第3話
滋賀の三上山には、藤原(ふじわらの)秀郷(ひでさと)の伝説がある。いわゆる、俵(たわら)の藤(とう)太(た)のムカデ退治の伝説が残っている。
藤原秀郷は、平安時代に活躍した武将の一人であり、当時関東一円を支配していた平将門によって引き起こされた平将門の乱を平定するべく、当時の都であった京から将門の治めていた関東八州に向けて進軍することになった。
その際、琵琶湖に架かる瀬田の唐橋を通ることになったが、そこで秀郷軍の前に立ちはだかったのは、橋の上に横たわる巨大な大蛇であったという。
その余りの巨大さに恐れをなした秀郷の兵たちであったが、彼らを率いる大将であった秀郷は、大蛇に臆することなく、むしろその大蛇を跨いで通ったという。
すると大蛇はそのまま秀郷を怖れるように橋の上から姿を消し、その夜、秀郷の前に一人の美女が現れた。
その美女曰く、「自分は琵琶湖の底にある龍宮に住む竜神の一族である。しかし、近年、琵琶湖の傍にある三上山に巨大なムカデの神が住みはじめ、琵琶湖の中を荒らしている。だが、ムカデの神の力が強く、太刀打ちできないので、ムカデの神と戦う胆力を持った勇士を探すために大蛇に姿を変えて唐橋に横たわっていた。貴方ならば、ムカデの神と戦う力と度胸があると思うので、我らに助力をいただきたい」と、そう言った。
そこで秀郷はその美女を助けてムカデを討つこととし、三上山のムカデに弓矢を射かけて討ち果たした。
その後に、秀郷は美女と結ばれた末に、彼女から宝刀たる太刀を貰い受けて将門の討伐に向かったという。
そして、彼女の助力と貰い受けた太刀のおかげもあり、秀郷は無事に平将門を討ち果たすことができたという。
異説はあるが、概ねこのような内容の伝説である。
その話を口にしたところ、思いのほかにその場の話が盛り上がった。
やれ、俺が聞いた話では太刀ではなく鎧を貰い受けただの、俺が実家は藤太の墓の近くにあるだの、たばこの煙を燻らせながら話に花を咲かせるうちに、久しぶりに会議の現場には活気が戻っていた。
ただ、私が祖母から聞いたのは、その場で盛り上がった話とはやや違っていた。
それは、もう一匹のムカデの話である。
俵の藤太が退治しきれなかったもう一匹のムカデ。
その話を口にしたとき、不思議なほどにその場が静まり返っていたのがやけに印象に残っている。
静まり返った会議場の中で、同僚が怪訝そうに私の顔を伺いながらその話の詳細を聞きたがったが、生憎と私が祖母からその話を聞いたのは小学校に上がったかどうかの時であったし、祖母がその話をしたのはそのとき一回限りのことであった。
何よりも中学に上がってすぐに祖母が亡くなってしまい、その話をする機会も、改めてその話を聞く機会も無くなってしまった。
だから、それはほんのわずかに記憶の底に引っかかっている単なる幼少期の思い出話を口にしただけでしかなかったのだが、そんな些細な出来事がこの会議を予期せぬ方向に転がすことになった。
「それは面白い」そう言ったのは、製作班の班長だった。
「君、その話を調べてきてみ給えよ。誰も聞いたのことの無い、伝説の新たな一面だなんて、実に話のタネになる。加えて、妖怪だのなんだのの話ともなれば、特撮の技術もそれなりに使用することができるだろう。そうだな、今日にでも荷物を纏めれば明日には出れるだろう?ちょいと調べてみてくれよ」
とんでもない話である。
滋賀から東京は、そんな気軽に行って帰ってを行えるほどの距離ではない。そもそも祖母が亡くなって以来、その土地には一度も帰っていないし、今も祖母の家があるかも怪しい。
何より、先の大戦以来、滋賀の親戚とは一度として連絡を取っていない。生死ですらもが不明なままなのだ。
そんな場所にその日の思い付きで押しかけていっても、泊りの宿にも困るだけだ。
そんな私の訴えを、班長はタバコの火を消しながら笑い飛ばした。
「問題ない。取材費用はすべてこちらで持つ。泊る所に困るのならば、適当に民宿でも探せばよい。であれば、構わないだろう?そもそも、藤太の伝説の異説という事であれば、君のおばあさんの作り話でもない限りは、その土地に他にもその話の内容を知っている人間がいるはずだ。とにかく、君が行けば何かしらの収穫はあるはずだ。ついでに親戚の所在まで明らかになるのだから、君には何一つ損はないはずだ。何か問題でもあるのかね?」
にこやかな笑みを浮かべる班長に、問題しかなかろうと言ってやりたかったが、そんなことを口にできるだけの度胸の無い私は、祖母の話が作り話であればどうするのです?と、話をずらすしかなく、班長はにべもなく肩をすくめるだけだった。
「それならそれで、我々がその話の続きを書けばよい。それ以外に何がある?」
その言葉と共に、羨ましいだの。ちょいと早いお盆休みですね。などと言う同僚の言葉が周囲から掛けられ、私が滋賀県のN町に行くことがなし崩し的に決まってしまった。
それがこともあろうに二日前のことであり、経費を巡ってごたごたがあったのが昨日のこと。
そして今日。私は実に十五年ぶりに滋賀県N町の土を踏むことになったのだ。
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