第9話 まだ間に合うのかな


 玄関と部屋に段ボールが溢れかえっていたので、お風呂も危険なのでは……と思ったけど、むしろ何もなかった。

 でもシャンプーだけ七種類くらい並んでいて、何個の頭があるのよ……と芽依は苦笑した。


 結婚していた時は、いつもお風呂は最後で、疲れ果てて眠ってしまうことも多かった。

 こんなにはやい時間にのんびり入れるのは久しぶりで、広い湯舟に手足を伸ばした。

 しかし……莉恵子は相変わらず、男関係がよく分からない。

 莉恵子は昔っからモテた。美人とか、可愛いとかじゃないんだけど、いつも誰かと一緒に笑ってて、なにより人の文句を言わないのだ。

 圧倒的な攻撃性のなさと、無垢な明るさ、でもわりと本を読んでいて博識で、偉ぶらない。

 だから高い頻度で告白されて、それなりに彼氏がいたんだけど、全く長続きしない。

 初めて聞いて驚いたんだけど『自分の気持ちに蓋をしたくて逃げてきた』って……ひょっとして、ずっと好きだった人がいるのかしら。

 あらまあ。私の知ってる人かなあ。

 あの子わりと秘密主義者だからなあ……。

 莉恵子に長く続く彼氏ができたら、めちゃくちゃ嬉しいし、なにより見てみたいわ。 

 芽依は思った。

 

 お風呂から出て半纏を羽織ってこたつの部屋に戻ると、莉恵子はもう日本酒を飲んでいた。

「うい~~。お風呂大丈夫だったでしょ?」

「きれいで驚いたわ」

「実は一年中シャワーしか使ってないの。だからあんまり汚れないのよね」

「あんなに広いお風呂があるのに、湯舟使ってなかったの? どうりできれいだと思った」


 本当に帰ってきて眠っているだけなのね。

 お風呂に入ったほうが疲れが取れるのに……とかグチグチ言いたくなるけど、お風呂に入るのが面倒なくらい疲れる時もあるわ……と思いなおす。

 ふう……すっきりしたし、もう一回ビールを飲もうとこたつに入ると、莉恵子は不思議そうな表情で芽依を見ていた。


「ねえ、それ……部屋着? それで寝るの?」

「ああ……部屋着は置いてきたの、入らなかったし」


 芽依は持ってきた中でも一番楽そうな服に着替えていた。

 でも仕事に着て行っていた服で、部屋着ではない。

 目についたボストンバッグはそれほど大きい物じゃなかったので、外着として着れそうなものをメインに持ってきた。

 莉恵子はスマホをいじって、メール内容を確認。ふむふむ……と言いながら数個の段ボールを持って戻ってきた。

 そしてビリビリ開けると中には、クマさんの絵柄のふわふわした部屋着が出てきた。

 

「部屋着もたくさんあるから、着てよ」

「借りて良いの?」

「ていうか、あげる。正直この山からたくさん出て来ると思う」

「私、最低限の服しか持ってきてないから助かるわ」

「え? 荷物それだけじゃないよね? あとで送ってもらうんでしょ?」

「本音を言うと、たいした物がなかったの。最後の数年……自分のために何かをした覚えが……ほとんどないわ」

 

 芽依は部屋着を頂くことにして、その場で着替えた。

 良い商品だと着るだけで分かる。ふわふわして気持ちが良い。

 自分で稼いだお金は家計に入れていたし、月の服飾代は仕事着に使っていた。

 だからパジャマは数年前に買ったものをずっと着ていた。別に誰に見られるわけじゃないから良いと思ってたけど、良い物は良い!

 芽依はふわふわな生地を撫でた。気持ちがいい~~。

 それに莉恵子が貸してくれたドライヤーで髪の毛を乾かしたら、信じられないほどはやく乾いて、サラサラになった。


「なんだか楽しくなってきたわ!」

 芽依が言うと、莉恵子は目を輝かせて立ち上がった。

「ちょっとまってよ~~~」

 そして段ボールを数個持ってきて、ビリビリと開けた。

 すると中から高そうなクリームがゴロゴロ出てきた。 


「塗りまくろうぜい!」

「え。これすごく高いやつじゃない? こんなにゴロゴロと……」

「芽依はすごくがんばったもん。すごくがんばったから、今日は高いクリームを塗ろう。今日はそういう日だ」


 莉恵子は「ほい」と芽依の手にたっぷりとクリームを出した。

 すっきりとしたゆずの香りが漂って、気持ちが良い。

 そして塗りながら、泣きそうになっていた。

『がんばったね』そう言われただけなのに。

 そして気が付いた、ただ『がんばったね』と一言、拓司さんに言ってほしかったのだ。


 ひとりでいた期間が長かったので、家に誰かが当たり前にいて、その人たちのために何かできることはぜんぜん苦痛ではなかった。

 起きたら、横に大好きな人がいて、朝からほほ笑んでくれる。

 広いキッチンで、好きに動いて料理を作る。何もかも好きに買える財源はなかったけど、それでも色々考えるのは楽しかった。

 拓司さんが「芽依の作る料理、めっちゃうまいから、やっぱり弁当作ってもらって良い?」と言ってくれた時は嬉しかった。

 それに「会社で自慢するんだ」と言ってくれたのだ。もうそんなこと言われたら何だってできた。


 『がんばりはじめた』のは介護が始まってから。

 足の痛みで夜眠れなくなってしまったお義父さんは、毎朝三時とかに起きるようになった。

 そしてみんなに気を使って、まっくらな廊下をひとりで歩いてトイレに行こうとする。

 気になって起きるようになり、一週間もしないうちにお義父さんたちが眠る隣の部屋……リビングのソファーで眠るようになった。

 最初は拓司さんも「ありがとう、芽依」と言ってくれたけど、それは一か月ほど。

 夜は付き添い、朝は準備におわれ、仕事をして、間を抜けて病院に顔を出し、送迎をして、仕事に戻り……。

 正直、がんばっていた。

 それは拓司さんのために。

 拓司さんに必要だと思ってほしかったから。


「……がんばったよねえ、私」


 そう言うと目から涙がこぼれおちた。

 莉恵子は「あわわ」と言いながら机の上にあったティッシュを箱ごとくれる。

 芽依はそれを受け取って、涙をふいた。


「芽依はすごくがんばったよ。詳しいことは分からないけど、芽依のことはよく知ってる。なんたって結婚なんて四年程度でしょ? 私は小中高と芽依と一緒だよ。芽依マスターは私。だから知ってる。芽依はいつも何だってすごくがんばってる。だから今回も、すごくがんばった」

「がんばったよねえ。やれることやったと思うんだけどなあ、私。あれ以上どーすりゃ良かったのかなあ」


 なんだか苛立ってきた。

 その言い方に莉恵子が爆笑する。


「やったやった、やることやっても追い出されたなら、もう知らない。もう一回さ、好きに生きようよ」

「……まだ間に合うかな」

「間に合うよ。別にがんばってすぐに働く必要もないし、働いても良い。芽依の好きにすればいい。私はそれを応援するよ。てか、泣かないでえ……」


 莉恵子もボロボロと泣き出して、チーンと鼻を噛んだ。

 芽依と莉恵子は二人で声をあげて泣いた。無駄に柔らかいティッシュを一箱空にするほど泣いた。

 泣いて泣いて泣き疲れた頃、莉恵子が袋から次の日本酒を出してきた。


「水分抜けた。次いこ」

「水分入れたら、また出てきちゃうかもよ?」

「次のティッシュもあるよ?」

 

 莉恵子は奥の大きな段ボールをビリリと開けて、テュッシュを二箱出してきた。

 芽依は泣きながら笑う。


「もう……ティッシュくらい私が駅前で買ってくるから……」

「よろしくお願いします」


 莉恵子は泣きながら笑った。

 芽依は机の上を占領するテュッシュの山に笑いながら、泣いた。

 がんばっても上手くいかないことの方が多い。だからって手を抜けない。

 手を抜く自分が、どうしても許せない。

 どうしたら良いのか、ぜんぜん分からないけど、こうして一緒に泣いてくれる友達がいるから、きっと明日も大丈夫だ。

 

 莉恵子はチーンと鼻を噛んで、こたつの横にある小さな冷蔵庫からアイスを出してきた。

 芽依は思わず叫ぶ。


「はあ?! そんな所に冷蔵庫が?!」

「だってこたつってのどかわくでしょ? 必須だよー。こたつでアイスは最高だよ。アイスをこたつで少し温めて上を食べてから……隙間に辛口の日本酒を入れる」

「ちょっと……何それ完璧じゃない。あ、私が買ったウイスキーも合うと思う」

「間違いないよ~~~。ほい、無限に湧き出るコンビニスプーンをどうぞ」


 二人でアイスにお酒をかけて楽しんだ。

 これがもう、お風呂とこたつで温まった身体に最高に美味しくて、じんわりした。


 夜も更けて眠ることにした。

「明日片づけるから!」

 と通された和室は物が溢れていたけど、隣の部屋から莉恵子が誰かと打ち合わせしている声が聞こえてきて、それが落ち着いた。 

 私、ひとりだけど、ひとりじゃない。

 更けていく夜に目を閉じた。


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