第29話

僕は、何も言わずそのままその場を立ち去った。

 その後のことは、覚えていない。

 多分、朝ご飯を食べて、学校に行って、勉強を受けていたのだと思う。ただ、実際にはそうしていたという記憶もなく、気づいたら、昼休みになって校舎裏で空を見上げていた。

 湿った地面に座りこんで、木造の校舎の壁に身を任せながら、ただぼんやりと空を見上げていた。

 青空を流れる雲の影に、一瞬ムカデの姿が見えたような気がして、思わずその場を断ちあがった。

 もう一度空を見上げても、そこには何も映ってはおらず、今見たものが僕の気のせいだと知って思わず顔を覆った。

 疲れているのかと思い、僕がその場を離れようとしたその時だった。

「おう、操生じゃねえか?なんでこんなところに男女(おとこおんな)がいやがるんだよ?」

 そう言ったのは、学校でも有名な不良の山内だった。

 自身の舎弟をぞろぞろと引き連れた山内は、僕のことをどことなく下卑た笑みを浮かべながら、煙草をふかしながら僕を上から下まで嘗め回すように僕を見下ろしてきた。

 その視線が不愉快だった僕は、その場を離れようとすぐに踵を返したが、そんな僕の進路を遮るように山内の舎弟が僕の前に立ちはだかった。

「待てよ。ちょっとくらい俺らに付き合えよ。別に構わねえだろ?なんせ、男同士の付き合いなんだからよ」

「……僕はお前と話すことは何もない。だからここから離れる。それの何が悪い?」

 やけになれなれしく話しかけてくる山内に思わず刺々しい声でそう言ったが、山内はなれなれしい態度を崩さないまま僕の肩を抱くと、煙草の吸殻を僕の足元に落として、火を消した。

「前から気になってんだけど、お前さあ、その格好はどうせ虫よけなんだろ?そんなのしなくても、少しくらいしおらしい格好をしてたら、お前に悪いことするような奴はいねえって」

 やけにヤニ臭い息を吐きながら僕に話しかける山内を、僕は何も言わずに睨みつけるが、そんな僕に構わず山内は無遠慮に僕の耳元に顔を近づけた。

「お前の家に新しくやって来たおっさんが言っていたぜ。『東京に行けばそれなりに売れそうな面をしているから、連れて行ってもいいかも知らん』ってな。そこまで言われてんだからよ、ちょっとくらいは女らしくして見ろよ。それだけで男に持てるぜ?」

 それは、僕には吐き気がするほどの暴言だったが、それだけに最早、コイツを相手に話をする気力も失せ、肩を抱く手を強く振り払い、山内の口元に唾を吐いた。

「……余計なお世話だ。言いたいことはそれだけか?」

「ああ、もしかしてお前、もう既にアイツとやることやってんじゃねえのか?今からでも子供産んじまえば、その子供を巫女の代わりに出来るしよ。どうせ宇賀神の家は歌崎の人間をいつもそうやって生贄にしてきたんだろう?」

 その言葉を聞いた瞬間、山内の顔にあの男の顔がダブった気がした。

 そして、僕の怒りの沸点が限界を超え、目の前の憎らしい顔つきの不良に殴りかかっていた。

「女じゃない。僕は男だ!」

 次の瞬間には、僕の顔面に勢いよくパンチが叩き込まれ、僕は盛大に後ろに倒れこんだ。

 鼻から生暖かい体液が流れ、一瞬鼻水でも流れてるのかと思って鼻を手で押さえかけると、髪の毛を引っ張られて無理やり立たされた。

 殴られた衝撃で視界が明滅する中、怒りで顔を歪めた山内が、上唇を軽く嘗めながら言った。

「おい。流石に身の程をわきまえろよ。女だから手を出せないと思ってんのか?綺麗な顔をしてるからって、いい気になっているんじゃねえよ。男と女の差って奴を教えてやるよ」

 そのまま、腹に強い衝撃が打ち込まれて、僕は思わずげろを吐くと、腹を抑えながらその場に倒れ込み、自分の吐いたげろの中に顔を突っ込んでしまった。 

 腹に膝蹴りがいられられたのだと気づくのに少し時間がかかり、すっぱい匂いのする泥の中に顔を埋めながら、うめき声を上げるしかできなかった。

「おいおい、何をしてるんだよ」

 すると、僕を見下ろしていていた山内は、そう言うなり、髪を引っ掴んで僕の顔を無理やり持ち上げると、僕の顔にビンタした。ビンタの衝撃で唇が切れたのか、口の中に鉄の匂いと味が広がった。

「酷い顔してんなあ。ゲロまみれで泥まみれ。おまけに顔の半分は血まみれだ。無様だなあ。まあ、それがお前なんだよ。男の振りすりゃ、強くなれると思ってたのか?バカじゃねえのか?所詮お前は女なんだよ。女は女らしくしときゃあいいんだよ」

 そう言う山内に僕は、何も言い返すことなく痰混じりのつばを山内の顔に吐きかけた。

山内は、何も言うことなく僕の顔を勢いよくぶん殴った。

 ジンジンと腫れる頬に、息苦しくなる。随分と長いこと忘れていたような気がする。

 殴られるって言うのは痛いことなんだ。そんな当たり前のことを、何故か今更になって思い出していた。

 謝らなくちゃな。勝弘に。だしぬけにそう思った。

 物心ついたときには父さんも死んで、母さんも死んだ。

 そんな僕を家族として受け入れ、育ててくれたのは宇賀神の家の人間だ。

 宇賀神のおじさん、おばさん、そして勝弘。

誰もが僕を、家族として受け入れてくれた。

 誰もが、僕を僕として受けいれてくれた。

 そんな当たり前のことは、当り前じゃない。

 そして、そんな当たり前の為に、勝弘はずっと骨を折ってくれた。

 僕はどれだけその優しさに甘えていたのか。

 胸ぐらを掴まれたまま、ぼんやりとそう思う僕に、山内は大きく拳を振りかぶった。


 その時だった。


「てめえら、何してやがる!」


 どこからか、聞きなれた声で山内達にそう怒鳴りつける声が聞こえ、重いハードカバーに包まれた厚い本が、山内の頭に直撃した。

 うめき声と共に頭を押さえた山内は、僕の胸倉から手を放し、僕はその場に仰向けに倒れた。

 痛む顔を抑えながら体を起こすと、視線の先では山内達に向かって殴り掛かり、袋叩きにあっている勝弘の姿があった。

 僕は咄嗟に勝弘に加勢しようとして、そこでそのまま足元がもつれて転んだ。

 丁度その時、騒動を聞き付けた教師の群れが駆けつけ、誰かが僕の肩を抱いて騒動から連れ出し、山内達に集られている勝弘を助け出しているのが、少しだけ見えた。

 

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