幕間3 3日目

 翌朝早く、僕は緊張しながら研究室の学生部屋へと入った。透子の姿はない。


 ふうーっと、息をはく。



 とりあえず、心の準備をした上で、を出迎える事ができそうだ。


 僕は参考書とノートを取り出し、勉強を始めた。


 1時間ほど勉強したところで、学生部屋の扉が開いた。どきっとして、扉の方を見る。透子だ。


「おはよう」

「うん。おはよう」


 透子が僕の右隣の席に座り、勉強を始める。


 やはり、想像通り……ムズイ。このシチュエーション、一体どうすれば。話したいことは沢山あるけれど、切り出し方がわからない。


 彼女は今、僕を必要としていない。一人で、力強く、これからを歩みたいと願っている。では、僕はどういう気持ちで、彼女の隣にいればいいのだろう?


 僕の立場からしたら、正直、生殺しである。一種の放置プレイだ。こういう時、「性別」という属性そのものが、心底憎くなる。僕が男でさえなければ、こんなに焦がれることなく、苦しむことなく、シンプルに一人の友人になれるだろうに。


「ムッズ……」

「空、わからないとこあるの?」


 透子と目が合う。


「いや、そのう……」

「どこどこ?」


 透子が椅子を寄せ、すぐ隣まで近づいてくる。女の子特有の甘い香りが鼻をくすぐり、頭が一瞬クラっとする。


「言ってみてよ。教えてあげれるかも」


 女の子って、どうしてこうなのだろう?昨日のこと、まるでなかったかのように。


 昨日は色々と切羽詰まっていて、僕自身、気分がハイだったから、動じる余裕もなかったけれど、今日になって、落ち着いて思い起こすと、めちゃくちゃ恥ずかしいことをやっていたことに気がつく。


 やばい。恥ずかしさで死にたくなって、「本」を開いてしまいそうだ。


 少しくらい、気を使ってくれよ。


「やっぱ……ムズイわ」

「だから、どこがわかんないの?」


「……透子のことだよ」

 透子から、顔を背けつつ、ぼそっと答える。


「へえ。私のこと、意識してるのかな?」

「……Sだよな」

「確かに、そうなのかもね」


 軽く頭をかく。頭が全然回ってこない。もはや、成り行きに身を委ねるしかないのか。


「休憩しようか」

「ああ……コーヒー淹れるよ」




 僕は、ホットコーヒーの準備を始めた。8月の中旬、外は暑いけれど、研究室の中は冷房が効いていて、ホットコーヒーも十分美味しいだろう。


「家でも飲んだりするの?」

「うん。カフェイン摂れば、長く起きてられて、1日を効率的に使えるからな。味とかには、あんまりこだわりないけれど」

「効率的、かあ。空らしい考え方だね。でも、カフェインもいいけれど、しっかりとした睡眠を取ることも大事だよ。そんなんだから、普段から夜型になっちゃうんだって」

「なんで、僕が夜型って知ってんの?」

「授業中、あくびしてるのよく見るし」

「見られてたんだ」

「まあ……ずっと一人でいるから、目立ってたし」

「うっ、それはちょっとグサッときた」


 僕と透子は、ソファに座り、コーヒーを飲み始めた。


「おいしい。空って、結構なんでもできるタイプなのかな?」

「なんでそう思うの?」

「だって、バイク乗れるし、コーヒー淹れられるし」

「そんなの普通だろ?」

「そんなことない。凄いよ。私なんて、どっちもやったことないし」


 透子が微笑む。その表情に、目も心も奪われる。


 なんてことない、普通のやりとりに、どうしてこんなに緊張してしまうのだろう?結局のところ、チートなのか?「かわいい女の子」というのは。「かわいい」は「正義」だとか、よく聞くけれど、それすら生易しい表現なのかもしれない。


 否、単に、僕が雑魚すぎるだけか……。


「あれれ〜。二人とも、勉強さぼって、コーヒータイムですかあ?」


 声の方を振り向く。


 この研究室で、矢貫先生の助手を勤める新咲瑠璃が、にこやかな笑みを浮かべて立っていた。


 新咲さんは、いわゆる「ポスドク」、博士号を取得している研究員である。年齢は、20代後半くらいだろうか。白衣を着ていて、身長は150cm程度、少しカールを巻いた茶髪のロングヘア。童顔の割に化粧が濃く、正直言って、ややバランスが悪い印象を受ける。


 僕は、彼女のことが苦手だ。掴みどころがなく、何を考えているのかわからない。「わからない」というのは、僕にとっては、最もストレスや嫌悪感に繋がりやすいのである。


「えっと、休憩中でした」

「そうでしたかあ。ただぁ、休憩も大事だけれどぉ、院試勉強も追い込みの時期だから、ちゃーんと頑張らなきゃ、ダメだよ〜」

「は、はい!すみません!すぐに勉強に戻ります!」


「なーんてね。本気にしなくていいんだよ〜」

「は、はあ……」

「私の立場だとぉ、こういうこと、言わなきゃいけないってだけだから〜。矢貫先生なら、院試の勉強なんかしなくていい!って、言いそうだしね〜」


 確かに、言ってたなあ……そんなこと。


「まあ、自分達のペースで、ほどよく頑張ってえ。なんだかお邪魔みたいだしぃ。私は、もう行くねぇ」

「そ、そういうんじゃないですよ。なあ?」

「う、うん。それに、新咲さん、ここに用事があったんじゃないですか?」

「私は、この本を取りに来ただけだからあ」


 新咲さんは、本棚にある「Maxwell's demon」という本を手に取り、学生部屋の出口へと歩き始める。


「じゃあね~」


 もしかしたら、この人から、何か情報を掴めるかもしれない。と、僕はふと思った。


 矢貫先生と一緒にいる時の新咲さんは、今のような緩い感じではない。真剣な表情で、従順な様子で、矢貫先生に従っていたのを覚えている。新咲さんにとって、矢貫先生がいわゆる上司に当たる存在だからとも言えるけれど、それにしても、少し違和感があった。


 もし、新咲さんと矢貫先生に、特別な繋がりがあるのなら……


「新咲さん、この本のこと、何か知ってますか?」


 僕は、バッグから「白い本」を取り出し、新咲さんに見せる。


「ううん。知らないなあ」

「そうですか……ちなみに、矢貫先生、出張って聞いてますけど、どこに行ってるんですか?」

「さあ?私も、よく知らないんだよねえ」

「電話やメールはしてるんですが、全然反応がなくて」

「じゃあ、忙しいのねえ。気長に待つしかないと思うよ〜」

「そう……ですか」


「あっ、一つだけ、藤宮くんにい、アドバイスしておこうかなあ」

「な、何ですか?」


「ゲームにはあ、近道なんてないからねえ?1ステージ1ステージ、1つずつ、ちゃーんとクリアしていかないと、ゴールには辿り着けないよ〜」

「それって……どういう」

「楽して勝つなんてぇ、できないってことぉ。じゃあね〜。院試、頑張ってね〜」

 

 新崎さんは、学生部屋を出ていった。



 そうか……院試のことか……って、んなわけないのか。


「新咲さん、「本」について、何か知っているのかな?」

「どうかな……正直、あの人には取り付く島がない感じがする」

「そうだね」

「ただ、間違いなく言えることは、この「本」が危険だってことだよ。矢貫先生、僕達に死ねって言ってるのか?」


「どうかな。反論するわけじゃないけれど……私、あの本を開いてなかったら、もしかしたら一生、自分自身と正面から向き合うことはできなかったかもしれない。今回、正面から向き合えたからこそ、少しだけ大事な気持ちを、自分にことができた。それに、少しだけかもしれないけれど、私のこと、空に理解してもらえた……だから私、「白い本」のこと、素直に憎めないんだ」

「透子……」


 透子の気持ちに、嘘はないのだろう。ひょっとしたら、もともと自暴自棄気味だった彼女にとって、こうした過激すぎる刺激は必要だったのかもしれない。そもそも、あの本を開いたのは、透子自身だったし。



 だが、僕の立場は、透子とは違う。だから当然、見解も認識も感情も異なる。


 人間、誰であっても、瞬間的に死にたくなることはあるだろう。でも、それを「本物の死」へと繋げてしまうのは、悲しいことだし、短絡的すぎるし、つまらないではないか。


 逆転がなくては、物語にならなくては、面白くないではないか。ひょっとしたら、この「本」は、そういう「物語」を強制的に作り出すための道具なのかもしれない。だとしても、こんな危険なものを使う必要はないし、「強制的」だなんて、ナンセンスではないか。


「表情暗いね。私、何かまずいこと言った?」

「いや、そういうんじゃないよ」


 やばい。表情に出てたのか……。


「空、私、今日、空と話をするの、楽しみにしてたんだよ」

「えっ?」

「空ってさ、物理の中で、特に好きな定理や法則って、あるの?」

「何?いきなり」

「私、空とこういう話、してみたかったの」


 こんなこと、あっていいのだろうか?僕より遥かに賢くて、こんなに魅力的な女の子が、僕と物理の話をしたいだなんて。やはり、「藤宮空」にとって「川澄透子」は、紛れもない奇跡だ。


「そうだなあ……ネーターの定理とかかな」

「本当!?あれ、私も好き!系に対称性がある時、保存量があるっていうのが、神秘的で、深淵で」

「対称性って、面白いよなあ」

「その対称性が自発的に破れた時に、質量0の粒子が現れたりしてね」

「南部ゴールドストーンボソンだよな。僕、その名前を最初聞いた時、ゴールドストーンっていう単語に引っかかって、ネットで検索したの覚えてる」

「わかる~。全然ゴールドじゃなくて、茶色なんだよね」

「そうそう。でもさ、対称性もいいけれど、僕が一番好きな法則はやっぱり、熱力学の」


 その時だった。


 僕のスマホの着信音が、学生部屋に鳴り響く。


 僕は、電話に出る。

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