歌崎操生に曰く。

第25話



 蒸し暑い夏の空気の寝苦しさに、僕は夜中に目を覚ましていた。

 神を描き上げると、汗でじっとり湿った髪の毛が指にまとわりつくように絡みつき、僕は思わず嫌な顔をした。

 ふと、胸を見下ろすと、汗を吸った肌着が嫌な湿りけを帯びて僕の肌に張り付いており、僕はそのまま上着を脱いだ。

 それでもやっぱり蒸し厚さを振り払うことができず、僕は水浴びをしようと蚊帳から出て、そのまま庭先の井戸の元に向かった。

 外に出ればマシかとも思ったが、ぬるい風が肌にまとわりついて、より一層不快になるばかりで、僕はげんなりとしながら庭先のポンプの元に向かった。

 するとそこでは、僕と同じように上半身の服を脱いだ勝弘が水浴びをしていた。

 半裸の僕を見るなり、勝弘は気まずそうに眼をそらして、手拭いで顔を隠したので、なんとなく僕は腹が立ってその背中に一発蹴りを入れた。

「何目をそらしてんるだよ、バーカ。別に減るもんでもないのに、そんな悪いことしたみたいな顔されると、むかつくんだよ」

「お前の方こそ、何裸で外をうろつきまわっているんだよ。バカ。ちょっとは人の目を考えろよ」

「別にいいだろ?そもそもお前だって人のこと言えないだろ?」

 言いながら僕はポンプから水を出し、頭から被った。

 地下水をくみ上げた庭先の井戸水はやたら冷たくて、肌に張り付くような蒸し暑さを振り払うような気持ち良さがあったが、同時に冷たすぎておもわずくしゃみをした。

 手ぬぐいも持たずに水浴びするのはさすがにやりすぎだったかと、鼻水を右手の甲で拭っていると、不意に僕の頭に手拭いがかけられた。

 勝弘の方を見ると、耳まで赤くなったあいつが僕から顔を逸らしているのが見えて、一瞬、そんな勝弘の態度がイラっときた。瞬間、その背中に向けて平手を炸裂させた。

「紳士ぶってるつもりかよ。今更、裸を見てどうこうする仲でもないだろ!」

「うるせーな。お前は存在自体が目に毒なんだよ。お前の股間に物があるとかないとか関係なく、多分お前の裸をみんなが見るよ」

「何それ?気持ち悪い。お前って僕のことをそんな風に見てたの?って言うか、もしかして僕のこと、オンナとして見てるのかよ?」

「うるせー、バーカ。もういいめんどくせえ!俺寝るからな!」

 勝弘は僕との言い合いをそう言って切り上げると、舌打ちをしてその場を立ち去り始めた。

 そんな勝弘の背中を見ながら、僕はふと話しかけていた。

「……なあ、勝弘……」

「なんだよ?」

「僕は、僕は男だよな……」

 その質問に、勝弘はその場で足を止めると、しばらく黙ったまま突っ立っていた。

 それから少しの間、そうしていたが、やがて僕を振り返ることもなく答えた。

「……お前がそう言うなら、そうなんだろ」

 その答えに僕は、ただ「そうだよな……」と、呟いた。

 それ以上、何も言えなかった。

 僕自身、勝弘にどう答えてほしかったのか、わからない。

 ただ、僕にそう言った勝弘は、それ以上何も言うことなくその場を立ち去り、僕はそんな勝弘を追いかけることなく、しばらくポンプの傍に立っていることしかできなかった。

 僕は手拭いを肩にかけて、なんとなくその場で夜空を見上げた。

 井戸水で冷えた体にぬるい風が当たるのは思いの他気持ちよくて、ふと髪をかき上げた。

 夜空に浮かんだ月は、のろのろと動く雲に隠れ、夜の中にひと際濃い闇が訪れる。

 やがてその雲を払うように、強い風が吹いた。

 何となく月を見上げると、月の周りを踊るように、巨大な鯉の影がグルグルと回る姿が見えた。

 その影を見た瞬間、僕の心臓はバクバクと激しい音を立てて鳴りだし、思わず地面に視線を落とした。

 まただ。また見える。

 全身に嫌な汗が滲むのを感じながら思わず胸を抑えると、不意に地面に大きな影が落ちたのを視界の端で感じる。

 その影はじっと動くことなくその場にとどまり続け、僕は恐る恐る上を見上げた。

 するとそこには、巨大な鯉が僕を見つめている姿があった。

 瞬きもせず、ただじっと僕を眺めているその瞳は、ぬめり気のある不気味な輝きを浮かべており、やがて、僕に向かって大きな口を開けて襲い掛かった。

 次の瞬間。

 鯉の腹を食い破って何匹ものムカデが湧きだし、たちまちのうちに巨大な鯉は大量のムカデの巻きついた巨大な一つの玉になる。

 そして、そんな巨大な玉となったムカデの群れの中の一匹が、僕を見つけて牙を鳴らした。

 その音を聞いたムカデの群れは、一匹、また一匹と僕を睨むように頭を上げだし、やがてゆっくりとその巨大な玉は解れていった。

 解けたムカデの玉の中からは、きれいに骨だけとなった鯉の骨格がゆっくりと、地面に落ちていく。

 僕に向かって落ちてくる鯉の骨格に、思わず僕は目をつぶった。

 気づけば、そこには何も変わらない風景が広がっているばかりで、夜の底に沈んだ町の空気がただ静かに広がっているばかりだった。

 周囲の様子が変わらないことを見て、僕はその場に音もなくへたり込むと、夏の湿った蒸し暑い空気の中で、吐き気する覚えるほどの震えを抑えるのに必死になっていた。

 ……物心ついたときから、ただ漠然と何かがいることを感じることはままあった。

 ただ、あれらが、明確に目に見えるようになったのは、最近のことだ。

 理由は明白だった。

『髪継祭』だ。

 僕が『髪継祭』の巫女となると決まった日から、最初はごくわずかに見える薄い影だったあれらの姿は日を追うごとに濃く、はっきりとした姿を結び、今では幻と現実の境もわからなくなり始めている。

 髪継祭が近づくにつれて、ふとした瞬間に僕の世界は侵食され、幻とも霊ともつかぬあれらの姿が、敵意が、はっきりとした輪郭を持って明確な像を結んでいく。

 もしもこれが、歌崎の家が神隠しに関わっている理由だとするのなら、母さんもこの光景を見ていたのだろうか?

 あるいはそれとも、これは結局のところ、僕だけが見える幻覚なのだろうか?

 もう顔もおぼろげにしか覚えていない母さんも、この幻覚は見えていたのだろうか?

 もしも見えていたのなら、母さんはアレをどうしていたのだろう?

 母さんは『髪継祭』が、怖くなかったのだろうか?

 わからない。ただ、わからない。そして、怖い。

 僕はただ庭の中で震えながら、そんなことを思っていた。

 すると、どこからともなく煙草の匂いが風に乗って漂ってきて、僕はふとその匂いの漂う方を見た。

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