第20話


 さて、今まで書き記した通り、橘の逸話然り、桜の逸話然り、知恵と不死を巡る神話や伝説は世界各地に存在し、それらは深く絡み合う伝承として様々な部分で混ざり合い、重なり合い、この日本でも本当に古い時代から伝承され続けてきた。

 しかし、今まで私が書き記してきたこの私の研究であるが、真に大切な部分については未だに触れられていない。今章からは、その伝承について触れていこうと思う。

 それが、変(お)若水(ちみず)の伝承である。

 この変若水は、一種の民間信仰とでも言うべきものであり、月の神である月読命は、変若水と呼ばれる若返りの水を持ち、不老不死を人に与えることができるという信仰が古代日本には伝わっている。

 しかしこの変若水。『日本書紀』や『古事記』と言った日本神話を記述した本には言及された箇所がなく、様々な仏典の中にもこの水に関して、直接的なルーツと言える話はない。

 敢えて言うならば、仏典の中の記述の一つにある、不死の霊薬アムリタを巡る逸話がやや関連性を持っていることを疑える程度であろうか。

 ただ、何時頃から発生したものか、月には不死をもたらす水があると言い伝えられ、それが信仰として人の中に根付くようになったのだ。

 そのため一種の民間伝承とみることが可能だが、実際には単なる民間伝承と言うにはかなり文化や生活に根差した古代日本における重要な信仰要素である。

 具体的には、平安時代の文献にはかなりの頻度で、宮中の年中行事の一つとして『供(わかみず)若水(をそなう)』の語句が出てくる。

 そして今現在にあっても、大阪、京都などの関西を初め、沖縄や鹿児島などにも、年初めに若水を汲むという宮中行事から派生した行事が今も尚伝わっている。

 そして面白いことには、沖縄の宮古島には、死に水と若水の伝承が残っていることだ。

 死に水と若水の伝承とは、月の神にまつわる伝承である。

 その逸話によると、宮古島に人間が住み始めるようになった時、月の神と太陽の神が人間に不老不死を与えることにした。

 その際に、アカリヤザガマと言う人間に命じて、不老不死の命を与えるシジミズと、生物に死を与えることになるシニミズの二種類の水が入った桶を用意し、蛇にシニミズを与え、人間にはシジミズを与えるように言い含めて、下界にもっていかせたという。

 しかし、彼が下界に降りた際、休息していたところに蛇が現れ、本来であれば人が飲むべきであったはずのシジミズを飲みほしてしまった。

 これにより蛇は脱皮を繰りかえし、常に若返ることのことで永遠の命を手に入れた。

 残されたアカリヤザガマは仕方なく人にシニミズを与えることになり、こうして人間は死すべき定めとなったという。

 しかし、太陽と月の神々は人を憐れみ、人々に少しでも若返ることができるようにと、新年に人々に若水を与えるようになった。

 これが、若水の行事の始まりである。という逸話である。

 この逸話の中で目を引くのは、本来、月と蛇(竜)は桜ひいては炎を、水は海とアゲハ蝶と橘を示すはずである。しかし、この逸話では月と蛇と水が関連した事象として伝わっており、炎と桜、そして知恵の逸話との関連性が薄くなっている。

 この場合、合理的な思考で言うと、桜と橘の逸話が途中で混ざり合ってしまったと考えるべきである。

 つまり、本来の神話から徐々に話の内容が変異して伝わり、本来ならば炎の要素として伝わっていたはずの月と蛇の逸話が、何時しか水の要素とすり替わっていたと考えることができる。

 言ってみれば、伝言を繰り返すことで元の言葉の内容が見る影もなくなっているような現象に似ている。

 単純に考えればそれで済む話であるが、しかし私は、この伝承の食い違いにはもう少し深い意味を持たせられることに気づいた。

 それはつまり、この逸話は桜と橘の話の融合を示しているのではないか?という観点である。

 私がこの考えに思い至ったのは、日本神話の記述における桜と橘の関係が、通常の知恵と生命の象徴と違い、その存在が遺されている状況証拠があるからである。

 どういうことかと言えば、エデンの園の逸話を例にとれば、アダムとエバは知恵を手に入れた代わりに永遠の命を失っており、神は人が永遠の命を手に入れないように対策まで講じている。

 一方で、コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの逸話によれば、イワナガヒメは死亡、もしくはこの世界から消えたわけではなく、あくまでも父である山津見の元に帰っただけである。

 また、宮古島の若水の逸話に至っては、シジミズを手に入れなかったとはいえ、太陽と月の神は人に代わりに若水を与えている。

 これはつまり、日本の神話における桜と橘は、人間に揃って与えられている。と、とらえることが可能である。

 ここまで本書を読み進めてきた読者諸兄であれば、この話の中の桜、血筋の例えであるように、この話の中での橘もまた、橘の属性の力を持つもの、そしてその力を持った血筋のことであることは理解していると思う。

 私の言いたいことはつまり、元来別々の血筋であったこの桜と橘の血筋は、ある時期に混ざり合うことで、人々に生命にまつわる何らかの恩恵を与えたのではないか?という事だ。

 そしてこの桜と橘の属性がまじりあった血筋のことを平安時代の人々は変若水と呼び、その変若水の血筋に当たる者が何かしらの驚異的な力を発揮していたことで、この若水信仰が始まったのではないだろうか?

 そしていつしか、この驚異的な力を発揮する人々の血筋が、彼らに不死を与えるものであると認識されるようになって、不老不死の変若水信仰が始まるようになったのではないか?

 本書においては、この変若水の血筋を、桜橘の血統と呼ぶ。

 では、この桜橘の血統が当時の人々に見せた驚異的な力とは何だろう?

 私はその部分の説明を、雷に求めた。

 雷とは、人類史においてはかなり特殊な自然現象だ。

 水と共に炎をもたらし、時には豊穣の合図であり、時には災害の前触れでもある。

 今でこそ、雷とは雲の中の氷の粒が膨大な量の静電気をため込んだことによる放電現象であると周知されているが、古代の人々にとっては人知を超えた超自然的な自然現象であった。

 それゆえ、雷と言う言葉にはいくつもの特別な意味が込められた。

 雷とは、かみ、なり。すなわち、神が鳴るという事であり、神に成る。という事である。また同時に、神であるという意味の、神、也りでもある。

 平安王朝期においては、菅原道真が祟り神となった際には、都に幾本もの雷を落としたと伝えられ、今では雷神の一柱として数え上げられるまでになっている。

 同じく怨霊として有名な将門の首塚の逸話にも伝わっている。

 将門は、首となって晒され、その首だけが自身の胴体を目指して飛んで行ったという伝説を持つが、その際に周囲には稲妻が鳴り響き、雷が巻き起こったとも伝えられる。

 つまりは人から神に成るときに、あるいは神が人前に姿を現すときに、雷が起るのだと古来の日本人は考えた。

 また、雷と神との関連付けは、日本だけに特有のものではない。

 ギリシャ語における神そのものの名を持つゼウス神は雷の神であり、エデンの園の林檎は雷の剣とケルビムによって守護される。

 インドの神話においては、炎は天上にあって太陽となり、地上において火となり、そして中空にあって雷となるとされた。

 そして雷は稲妻。すなわち、稲の実りを約束する象徴であり、豊穣のしるしであるとも考えられた。

 そして日本における豊穣とは土と水によってもたらされると考えられた。

 雷がもたらす豊穣のしるしとは、雨であり、水である。

 つまり、水と炎と言う対極の存在がまじりあった姿こそが、雷である。

 桜橘の血統とはすなわち、雷に関連した力を持つ人々のことである。


 以下中略

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