第14話


 目が覚めると、全身がかゆかった。

 俺は昨日開けっ放しにしていた窓から入り込んだ蚊に身体の至る所を食われていたことに気づいて、文句を言いながら窓を閉めると、畳の上に昨日破って捨てたあの男の名刺を見つけ、何とはなしにその紙切れを拾い上げた。

 最初はそのままゴミ箱の中にその紙切れを突っ込もうかと思ったが、名刺に書かれている会社の名前に目が留まり、ふとした思い付きが俺の頭に過ぎった。

 もしも、あの男以外にも歌崎家の人間が東京にいるのなら、その伝手を伝って操生を東京に逃がすことができるんじゃないだろうか?

 そうでなくとも、東京の会社ならば、何か理由をつけて操生を連れ出せば、何かしら助けになってくれるのかもしれない。

 この期に及んでも尚、あの男の影に縋り付くような自分の思いに反吐が出そうになった。

 それでも、昨日見た夢の所為だろうか。少しでも可能性のある方に掛けてみたくなった俺は、畳の上にまき散らされた名刺をかき集めて、名刺に書かれた社名と電話番号を復元すると、さっそくその会社に電話を掛けた。

 しばらくして、電話から受付の人の声が聞こえ、俺は事情を説明してあの男の上司に代わるように言った。

 すると、しばらくして電話にあの男の上司らしき肩書の人物が出て、自分を大橋と名乗った。

 そこで、その大橋さんにあの男の名前を出して、どういう人物か尋ねたが、帰ってきた答えは俺の意表を突くものだった。

「そんな奴いましたっけ?うちに?」

 そう言った電話相手に、一瞬、俺はふざけているのかと思ったが、どうもそうではなく、本気で言っているようだった。俺は一度名刺に書かれた名前や情報を電話相手に確認すると、あの男が言っていたこの町に来ることになったゴジラの話だのなんだのを大崎さんに話した。

 すると、大橋さんは電話口でしばらく考え込むと、ややあって思い出したように言った。

「ああ、なるほど。滋賀にムカデの話ね。思い出したアイツですね。なるほど確かに、そちらに調査に出向くように言いましたね。どうしました?アイツが何かやらかしましたか?」

 何かやらかしたどころではない。と怒鳴りつけてやりたかったが、何故だかそう言ってしまうのは決して越えてはいけない一線を越えてしまうような恐怖感を覚えてしまい、俺は一度受話器から耳を離して深呼吸した。

 正直、このまま電話を切って何もかも忘れたかったが、それをしたところで何の意味もない。

 少しでも心を落ち着けようと、俺は、日ごろは使わない拙い敬語を使いながら話題を切り替えた。

「……いえ。つかぬことをお聞きしたいのですが、そちらでの彼の仕事ぶりや評判などはどうなっているのでしょう?何分、こちらでは殆ど歌崎家の人間はいないもので、彼がどういう人間なのかはっきりと言い切れなくて」

 別に何かはっきりとした答えを求めていたわけじゃない。ただ、少しでもいいから何か知れればいいかと思っての質問だった。

 だが、その質問の答えは、俺の予想よりも遥かにあやふやなものだった。

「ああ、アイツは少なくとも仕事ぶりに関しては悪くはありませんよ。要領もいいし、文句を言いながらも仕事はきっちりこなしますしね。ただ、所どころで小さな失敗をやらかすことが多いのと、ちょくちょく遅刻癖があるのが割とシャレにならない欠点ですがね。酒癖も悪くないし、仕事でしか付き合いはないですが、悪い印象はないですね。まあ、良い印象もありませんが」

「良い印象がないというのは、どういう事でしょう?」

「別に滅茶苦茶仕事ができる奴ではありませんからね。かといって使えないやつでもないし、何よりアイツってあれでしょ?あんまり記憶に残らないやつでしょ?名前からして覚えにくいというか忘れやすいというか、背も体つきもどこにでもいるような風体ですし、何よりアイツの顔。目の前にいても覚えられないんだよね全然」

 電話口でそう語る大橋さんに、俺は渇いた笑いを上げながら同意したが、そんな俺の口とは裏腹に心臓は耳元まで届くほどの爆音を上げていた。

「そうですか……。それでは、彼と親しい人はおられないでしょうか?もう少しでいいので、具体的に人柄が分かるような情報が欲しいのですが?」

「親しい、親しいやつか……。それだと、多分俺かなあ。でも柳葉と水戸部ともよくつるむような。いや、青井と高田の方が良かったか?……いや、城田か?難しいな。まあ、多分俺です」

 その答えだけで、あの男には親しい人間がいないのだと察したが、それでもあの男について少しでも手がかりを得ようと、俺は質問を重ねた。

「あの、貴方は一体彼とどれくらいの付き合いになるのでしょう。いえ。それ以前に彼はそちらでどれくらい働いているのですか?」

 俺の質問に電話口の大橋さんは、うーん。と、唸るように考え込み、一拍置いて答えた。

「どうだったかな。うちは終戦の年にできたまだ新しい会社ですがね。確か、その時にはいなかったはずです。それと、新入社員でないのは確実なので、多分、努めて二、三年になると思いますよ?それが何か?」

「二、三年?もう少しはっきりとわかりませんか?」

 俺の質問に、大橋さんは「そうですねえ」と呟くと、しばらくの間考え込んでいたが、結局のところ「すみません。やっぱり、はっきりしませんね」と、謝罪された。

「しっかりと調べたければ、時間はかかりますが調べられると思いますが、今すぐにはちょとねえ。どうだろう?」

「……いえ……良く、わかりました。もう結構です」

 俺はそう言って受話器を置いた。そこで初めて、自分の掌が小刻みに震えているのに気づいた。

 脳裏に浮かんでいるはずの、あのあやふやな顔をしたあの男が、より猶更に得体の知れない存在であるかのように思えて、自分が何かとんでもない関わっているようなそんな気がした。

 すると。

「どうしたのかね?ただ電話をしただけで、随分と怯えているようだが?」

 突然背後からあの男の声がかけられ、俺は勢いよく後ろを振り向いた。


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