に入った。

 月曜日はお魚の日、火曜日はお肉の日、水曜日は麺の日……すべての特売を覚えている。

 小学生の時から料理をしてきたので、まったく苦じゃなくて、要望されるままに作って仕事を増やしてしまった。

 でも今頼まれても、引き受けてしまうと思う。料理はそれほど嫌いじゃないのだ。

 離婚してから料理してなくて、それが地味にさみしい。

 毎日山ほど作るのは大変だけど、二人前くらいなら楽しくて好きだ。

 それに莉恵子は好き嫌いがない。昔から出てきたら何でも食べるのだ。 

 あ、ブロッコリーとカリフラワーだけは嫌いだった気がする。

 その前に台所を片づけないと……芽依は苦笑した。


 スマホにポン……と通知が入った。見ると今から行く不動産会社の社長だった。


『来ないほうがよさそう。駅の裏にあるコメダ集合。荷物はあとで発送する』


「……ええ……?」


 来ないほうがよさそうと言われるということは、むしろ店に誰か来ているということだ。

 芽依はくるりと踵を返して駅の向こうへ向かった。



 コーヒーを飲んで待っていたら、三十分後に社長ではなく、部署の先輩……南原涼子が来た。

 周りをキョロキョロして、誰かにつけられてないか確認しているように見える。

 南原は芽依を見つけると「ごめん、おくれたー」と言って席について、コーヒーを注文した。

 そして目を輝かせて話し始めた。


「旦那さんが来てるの。芽依さんが出勤してくるのを待つって! もう石みたいに動かないのよ」

「ええ……?」


 あんな風に追い出して今更何の用なんだろう。

 離婚に同意した瞬間の笑顔が浮かんで少し冷めたコーヒーを飲み干した。

 思い出すだけで、ここから逃げ出したくなる。

 でも石のように動かないって……お客さんを迎えて物件を紹介する場所なのに、悪すぎる。 

 

「お店にも迷惑だし、こっちに来てもらえるかな。辞める書類はこれ? 今から記入するね」

「ええ? 大丈夫? なんか超不機嫌で、社長がこっちでなんとかするって言ってるけど」

「いやいやもう、そんなの悪すぎるよ……」


 簿記の資格を持っていた芽依は、家から近くて融通がきく職場を探した。

 家の事情で休むことも多かった芽依を「いる時に他の社員の百倍仕事してくれるから」と置いてくれたのは社長だった。

 電話で「辞めます」と伝えることも出来たけど、やっぱり顔を合わせて言いたかったから来たのに、まさか拓司が迷惑をかけていると思わなかった。

 芽依が言うと南原は戸惑いながら拓司を呼んだ。

 南原はコーヒーを飲みながらため息をついた。


「正直雨宮さんいなくなるの、ヤバイですよ。営業たちが雑に出して来てる領収書、よくあれで通してましたね。私無理なんですけど」

「毎月見てたらパターンは読めるじゃない。だから仮払い請求書に清書してただけ。それに良くするとお土産を買ってきてくれるし」

「あー、雨宮さんがしてあげてたから、あのお土産だったのかー、もうないのかー、そうだったのかー、生八つ橋ないのかー」


 南原はコーヒーのおまけについていた豆をバリバリ食べながら嘆いた。

 営業さんたちも頑張り屋さんが多くて、芽依はこの会社が本当に好きだった。

 次の仕事どうしようかな……。

 コーヒーを飲み終えて入り口の方を見ると、見慣れた顔……拓司が来ていた。

 それに気が付いた南原は、荷物を掴んでサッと立ち上がった。


「んじゃこれ受け取ります。LINE来ましたけど、社長も店の下まで来てるみたいなんで、近くのファミレスにいますね」

「ごめんね、ありがとう」

「大丈夫です。健闘を祈ります」


 南原が言い終わるより早く、拓司が席に来た。

 そしてすぐに口を開く。


「芽依、お前。親父の保険証どこにやったんだ」

「え?」


 最初に言われる言葉がそれなのか。芽依は「はあ?」と思いながら普通に答える。


「保険証は、リビングの棚の中よ。いつも同じ場所」

「どこの棚だ」


 拓司はスマホに触りながら言う。

 きっと家でお義母さんが待機しているのだろう。


「どこって……貴重品が全部入ってる棚よ。玄関入って右側に行って、テレビがある横のガラス棚」

「なんでそんなわかりにくい場所なんだ」

「そこに入れるように言ったのは拓司さんじゃない。私が信用できないから暗証番号も月に一度変えるって鍵までつけて」

「その番号を教えろ」


 ええ……? 自分で設定しておいて忘れているのか。芽依は心の中がスン……と静まっていくのがわかった。


「あの、そこの番号、お義母さんの誕生日ですよ」


 思わず敬語になってしまう。当然『バカにしている敬語』だ。

 拓司はイライラしながらスマホを机に置いた。カチャンと高い音が響く。


「何なんだ、早く教えろ。親父がリハビリ行けなくて困ってるんだよ」

「月頭じゃないし、リハビリに保険証要らないと思うんですけど」

「要るんだよ!!」


 家にいた時と同じように怒鳴る。

 周りにいた客が一斉にふたりを見るのがわかった。

 でも芽依はあの頃のようにびくりとしなかった。

 予想をはるかにこえて、拓司が残念だったと気が付き始めた。

 心の中がどんどん冷たくなって、冷静になっていく。


 この人、本当に家のことを一ミリも知らないのね。

 そりゃそうだ、お義父さんが怪我してから逃げ回ってばかり。

 何もしてないものね。それこそ介護福祉士さんには一度も会ったことがないはず。

 何を持って行けばよいのかさえ、まったくわからないはず。

 そうなるとお父さんは被害者かもしれない……ケアマネさんに連絡を取って、状況説明はしよう。

 リハビリを続けた結果、かなり歩けるようになってきたんだもん。

 目の前で頭を抱えて髪の毛をグシャグシャといじっていた拓司は、クッと顔をあげた。



「わかった、芽依!! お前を家政婦として雇う!!!」



 拓司は名案だ! と言った表情で言った。


「ぶっは……!」

「ちょっと社長、見てるのバレますって!!」

 

 ふき出す声がして探すと、入り口近くの席で社長と南原さんが見ていた。

 通路挟んで横の席のカップルも我慢できずに笑っているし、通路にいるウエイトレスさんもお盆で顔を隠している。

 なんだかこんな所を見られて恥ずかしくなる気持ちと同時に「ね? だから離婚になったんです」という気持ちが襲ってくる。

 とにかくお店に迷惑なので、大きな声で叫ばれるのは困る。

 芽依はケアマネさんのLINEを拓司に送った。


「お義父さんのことはこの方に聞けばわかります。細かいものがある場所はお義父さん本人に聞いてください」

「鍵の暗証番号は?」

「だからお義母さんのお誕生日ですよ」

「おい芽依!!」


 拓司が叫ぶ。

 芽依はもうひるまない。

 まっすぐに拓司を見て口を開いた。


「わからないなら、あなたが何もかも頼っているお義母さんに聞いてください。拓司さんの名前でお誕生日に毎年プレゼントを贈っていたのは私だとバレますけど、それでも保険証が必要なら、聞いてください」

「っ……!!」


 拓司が黙るのと、入り口付近にいるふたりが拍手して笑うのは同時だった。

 意地悪なことをしていると自覚している。

 それでもこの程度では許せないほど、芽依の心の傷は深かった。

 でももう、ふり向かないし、この人ために泣いたりしない。

 

 


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