第30話
あれから僕たちは、学校を早退した。
二人して保健室に運ばれ、それぞれ体中に付いた傷に赤チンを塗り、包帯を巻いている姿は如何にも無様な姿だったと思う。
頭を殴られたせいなのか、どこか足元がふらついている勝弘に肩を貸しながら、僕たちはしばらくは何も言わずに家路についていた。
すると不意に、勝弘は「なあ」と、僕に呼び掛けた。
「……なんだよ」
「気にすんなよ。あんま」
「何が?」
そう訊き返すと、勝弘は空を見上げながら間抜けな声を上げ、「……色々だよ」と、答えにならない言葉を返した。
何となく、それがおかしくなって僕は少しだけ笑うと、ふと、気になったことを聞いた。
「……なあ、山内に投げつけたあのデカい本。一体何だったんだ?多分、図書室の何かだよな?」
すると勝弘は、忌々し気に舌打ちをすると、そのまま黙り込んだ。
何が気に障ったのかと思い、とりあえず謝ろうと口を開きかけると、僕よりも早く、勝弘は僕の質問に答えた。
「……あれな、この町の郷土史だよ。ちょっと色々調べてた」
「郷土史?この町の?なんでそんなものを?」
僕が怪訝な顔をすると、勝弘は足を止めて通学鞄の中から一冊の文庫本を取り出して、僕に差し出した。『桜と橘』と題されたその本をパラパラとめくると、勝弘はそんな僕から視線を逸らしながら言った。
「……忌々しいけど、あの男が俺に渡した本によると、髪継祭にはそこに書かれている桜とか橘の血筋って言うのが関わっているらしい。どこまで本当の話かわからねえけどな。けど、もしその話が本当なら、桜と橘の血筋とやらがこの町の歴史絡みつけられれば、お前をどうにか助けられるんじゃねえかと思ってよ」
何がそんなに後ろめたいのか、僕から少し視線を逸らしながらそう言って、勝弘は僕の手から文庫本を取り上げた。
どこまでも僕の為に動こうとする勝弘のその姿が、何故だか妙に悲しくなって、僕はそんな内心をごまかすように無理やりに笑いながら話しかけた。
「ふーん。今朝は僕のことなんか放ってさっさと部屋を出たくせに。そんなに気にしてくれたんだ?」
「そりゃそうだろ。部屋の外を見てたらいきなり息を切らして倒れこんで、心配したらひっぱたくとか、ふざけんなよって話だ。こっちはただでさえお前を起こすのに早起きしてんのに、感謝の言葉か謝罪の一言はあってもいいんじゃねえの?」
「うん。そうだな。ゴメン。僕が悪かった」
嫌味のつもりで言ったのだろう言葉に僕が素直に謝ると、僕のこの答えに勝弘は余程虚を突かれたのだろう。間抜け面をさらして、ぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
「なんだよ急に。いきなり気持ち悪いな」
「そうだな。でも、僕は本当に気持ちの悪い存在なんだよ」
「……山内とかに何か言われたのか?」
「違うよ。そう言う意味じゃないよ、勝弘。僕が、僕がお前を殴っている理由についてだよ。僕がお前を殴っているのは、無抵抗だから殴っているんだよ」
その途端、僕の口からは今まで胸の奥底に無理や押し込めていた感情が、堰を切った水のようにとめどなく溢れ、同時に隠していた本当の自分があふれ出す。
「イライラしてるから、ムカムカしたから、そんなバカバカしい理由でお前を殴っていたんだよ。八つ当たりなんて言い訳だ。そんな理由もない。ただお前が殴るのに都合のいい相手だから、殴っていたんだよ。僕は……最低の人間だ」
そうだ。僕はそう言うニンゲンだ。僕は、暴力を振るって、自分が弱い存在ではないと思い込んでいただけだった。
自分が被害者面をして、他人の目を気にして、自分よりも弱い者を見つけて、そうして、少しでも自分から、男でも女でもない、奇妙な自分から、眼を逸らそうとしていたんだ。
「ごめん……ごめん……本当に、ごめん……男とか女とか関係ない。僕はこんな目に遭って当然のクズなんだよ。ゴミなんだよ」
ドロドロとしたどす黒い自分の心の内が、絶えず無形の形になって自分の耳を打つ。
その言葉に、改めて自分が酷い人間なのだと理解する。不意に、目頭が熱くなり、語る声が涙声になる。そのこともまた、自分自身の弱さを利用しているあさましい姿に思える。
それでも零れかける涙を必死に抑えて、僕は勝弘に頭を下げた。涙声が抑えきれなくなる。
そんな僕に、勝弘はしばらくの間何も言わずにいたが、おもむろに話しかけた。
「そうか……。そうか、じゃあ……。お前が男だっていうのも、あれは嘘なのか?あれは嘘で、本当に俺を殴りたかっただけなのか?」
その言葉に、思わず頭を上げて勝弘に縋りついた。
「違うよ。嘘じゃない。信じられないかもしれないけど、本当に、僕は、僕は男だ。少なくとも、心はそうだと、思っている」
これは、心からの言葉だ。
確かに僕は、最低な人間だ。嘘つきで乱暴で、我儘で身勝手で、何よりも本当に大切なものにも気づけない大馬鹿野郎だ。
それでも、だからこそ、勝弘にだけはこのことは、僕が本当に苦しんでいることだけは、嘘だと思ってほしくない。
そのことを必死に勝弘に伝えると、勝弘はボロボロの傷だらけの顔に笑顔を浮かべながら、僕の肩に手を置いた。
「そうか。じゃあ、それで苦しんでいるってことも、嘘じゃないんだな?」
「そうだって、……言っているだろ」
「そうか。じゃあ、それで終わりだな」
「何言ってんだよ。バカじゃないのか?」
余りにもあっさりと僕の告白を受け流した勝弘に、僕は思わず怒りとも呆れともつかない感情で声を荒らげたが、そんな僕に、勝弘は「俺だって同じだ」と、返した。
「俺だってお前に何もしてこなかった。お前が歌崎の家の縛りや、役目に苦しんでるのを知ってて、お前が自分の身体のことで苦しんでるのも知ってて、何もしなかった」
そう言って、勝弘は僕から取り上げた文庫本に視線を落とした。
「手がかりならいくらでもあった。お前を本気で救う気なら、寺でも神社でも、それこそ街の片隅の本屋にでも置いてあるような話だった。それなのに俺はそれを探そうともしなかった。……どこかの誰かが、きっとお前を助けてくれるはずだ。俺には何もできないから。そう理由をつけて、結局お前の本当の力になろうとはしなかった。俺もあの男と何も変わらねえ。……俺もお前を、見殺しにするつもりだったんだ」
そう言うと、勝弘はしばらくの間黙り込み、ややあって僕の顔を見ながら静かに言った。
「俺が、……俺がお前に殴られるままになっていたのも、きっとそれと同じ理由だ。お前に殴られていれば、お前の我儘に付き合っていれば、何かをした気でいられるから。だから、今までお前に黙って殴られていたんだ。そんな俺が、お前を攻められるわけないだろう?」
勝弘の言葉に、胸が詰まった。
「なんで、……何でそこまでしてお前は僕を助けてくれるんだ?」
それだけ言うのが、やっとだった。
けれども勝弘は、困ったように頭を掻くと、「さあ、何でだろうな」と言って、しばらく黙り込み、静かに口を開いた。
「……やっぱり、お前が操生だからだよ。俺にとってお前は、恋だとか、友情だとか、兄弟だとか、家族だとか、そう言うんじゃねえだ。大切な人なんだよ。お前が女だろうが、男だろうが関係なく、力になりたいんだよ」
困ったような笑顔を浮かべながらそう語る勝弘に、僕は何も言えなくなった。
ふらふらと縋りつくように勝弘に抱き着き、抱き着きながら泣いた。
自分でも何で泣いているのか分からなかった。ただ、勝弘に抱き着いて泣きじゃくっていた。
やがて、涙も収まり、勝弘に抱き着いたまま、
「助けてくれ。怖いよ。僕、どうしていいのかわからない。助けてくれ」
そう言った。
勝弘は、僕の背中をさすりながら、まるで子供をあやすような優しい声で言った。
「分かってる。俺がお前のことを助ける」
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