透子編 第4話 透明人間

 市街地の大通り。人々が足早に行き交っている。


 私、川澄透子は、その往来の中に立っていた。人々は、私の体に平然とぶつかっていく。しかし、彼らの体勢はぶれず、何事もなかったかのように歩いて行く。みんな忙しそうだ。


 しかし、ここはどこだろう。見知らぬ場所だ。どういう事情で、どうやってここに来たのか、全く思い出せない。


 今日の予定は何だっけ?そうだ。院試の勉強の続きだ。研究室に行かなきゃ。でも、昨日は藤宮君に、嫌な思いをさせてしまったみたいだし……ちょっと、行きづらいかな。藤宮君を、また不愉快にさせてしまうかもしれない。


 ああ、私って本当、いない方がいい人間なんだな。


 また誰かにぶつかった。早くここから離れなければ。ただでさえ邪魔な人間なのに、邪魔になりやすいところにいて、どうするんだ。もっと注意を払わなきゃ、ダメじゃあないか。


 人通りの少ない路地裏に入る。中年の女性が、重たそうな産業ゴミを収集所へ運んでいる。私は、取っ手を一緒に持ち、ゴミを運ぶのを手伝った。女性の表情が、少し楽になったように見える。よかった。


 しかし、私とぶつかった人達といい、この女性といい、私に対して、何のリアクションも示さない。さすがに、少し不自然?


 ひょっとして、私は既に死んでいて、幽霊になってしまったのだろうか。でも、幽霊だとしたら、人とぶつかったり、物を持ったりすることはできないような気がする。


 何にしても、居心地がいい。ここが、私みたいな人間でも、人に迷惑をかけずに、人を少しでも助けることができる世界なのだとしたら、こんな私にも、存在意義があるかもしれない。

 

 そういえば、世界は元から、こんな感ではかったか?昨日までの世界は偽物で、本物の世界が覆い隠されていたのかもしれない。少なくとも私は、この世界をずっと昔から知っていた気がする。


 全てのゴミを運び終えたところで、私は大通りに戻り、家へと歩き出した。研究室に行くかどうかはさておき、ひとまずは家に戻り、準備する必要がある。ここがどこだかはわからないけれど、なぜだか、家がある方向はなんとなくわかった。


 ふと、ショーウインドウを見てみる。私の姿は、鏡に映っていなかった。


 そうか……私は今、「透明人間」なんだ。ただの透明人間ではなく、存在自体が透明になった「透明人間」。だから、他の人には、私の姿も声も行動も知覚されないのだろう。


 何とも好都合だ。



 私は、自分の家に辿り着いた。私の家は地下にある。地上の貴重な土地を、私なんかのために使ってはならないと考え、苦労して見つけた物件だ。家賃は高いが、とても満足している。


 軽く何かを食べたいと思って、トーストと目玉焼きを作った。質素なメニューだが、空腹だったので、これ以上ないご馳走に見える。いつもの椅子に座って、ゆっくり食べよう。


 座れなかった。私の体は、椅子をすり抜けた。


 どうやら、私は座ることができないらしい。「透明人間」なのだから、当然と言えば当然か。


 仕方ない。立って食べよう。


 こんがり焼けたトーストから、香ばしい匂いが漂ってくる。私はトーストに手を伸ばした。


 トーストを掴めなかった。私の手をすり抜けて、トーストは床に落ちた。


 箸を手に取り、目玉焼きを食べようとする。最初に黄身をつぶして、醤油を垂らして食べるのが、私流だ。


 箸が、目玉焼きをすり抜けた。手で掴もうとしても、すり抜ける。


 箸は持てるのに、目玉焼きは持てない。これは、どう解釈すればいいのだろう?


 ひょっとして、私は食べるという行為が禁止されているのだろうか?



 なんと素晴らしい世界だろう!私などのために、食べ物が消費されることがない!人類にとって貴重な食料を、私などのために割く必要がないのだ!



 この世界なら、私は人知れず、他人に奉仕することができる。誰から気づかれることもなく、気を使われることもなく、他者に尽くせる。


 昨日までいた世界は、私が捉えている世界の姿と、やや乖離していたように思う。でも、今はそうじゃない。両者はぴったりと重なり、心の中で思い描くことが、全て実現できる。



  その日、私は公園の掃き掃除をしたり、飲食店で皿洗いをしたり、コンビニで品物を陳列したり、そういう「お手伝い」をして過ごした。どれだけ活動しても、人に気付かれることはない。報酬を受け取る必要もない。とても充実した時間だった。


 夜、家に帰った。今日は何も食べていないし、ずっと立ちっぱなしだったから、さすがに疲れた。少しは体を休ませないと、明日、動けなさそうだ。


 シャワーを浴びようとした。しかし、シャワーのお湯は、私の体をすり抜けた。


 シャワーもダメか。そりゃそうか。「透明人間」なのだから。


 とりあえず、寝なくては。ベッドに横になろうとしたが、私の体は倒れなかった。まるで、重力の法則に逆らうかのように。私は、冷たい床の上で眠りについた。


 次の朝、私は自分の家にあるものを全て、リサイクルショップに譲渡した。最早、私には使えないものばかりだったからだ。


 ついでに、全財産を慈善団体に寄付した。微力ではあるけれど、世界の誰かにとって、きっと少しは助けになる。どうして、もっと早くこうしなかったのだろうか。


 身軽になった。最高の気分だ。私みたいな死んだ方がいい人間が、きちんと搾取され、罰を受けて、不幸になり、そのおかげで、他の人達が少しでも喜んでくれるなら、これほど嬉しいことはない。


 今日はこれから、何をしよう?何をすれば、最も人の為に尽くすことになるのだろう?

 

 そんなことを考えながら住宅街を歩いていると、唐突に強烈な衝動に駆られた。



 やばい……トイレに、行きたくなっちゃった。



**************************************


 僕とパンドラは、状況を確認する為に、川澄透子が執筆した文章を読んだ。


 現実世界の川澄透子は、今も机でもがき苦しんでいる。


 大学生になってから、僕は物理学に没頭する生活を送っていた。だが、「頭の良し悪し」であったり、「才能」だったり、そういう覆しがたい要素というのは、やはり存在する。いくら、僕が物理学に「片想い」しようとも、見えない壁に阻まれて、ある一定のレベル以上の力を身につけることができなかった。


 しかし、川澄透子はそうじゃない。彼女のような「選ばれし人間」は、凡人がいくら努力しても超えられない壁を軽々と超え、まだ見ぬ景色を発見することができる。そういう権利を持っている。


 人間は生まれながらにして平等と言うけれど、これは詐欺師の言葉だ。平等なルールの中で、不平等な権利を与えられているのだから、実戦的には、普通に不平等だろう。


 ただ、僕の場合、「選ばれし人間」に僻む事はなかった。彼らが新しい景色を発見することで、僕のような凡人も新しい景色を見ることができる。それはそれで、とても嬉しいことなのだ。


 だから、川澄透子は、純粋な意味で、僕の憧れなのである。


 その彼女が、今、目の前で苦しんでいる。ここまでに彼女が執筆した文章を読んで、彼女の抱えている闇の深さに、驚く部分もあった。僕が欲しいものを全て持っている彼女が、なぜここまでの劣等感にまみれながら、日々を生きているのか、理解するのは難しい。



 でも悪いけど、川澄さん……闇の深さなら、負ける気しないんだわ。



「パンドラ、川澄さんを楽にするには、どうすればいいんだ?」

「う〜ん、トイレに連れて行けば、よかやなか?」

「そりゃあそうだよな。でも、僕、川澄さんの体に、触っていいのかな?」

「空君、うぶやねえ」

「うるせえ」

「言うとくけれど、現実の川澄透子をトイレに連れて行っても、意味なかよ。トイレに行きたがっとーのは、あくまでも「トレーン」の中にいる「アバター」なんやけん」

「そっか。じゃあ、どうすれば、川澄さんの「アバター」を、トイレに連れて行ってあげられるんだ?」

「何でやろう?結構、シリアスなシチュエーションのはずなんに、何か下世話な話をしとる気分になってきた」

「お前、トイレに行けない時の絶望感、味わったことないだろ!?すげーみじめで辛いんだかんな!?」

「ハハハ……そうなんやね」


 川澄さんの息が上がっている。体力の消耗が激しそうだ。

「川澄さん!?くそう!もう、思いっきりここで出しちまえよ!ちゃんと見ててやるから!」

「空君!?さすがにそれは変態ばい!」

「でもパンドラ、川澄さんの様子を見るに、もう時間がなさそうだぜ!どうにかしないと、川澄さんの体が持たない!何か方法はないのか!?」

「ないことはないよ」

「どんな方法なんだ!?知ってるなら、教えてくれ!」

「この本の中に、空君が登場人物として入っていく方法があるばい」

「本当か!?それなら、川澄さんのアバターに接触できる!」

「ばってん、それには大きな代償が必要たい」

「代償?」


 パンドラは、唇を噛み締めながら、言葉を絞り出す。

「空君、空君の寿命、5年くらい、縮んでいもよか?」

「えっ?」

「他者の「トレーン」に入るためには、それなりの「入国料」を支払う必要があるんよ」


 「入国料」……含みのある単語だが、直感的には理解できた。「他の世界」に行くということは、言うなれば、現実とは全く異なる物理法則が支配する、全く異なる宇宙に行くということだ。そんな「遠い場所」へ行くのだから、何も支払わずに済むはずがない。


「それに、本の中に入ったところで、本当に助けられるかどうかなんてわからん。助けられず、川澄透子の執筆が終わったら、空君の魂は本の中に取り込まれたまま、戻って来れんくなる」

「最悪の場合、川澄さんと僕、どちらも助からないってことか?」

「うん……それでも空君は、川澄透子を助けに行きたかと?」

「僕、算数は得意なんだぜ」

「えっ?」

「僕の今の年齢は21歳。僕の寿命を約70歳と仮定すると、残り50年くらい。つまり5年は、僕の残りの人生の10分の1。川澄さんは僕と同い年で、しかも女の子だから僕よりも寿命が長い可能性が高い。つまり、川澄さんを助けることができれば、僕と川澄さんの寿命の合計としては、10倍以上得することができる!こんな儲け話、乗らない手はないぜ!」


 僕は右側の口角を上げながら、親指と人差し指の先端をくっつけ、いわゆる「お金マーク」を作り、パンドラに示す。

 パンドラは、ちょっとだけ笑ってくれた。


「空君らしか……わかったばい……じゃあ、これからのウチの話、よく聞いてね。空君が川澄透子の「トレーン」に入るための方法。そして、空君と川澄透子が、現実世界に戻ってくるための方法。それから、「トレーン」における最低限必要な知識。一気に叩き込んであげるけん」

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