第16話

「……ムカデの話は、どこまで調べたんだ……?」

 一瞬、自分が何を言っているのか理解できずに、ただあの男の目を見続けることしかできなかったが、あの男も俺の質問には余程意表を突かれたのか、しばらくの間は黙って俺のことを観察するようにじっとこちらを見据えるばかりだった。

 ややあって、ふむ。と、あの男はうなずきながら、俺から目を離した。

「……意外だな。君がそんなにも私の調査内容に興味を持っていたとはな。まあ、今のところ十分とはいえないまでも進展はありと言ったところだ。意外なところで意外なものを見つけたおかげでね」

 そう言うとあの男は、懐から一冊の文庫本を出して、俺に差し出した。

「この本、昔読んだことがあるのだがね。どうやらこの本が私の調査に役立ちそうなんだ。君も興味があるのならぜひともに読んでみると良い。中々に面白いぞ?」

 差し出された文庫本の表紙には、『桜と橘。あるいはその血の起源』という題名が素っ気ない文字で書かれており、その題名からは本の内容が全くわからず俺は思わず眉をひそめた。中身をパラパラとめくると、やたらと細かい文字がびっしりと並んで、普段碌に読書なんかしない俺は、軽く目を背けてしまった。

「なんだよこの本?植物図鑑かなんか?」

「そう邪見にするなよ。この本自体は特に何か仕掛けがあるわけでも、怪しげないわれがあるわけでもない。偶々この町の本屋で見つけたどこにでもあるような文庫本だよ。まあ、敢えて特殊な点を挙げるとするならば、この本を出版したのが、眠命書房と言う出版社だという事かな?」

 聞いたこともない会社の名前を出されて、俺は思わず面食らっていると、そんな俺にあの男はくすくすと笑いかけた。

「これは男鹿孝則と言う学者の書いた本なのだがね。中々に興味深いことが書かれている。

この本によると、人間は、あるいは日本人は、桜か橘、あるいはその両方の属性を持った生物だというのだよ」

「桜と橘の属性?なんのことだ?」

 俺がそう聞くと、あの男は、「そうだろうな。これだけでは何のことだかわかるまい」と、軽く苦笑した。

「まあ、知らぬでも無理はあるまい。俄かには信じがたい論説が記載されている本であるからな。一般的な人間とされる者の目からはいささか胡乱にも映ろう」

「もったいぶるのもいい加減にしろよ。何の話をしてるんだ、お前?」

 あまりにも人を苛立たせる話しぶりに、俺は思わず声を荒らげながらあの男に詰め寄ったが、あの男はそんな俺の右手を捻り、俺は思わず手にしていた本を床に落としてしまった。

「おいおい。ただ本を紹介しただけでそんなにも興奮するなよ。怖くて怖くて、つい手が出ちまうじゃないか」

 そうして、思わず痛みで唸る俺にそういいながらあの男は嗜虐的な笑みを浮かべると、俺を床に放り捨てるように右手を放した。

「私自身、そこまで深い知識を持っているわけではない。詳しくはその本を読み給えよ。無理強いはしないし、返したければ返してくれて構わない。ただ、君が一番知りたがっていることが書いていそうだと思ったから、進呈しているだけに過ぎない」

 あの男は、床にうずくまる俺を見下ろしながらそう言うと、俺が床に落とした本を拾い上げて、俺に押し付ける差し出した。

「まあ、私の言葉を信じるかどうかは君次第だ。とりあえず明日またこの家に顔を出すから、良ければその時には感想を聞かせてくれ給えよ」

 そう言い捨てると、そのままあの男は俺の家から出ていった。

 残された俺は、そこからしばらくの間、恐怖とも怒りとも悔しさともつかぬ思いの中で床の上から動けずにいたが、しばらく悩んだ末にその本を読むことにした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る