透子編 最終話 空と透子


 ゆっくりと目を開ける。


 眠っていたのだろうか?ここ、どこだ?


 見慣れない天井。普段より、ふっくらとしたベッド。隣には……すやすや眠っている川澄透子。


 は?


 僕、藤宮空の隣に、川澄透子が眠っている。なぜ?


 なんていう疑問を相手にする気持ちは、一瞬にして吹き飛ぶ。


 稲妻に打たれたがごとく、心と体が痺れる。


 身勝手に、動物的に、彼女に恋焦がれる。


 さながら、生まれた直後に初めて見る対象を母親と思い込むカンガルーのごとく、眠りから覚めた直後に目の前にいた彼女を、本能的に、強烈に、僕は求めた。



 手を伸ばしかけたところで、なけなしの理性が、すんでのところで「魔手」を引き戻す。



 いけない……人間として、多分……否、大分の方で、間違っている。



 そういえば、昨日もこんなことがあった気がする。あれは……川澄透子の「トレーン」内のホテル……彼女と背中合わせで寝た時だ。


 じゃあ、ここも「トレーン」?いや、「最大の敵」だと思われる藁人形は、川澄さんが倒したはず。それにここは……そう。川澄さんの部屋だ。



 現実世界に、戻ってきたんだ。



 川澄さんが上体を起こし、背伸びしながら、目を開ける。


「う〜ん……あっ、藤宮君」


「お、おはよう。川澄さん。って言っても、時間的には、もう夜みたいだけれど」


 外はすっかり暗くなっていて、窓からは月が見えている。


「おはよう……ここって、私の部屋?」

「そうみたい」

「現実世界、だよね」

「だと思う。川澄さん、普通に寝れてるし。あっちの世界では、寝るのにも色々条件があったから」

「藤宮君の隣で寝る事が、藤宮君の助けになってたからなんじゃない?」

「その可能性は……否定できないけれど」


 川澄さんが、意地悪そうな笑みを浮かべる。


 彼女は、こういう笑い方をするんだったろうか?もしかして、「トレーン」内での出来事が、彼女に多少なりとも変化を与えたのだろうか。否、変化というより……戻ったのか?


「ありがとうね。藤宮君がいなかったら、私、あの世界から抜け出すことなんて、あの藁人形を倒すことなんて、絶対できなかった。本当、感謝してる」

「僕の方こそ、川澄さんには感謝してる」

「えっ?」

「昨日、川澄さんが僕の言葉を理解してくれたこと、「私も同じ」だって、言ってくれたこと、本当、嬉しかった」


「そんな……だって、本当にそう思ったから……藤宮君、私、明日からも研究室に行ってもいいのかな?」

「えっ?」

「今回のことで、藤宮君、私の色んなことを知ったよね?それでも、私、藤宮君の隣に座って、物理やってもいいのかな?」

「もちろんだよ!むしろ、川澄さんのことを知ることができて、川澄さんの「トレーン」に行けて、本当に良かった。表面的な部分だけで判断して、川澄さんを傷つけるような事が、一番嫌だったから。あの夜、現実世界だと、昨日の夜……僕が君から逃げたこと、本当に悪かった」


「藤宮君が謝る事なんて……」

「ごめん。すまなかった」

「じゃあさ……お願いがあるんだけど」

「何?」

「藤宮君のこと、空って、呼んでもいい?べ、別に、変な意味なんてないよ。ただ……私のことを知ってくれたように、私も藤宮君のこと、もっと沢山知りたいから」


 川澄さんが、恥じらいを浮かべた表情で、僕と目線を合わせないように斜め下を見ながら、もじもじしている。


 肉食系男子なら、こういうシチュエーションで、どう行動するのだろう?彼女を抱き寄せたり、頭を撫でたりするのだろうか?



 ムリムリ!心臓死ぬ!……じゃない。僕が死ぬ!



 でも、そうできたなら、それを川澄さんが拒否せず受け入れてくれるなら、どんなに……いや、待て。


 

 川澄さんは、拒ばないかもしれない。昨日の夜のように。



 川澄さんが、高校時代の経験をきっかけに抱くようになった、強烈なコンプレックス。それこそが、彼女の今の性格・行動の背景にある。


 より正確には、自分を他人よりも虐げられた存在にすることで、自分が暴走しないようにしようという、一種の自己防衛なのかもしれない。


 いや、そうでもなく、単純な自己防衛ではなく、その自己防衛本能に、川澄さんが本来持つ優しさがかけ合わさる事で、「無償で自分の体を売る」という、超人間的、女神的な行為が発現しているのかもしれない。


 ……そうか。僕はまだ、何も知らないんだ。


 本当のところは、本当に重要な部分は、何も知らない……いや、今、大事なところは、そこではない。


 彼女が今後も、自らを他人に差し出してしまう可能性があること。それが実戦的に、直近の問題だ。


 川澄さんは、今回の経験で、自分の心と向き合う中で、少しは変化が出ているかもしれない。だが、人間一人の「本質」が、そう簡単に……トイレを我慢したり、命の危機に瀕したりしたくらいでは、変わらないだろう。


 だとしたら、彼女はまだ、女神に徹するかもしれない。僕は、彼女に甘えることができるかもしれない。



 でも、生憎なことに、僕は肉より魚が好きなのだ。



「僕も、お願いしていいかな?」

「何?」

「透子って、呼んでもいい?僕も、君のこと、もっと、知りたいから」


 川澄さんが、ぷっと笑う。


「私達、つくづく、理系の学生なのかな。知らない事があるのが、許せないみたい」

「もしそうなら、そんな自分が、少し誇らしいかも」

「かもね……ちょっと恥ずかしいけど」

「まあな。明日からもよろしく。透子」

「こちらこそ、よろしく。空」


 僕達は、「呼び捨て」から始める。ほんのわずかな一歩だけれど、不器用な僕達にとって、ものすごく大きな一歩だ。


 ゆっくり行こう。どんなに生き遅れたって、寿命が縮んだって、そのおかげで大切なものを得られるなら、守る事ができるなら、それでいい。



 ……本当に?



 このままだと、透子はまた夜の街へと出ていき、自らの体を……その問題は、まだ解決できてないじゃないか。ゆっくりしてる暇なんて、ないんじゃないか?


 でも待て。そのことは彼女にとって、本当に「問題」なのか?川澄透子にとって、自分の心を守るために必要な行為なら、受け入れざるを得ないことなのではないか?外野から、好き勝手なことを言ってはいけないのではないか?


 いやいや待て。理屈的に必要かどうかとか、正しいかどうかとか、受け入れるべきかどうかとか、そういうんじゃなく……僕自身の気持ちとして、そんなこと、許せるのか?僕に「奇跡」をくれた女性が、誰かに簡単に弄ばれてしまうことを、僕は、我慢できるのか?



 無理だ……心臓、死ぬ。



「透子、お願いがある」


 僕は、ベッドから降りて、床の上で透子に土下座した。


「そ、空!?何やってるの!?」

「頼むから、もう夜の街には……出ないでほしい。あんな風に、自分のことを安売りするようなことは……無理にでも変われなんて、言いたくないけれど……それだけは、頼むから……やめてほしい!これは、僕の勝手な願いだ……君にとっては、未だに必要なことなのかもしれない……だけどさ、僕は、傷つくんだよ。見てられないんだよ!だから、頼むから……」

「顔、上げて」


 ゆっくりと顔を上げる。

 


 透子の唇が、僕の唇に触れた。



 体から、力が抜けていく。


 張り詰めていた心がふにゃふにゃして、フル回転していた脳みそも、とろけそうになる。


 瞼が自然と閉じて、快感の海に、心が投げ出される。 



 これが、キス……。



 唇が離れる。瞼を開けた。目の前に、頬を赤らめた透子の姿がある。


「えっと、ごめん。いきなり」

「い、いや、そのう……こういう時、なんて言えばいいのか……僕、全然わからなくて。そのう……経験がないから」


 僕は透子を見るのが恥ずかしくて、彼女から目線を逸らす。しばし、無言の時が流れる。



 こういう時は、もう、行くしかない……男として、ここまでされたら、ゆっくりとか、言ってられない!



「透子、僕さ……透子と」

「待って……それは、ダメ」

「えっ?」

「今のは、私を「トレーン」から救ってくれたお礼。でも……ダメ。もう、空は、私のために、私の世界に飛び込んじゃ、ダメ。君には、もっと素敵な人がいるよ……私なんかじゃ、ダメ」

「透子……そんなこと……」

「私、やっぱり、不器用なんだ」


 透子が、にっこりとほほ笑む。


 その笑顔のニュアンスは、ひょっとしたら「諦め」なのかもしれないけれど、僕は、「誠実」を感じた。


 透子は、向き合っているんだ。自分自身と。真正面から。


「それに私、今は空に頼らないで、一人で頑張ってみたいの……もし、私が今より少しはまともな人間になれたら、その時、本当の意味で、空が私を求めてくれるなら」



 その時、部屋の扉が開き、パンドラが飛び込んできた。



「こっらー!!空君、ウチ以外の女と何しよーと!?浮気は許さんばい!!!」


 パンドラのリバーブローが、僕の脇腹に突き刺さる。


「ぐええ!!!」



 やれやれ……締まらないな。


 騒がしい日々は、まだまだ続くようだ。



 透子編<終>

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