第18話


 さて、前置きが長くなったが、本章の内容は主に、日本神話の皇室関連部分。ことに、ニニギノミコトの神話のより深い理解が必要となる為、まずは前提としてニニギノミコトの神話について解説、説明することになる。

 とは言え、この話は、神話と言う如何にも神秘的な印象をもった言葉とは裏腹に、ひどく俗っぽい内容だ。

 ニニギノミコトの話は要約すれば、ブサイクな女が嫌いな男の話である。

 ニニギノミコトは、天照大神の孫であり、彼は天照大神の命によって、地上に降りることになった。

 その際にニニギノミコトは、国津神、すなわち地上に元からいた神の一柱である山津見の神の娘であるという花の女神、ことさらに桜をその象徴とする女神であるコノハナサクヤヒメに一目惚れしたことで、結婚することと相成った。

 その折に山津見の神は、娘のコノハナサクヤヒメと共に、その姉であるイワナガヒメもニニギノミコトの妻とすることを条件として、二人は揃ってニニギノミコトと結婚することになった。

 しかし、美女であったコノハナサクヤヒメに対して、その姉であるイワナガヒメは、サクヤヒメとは違い醜女であったので、ニニギノミコトは父親の方に彼女をつっ返してしまう。

 だが、サクヤヒメは美しさと栄華を司る女神であると同時に短命を司る女神であり、すなわち死をもたらす神であった。

 一方で、イワナガヒメはその醜さとは裏腹に、不変を司る女神であり、すなわち永遠の命をもたらす女神であった。

 ニニギノミコトがイワナガヒメを山津見の神に帰したことで、人間から永遠の命は失われ、ひと時の美しさと引き換えに人類には死がもたらされることになった。

 この話の中で最重要なことは、桜が短命と繁栄の象徴であるという事だ。

 一説によると、桜は、古代日本語において神を表す言葉であるサと、神のおわす場所という意味のクラと言う言葉が組み合わさった神の花と言う意味とされる。

 また桜は、死の象徴であると同時に輪廻と再生の象徴でもある。春の日に咲き、春の日に散る桜は、春が巡る度に咲いて散る。

 その有様は一瞬の繁栄と同時に、永遠の証明であり、この花が古来から大和民族における神の象徴となったのも情緒的なものを抜きにしても、うなずける話である。

 さて、話は変わるが、人類の神話には同一の起源をもつ神話が幾つか確認されるという。

 先ほど私が話したコノハナサクヤ姫の神話はまさしくその典型例の一つであり、いわゆるバナナ型神話と呼ばれるタイプの神話である。

 人類が死ぬ代わりに繫栄する運命か、死なない代わりに永遠に不変のままでいる運命かのどちらかを選び、結果として死と繁栄を手に入れるという神話だ。この手の神話の類例には枚挙にいとまがない。

 ギリシャ神話においてはプロメテウスとゼウスの問答。聖書においてはアダムとエバの楽園追放。さらにさかのぼれば、人類最古の叙事詩であるギルガメシュ叙事詩にも似たような逸話が記されている。

 いずれにおいても、人類は繁栄、すなわち知恵の代わりに不死を失っている。

 ここから、短命とはすなわち知恵の象徴であるということが言える。

 つまりは一瞬の象徴でもある桜は何よりも知恵に近い花と言うわけだ。そして同時に、世界各地で知恵の象徴とされるものとして、炎が挙げられる。

 人類だけが生物の中でも火を扱えるからである。そのため、桜は炎と関連付けることができる。

 そしてこの輪廻と再生は月の持つ特性でもある。新月と満月を繰り返す月もまた、死と再生を繰り返す桜と同様の存在であるという事だ。その為、桜は同時に月の象徴でもある。そして、月は同時に蛇の象徴でもある。

 蛇の脱皮と月の満ち欠けは良く世界各地の民間伝承や神話で関連付けられる事象だ。

 事実、日本神話の月の神たる月読命には、不老不死の水である変(お)若水(ちみず)を所有しているという信仰が万葉集の中に書かれ、沖縄の宮古島に至っては、月の神が持つ永遠の命を与える水を、蛇が飲み干してしまったという月と蛇の信仰に関する民話が伝わっている。

 奇しくも、アダムとエバもまた、蛇に唆されて知恵の実を手にして生命の実を失っている。

 そして蛇とはつまり竜のことである。人類は常に、蛇の中に竜を見出して居た。

 そしてこの月と竜、変若水の関係は、私の研究において最も重要な意味を持つものであり、この関係が桜と橘の血筋に大きくかかわってくる。

 話がそれたが、つまり桜とは、知恵であり、炎であり、月であり、蛇であり、それがゆえに竜の象徴である。すなわち、知覚と霊感の花なのだ。

 この場合で言う所の知恵とは、知識や技術、それの応用と言う意味ではない。知覚と霊感を通じて世界の理に触れるという事を指す。つまりは、人には見えぬものが見えるという事が、知恵。という事である。

 さて、ここで問題となってくるのが、本書における桜と言うものの在り方である。

 ここまで読んでくれた読者はよく理解されていると思うが、私の研究における桜とは、様々な象徴を関連付けた物事の総称であり、世間一般で言う所の植物としての桜とは一線を画している。

 これまで桜とは、炎、知恵、月、そして竜と関連付けられることは説明した。

 だが、本書において桜が持つ最も重要な象徴とは、血、すなわち血統・血筋の象徴としての桜である。

 コノハナサクヤヒメとは、先ほども言った通り、皇室の祖先であるニニギノミコトの妻でありひいては皇室の祖先の一つだ。だが、それ以前に国津神の一柱でもある。つまり、皇族や皇室の人間以外も、コノハナサクヤヒメと同じように知恵の実に当たる人間の血筋を引いているという事だ。

 こう書くと、多くの者がつまり、桜の血を引いている人間は幽霊が見えると誤解する。

 ことはそう単純なことではない。

 幽霊が見えるという事と、知覚を得るという事はまるで意味が違う。

 桜の血をひくものが見るもの、見えるものとは力の本質だ。力の本質が霊魂であるという事ならば、その姿を見ることは叶うだろう。だが、桜の血をひくものが見えるものとは、より深く、恐ろしいものだ。つまりは神だ。神の姿を見、聞き、そしてその力を使うことができる。それが、知恵を持つ。あるいは知恵が見えるという事だ。

 ただし、この点においてややこしいことは、知恵が見えるという事と幽霊が見えるという事は、部分的な意味では決して間違ってはいないという点である。

 問題は本質だ。神とは力であり、この世の理の中の一つ。その理の中に介入するその前段階として、桜の血は知覚を促すのである。


 以下、中略。

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