第26話
するとそこには、庭先に立ったまま煙草の先で明滅する火が見え、一瞬、泥棒が入ってきたと思い、思わず声を上げた。
「誰だ!そこにいるのは!泥棒なら出ていけ!」
僕は鋭い声をその人影に投げつけると、その人影は逃げるでもなく、慌てるでもなく、ただ不愉快そうに鼻を鳴らして、庭の中へとゆっくりと入ってきた。
「全くもって、この町には失礼なガキしかいないのかね?仮にも私はこの家の客だというのに。どいつこいつも敬語の一つも使いやしない」
そう言いながら月光の下に、ゆっくりその姿を現したのは、あの男だった。
「それとも何かね?この町では、客人には酷い態度をとることが礼儀であると、そう教えているのかね?」
「……いいえ。でも、そう言われる貴方の方にも大きな問題があるんじゃないですか?そもそも、こんな夜遅くにこそこそと人の家の庭に現れること自体、泥棒と間違われても仕方ない行為ですよ?」
あの男の皮肉めいた言葉に、思わず棘のある言い方で応えると、あの男は「全く、生意気なガキばかりだ」、と笑いながら煙草の煙を吐いた。
僕はこの男に、正直どう接すればいいのかわからないでいた。
歌崎の最後の血縁を名乗る割に、そもそもその名前を聞いたこともなければ、歌崎の血縁に生き残りがいた事も初めて知った。
これで、見るからに悪い人間であるならば逆にそれ相応の距離感覚を掴めるのだろうが、初めて会った日から今日に至るまで、この男が悪い人間であること以外の性格的な特徴を掴めることが無かった。
粗野な暴力と巧緻な暴言を使い分け、人をなぶり、甚振り、痛めつけ、一方的に人を苦しめることに快楽を見出しているくせに、その一方でやたらと人懐っこいのか、町の大半の人間といつの間にか見知った仲になり、時には談笑さえも交わしていた。
だが誰もが彼の存在を知っているにもかかわらず、彼の名前を切り出すまで誰も彼もが彼の存在を忘れたかのように暮らしており、彼自身、今みたいにふらりと現れるまでどこにいるのかもわからず、気づけばふと目の前に現れることが度々あった。
それはまるで、何か不可視の大きな力が、歌崎の最後の血縁が『人柱の巫女』になることを見届ける為に、人の姿を取って表れたようで、僕は単純に初めて知った血縁者に抱くのとは思えないほどに明確な、それでいて正体のあやふやな恐怖を目の前の男に感じていた。
すると、あの男は、闇の中に沈む二つの瞳で僕の顔を見つめながら、不意に詩のような文章を口にし始めた。
「いっそ深い夜に眠るのを禁じてくれれば、青く憐れむ月が思い悩むことも無くなり、ただ橋の下、緑の水面に、病める空の下、崩れた塔に、光をたゆとうだけになりましょう」
「……なんですか、それ。どういう意味です?」
煙草の先から揺蕩(たゆた)う煙の中で、にやにやと笑みを浮かべているあの男に僕は思わずそう聞いた。
するとあの男は、煙草の煙が夜の闇に溶けていく中、皮肉気な笑みを浮かべながら、まるでからかうように僕にそう言った。
「特に意味があって口にしたわけじゃない。今のは、ハワード・フィリップ・ラブクラフトの短編小説、『ニャルラトホテプ』の一節だ。中略しているがね。ただ、今のお前を見ていると、なんとなく思い浮かんだだけだ。夜の闇に怯える今のお前には相応しい銘文じゃないか」
その言葉に、咄嗟に僕はあの男にもあの影が見えるのかと思い、「あれが見えるのか?」と思わず聞いていた。
だがあの男は、僕からの質問に対して、皮肉気な笑みを口元に残したまま、軽く首を傾げただけだった。
「あれ、とは?一体何のことを言っているのかね?」
その時の僕の感情をどう言えばいいだろう。あの男に対する本能的な恐怖から、同じ存在ではないという事に安堵する反面、どこか、唯一の血縁であると思っていた存在が僕とは違うということもわかり、僕は世界で一人なのだと、そう改めて突き付けられた気がした。
「……そうですか、それで?一体何故、こんな夜更けに我が家を訪ねて来たんですか?」
思わずつっけんどんな口調でそう聞くと、あの男は薄く笑みを浮かべながら煙草の煙を吐いた。
「……深夜の散歩を嗜んでいただけだよ。少し寝つきが悪かったのでね。ちょっと運動がてらにネタ探しを、と思ってね。しかし、それにしても我が家か。君にとってもこの家は我が家なんだね?」
まるで何気なく吐かれたその質問は、まるで僕の胸の奥底にどろりとへばりついているものを掻きまわし、無理やりに引き剝がすような痛みがあった。
「…………どういう意味だよ、それ?」
つい聞き返した僕の声は思わず固くなり、口調も少しざらついた。脳の中に静かに、ふつふつと怒りが貯まり始まるのを感じていた。
そんな僕の変貌ぶりを楽しむように、あの男はにやにやと笑いながら質問を続けた。
「言葉通りの意味だ。この家の人間は、君を生贄にするためだけにわざわざその年まで育てていたのだろう?なら、ここは君にとっては屠殺場か家畜小屋のような物じゃないか。我が家と呼べるほどの愛着が持てるとは、ずいぶんと図太い神経だと思ってね」
それは、一瞬で僕の脳内の沸点を越える暴言だった。
「ふざけるな!この家のことも、僕のことも知らないくせして、知ったような口を叩くなよ!」
僕は思わず怒鳴り声を上げると、あの男を殴りかかろうと拳を握り締めた。
その瞬間だった。
「ほう?この家の息子を土手で一方的に殴っておきながら、良くもそんなことを言えたな?一体どの口で、そんな言葉を叩けるのだね?」
せせら笑うようにそう言われたその言葉に、僕は思わず足を止めて、うつむいた。
言い返すことのできない僕自身の重い罪を不意に突き付けられて、僕は何も言い返すことができなかった。
すると、何も言わずただその場に突っ立っている僕を見て、あの男は怪訝な口調で僕に言った。
「……どうしたのかね?何か、私に言いたいことがあるのではないか?」
一瞬、何かを言ってやろうかと思って口を開きかけたが、すぐに思いとどまって、僕はその場を後にした。
「詰まらんなあ、これでも最後に生き残った血縁なのだから、少しくらいは話を聞きたいのだがなあ。何より、仕事のネタが拾いたいと私は思っているのだが?」
後ろから聞こえてくる声に、僕は振り返りもせずに「そうですか」と呟くと、そのまま振り返ることなく、僕は自分の部屋に向かった。
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