第15話

 振り返るとそこには、いつものように火のついた煙草を口の端に咥えたあの男が、にやにやと笑みを浮かべて立っていた。

 煙草の匂いにも気づかずここまで近づかれた驚きに、さっき無理やり静かにさせたはずの心臓は再び早鐘のように鳴りだし、思わず後ずさりしながらあの男に怒鳴り声を上げた。

「何の用だよ……。お前はこの家を追い出されたはずだろ!何の用でこの家に来た!」

 割と腹の底から声を出したつもりだったが、実際に喉の奥から出てきたのは、自分でも思わず情けなくなるほどに掠れた、如何にも怯え切った声で、俺は自分の臆病さに歯噛みしつつも、目線だけはしっかりとあの男を睨みつけていた。

 そんな俺の声を聞きながら、あの男は口に咥えた煙草を上下に動かしながら、くつくつと笑い声をあげた。

「何の用とはひどいな。君のお父さんに頭を下げられたので、戻ってきたのだよ」

 一瞬、そんなことあるわけねえだろ。と叫びかけた俺の脳裏に浮かんだのは、操生が巫女になった日に申し訳なさそうに俺に事情を話す親父の姿だった。

 あの日の親父の姿を思い出した俺が思わず黙り込むのを見て、俺が納得したのを察したのだろう。

 あの男は、「どうした。さっきまでの威勢はどこに行ったのかね?」と、如何にも俺を挑発するようなことを言った。

 だが、そんなあの男に対して俺が口にしたのは、自分でも意外なまでに当然の疑問だった。

「どうやって、どうやってこの家に入ってきた。カギは掛けていたはずだったぞ?」

 その質問にあの男は一瞬、何事か考え込むように黙り込むと、面白い冗談でも思いついたのかのように底意地の悪い笑みを浮かべた。

「敢えて言えば、マティラム・ミスラ君に倣った魔術を使ったのだよ。ちょっとした催眠術のようなものさ」

 いかにもふざけた言葉だったが、何故か俺は異様にそんなあの男の言葉が恐ろしく聞こえて、思わずありもしないことを聞き返していた。

「魔術……?本当に……?」

 頭ではありえないと分かっていたが、何故だか無性に目の前の男ならばそれが使えるような気がしてしまい、手足の先を震わせながらそう聞いていた。

 すると、俺の質問を聞いたあの男は、そんな俺を鼻で笑い飛ばした。

「おいおい冗談に決まっているだろう?今の中学生は絵本を読むこともしないのか?芥川龍之介の書いた魔術と言う話の一節だよ。それくらいなら読んでいるものだと思ったのだがなあ」

 この家を出ていく前と全く変わらない態度でそう言うあの男の様子に、俺の全身には粟肌が立ち、指先の温度が冷えていくのを感じていたが、ここで何か言わなければ、何か、決定的な何かを奪われそうな気がして、なけなしの意地と見栄が自然と口を動かしていた。

「あんたは……あんたは一体、何で戻ってきた?そんなに操生が祭の生贄にされるところを見たいのかよ?」

 するとあの男は、如何にも心外だと言わんばかりに肩をすくめながら、答えた。

「随分と人聞きの悪いことを言うじゃあないか?そもそも私の目的は、あくまでも歌崎の家に伝わるムカデの話を調べることだ。その目的がまだ果たされていない以上、追い出されたのでトンボ帰りとはいかないのさ。ムカデの話を差し引いても、髪継祭そのものにはある程度調べる価値もあるというものだしね。せめて髪継祭の取材を終えるまではこの町にはおのずと残ることになると言うものだ。とは言え、そこまで言われては致し方あるまい。日を改めるとしよう。どうせ、いずれは何回か顔を出さねばならない家だ。御父上によろしく言っといてくれ」

 そう言って俺に背を向けたあの男の背中を見た時、何故か俺は直感した。

 あの男がこのままここを立ち去ったら、二度と操生を助ける機会は訪れない。

 きっと、俺はこのまま操生を見殺しにしてしまう。

 そんな思いが咄嗟に、俺にあの男の肩を掴ませていた。

「全く、さっきから一体何だと言うのかね?私をこの家から追い出したいのか?押しとどめたいのか?はっきりしてくれないかね?これでも暇ではないんだが?」

 そう言って俺の方を振り返るあの男の視線に、俺は底知れない恐怖を感じ、喉の奥が張り付いて動かくなったような気がした。

 ただ口をわずかに開けて、その場に固まり、一言、たった一言を口に出すのさえもできずにその場に固まってしまった。

 そんな中口にされたのは、自分でも予想だにもしない言葉だった。


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