透子編 第3話 トレーン

 住宅街の外れにある、目立たないアパート。その301号室のドアの前に、僕とパンドラは立っていた。

「この中から、本の気配をビンビン感じる」

 パンドラは目を閉じ、胸に右手を当てている。


 パンドラは、「白い本」が開かれていると、「白い本」の場所を感知することができるらしい。彼女のその力を頼りに、僕達はこの部屋へやってきたのだった。


 僕だって、最低限の良識は持ち合わせているつもりだ。博多弁のロシア人風美少女が、どれだけかわいかろうと、つぶらな目で見つめてこようと、本の場所を感知するなんていう特殊能力を持ってるなんて、信じるわけがない。



 しかし、僕達はすでに、川澄透子がこの部屋の住人だと考えるに足りる、2つの証拠を見つけていた。


 1つ目は、301号室の郵便受けに、「川澄透子」への郵便物が届いていたことだ。正直、これだけで決定的と言っていい。


 もう一つは、川澄さんが大学まで乗ってくる自転車と同じ自転車が、アパートの駐輪場に置かれていたことだ。まあ、これは1つ目と違って、状況証拠レベルで、川澄さん以外の別の人物が、川澄さんと同じ自転車を所有しているだけだと説明することも可能だが、如何せん、1つ目が強烈かつ強力すぎる。


 ちなみに、このアパートの周辺は住宅街で、徒歩の範囲内には、特段商業施設などはない。その点から考えると、このアパートの住人が自動車やバイクを所有していない場合、自転車に乗らず外出する線は考えにくい。


 要するに、川澄透子がこの部屋の中にいる可能性が、高いということだ。


「じゃあ、行くか。パンドラは、そうだな……僕の妹って設定で」

「えー。恋人でよかやなか」

「さすがに、それは無理があるんじゃ」

 パンドラはほっぺを膨らませて、僕を睨んでくる。


「えっと、僕、一人っ子だからさあ、かわいい妹ができるの、夢だったんだよなあ」

 パンドラはすぐさま笑顔になり、僕の腰をたたく。

「いたっ!」

「もう、空君ったら!かわいいだなんて、照れるやなか」

 パンドラは、ほっぺに両手を当てて、体を左右に振っている。


 とりあえず、納得してくれたみたいだ。

 しかし、どうしてパンドラは、僕のことを慕ってくれるのだろう?演技なのか?それとも、別の事情があるのだろうか……。


 いや、とりあえず今は、パンドラについて考えるのはやめよう。今は、川澄透子に会うことが先決だ。


 僕は緊張しつつ、301号室のカメラ付きのドアチャイムを押し、すぐにカメラの死角へと移動した。

「何やっとーと?かくれんぼ?」

「いやあ……大人の事情ってやつだよ」

 単純に、気まずいんだよ。昨晩のことがあるから。


 僕は、鼻をつまんで声を変えて、配達員を装った。

「川澄さーん、配達に伺いました!」

 返事はない。

「川澄さーん?配達に伺ったのですが?あっ、姿が見えないのを不審がってるんですか?すみません。僕、透明人間なんですよぉ。なーんてね。冗談です!ハハハ!面白いでしょう!?」


 沈黙が流れる。。。


「空君、不自然すぎるし、全然笑えん」


 胸騒ぎがする。すべったからではない。このまま手をこまねいていては、まずい気がしたからだ。断じて、すべったからではない。



 パンドラに視線を向ける。パンドラは小さく頷いた。


 強行突破。それしかないか?

 いや、待て。昨日の川澄透子の異様な一面。それを考えれば、あるいは……。


 僕は徐にドアノブを回し、ゆっくりと引いた。ドアが、開いた。

「鍵が、かかってない……」

「自暴自棄なタイプなんかな?なかなか厄介な相手みたいやね」

「厄介な相手?それじゃまるで、川澄さんが敵みたいじゃないか?」

「そうならな、よかけどね」

「えっ?」


 僕とパンドラは、301号室の中へと入った。


 部屋に入ってすぐのキッチンに、川澄さんの姿はなかった。調理器具や食器が、きちんと整理されている。僕の部屋とは大違い。そういえば、女子の部屋に入ったのは、人生で初めてだ。色んな意味で、緊張感が高まる。


 リビングに入る。川澄さんが椅子に座り、ペンを持ち、勉強机に向かっている。ひとまずは無事のようだ。良かった。


 カーテンが閉められ、電気はついておらず、薄暗い部屋。ベッドと勉強机と本棚が置かれ、それ以外に目に付くものはない、質素な部屋だ。


 川澄さんに近づく。

 川澄さんは、「白い本」を開いていた。

 「白い本」は、最初の状態では、どのページも真っ白で、何も書かれていないみたいだった。川澄さんは、その真っ白なページに、どんどん文字を書き込んでいく。粗方スペースを埋めるまで書き込むと、ページをめくり、新しい真っ白なページに、文字を書き込んでいく。


「えっと……悪いな。勝手に部屋に入っちゃって。勉強中だったか?」

 川澄さんは、真っ白な見開きのページに、一心不乱に、文章を書き殴っている。僕達が来たことへのリアクションはない。その様子から、彼女が勉強をしているわけではないことが、すぐにわかった。


「なんで無視するんだよ」

「無駄ばい。その声は、届いとらん」

 パンドラは僕の隣で、暗い表情をして立っている。


「それ、どういうこと?」

「今、この子は、こん中にいるけん」

 パンドラは、川澄さんが開いている「白い本」を指さした。

「えっ?本の中?」

 パンドラが、こくりとうなずく。

「ウチが、一から説明したげる」

 今、目の前で起こっている現象を、この少女は説明できるらしい。なんて頼もしいのだろうか。


「人はそれぞれ、世界の捉え方が違うよね?」

「ああ。まあ、そうだな。人それぞれ、立場や経歴が違うから。同じ世界に生きていても、その感じ方は異なってくる。それは、よく聞く話だ」

「その「人それぞれの固有の世界観」のことを、ウチの主は「トレーン」って呼んどった。この本はね、最初に開いた人物に、強い暗示をかける。「心の全てを、に曝け出せ」と。すると、本を開いた人物は、自分の「トレーン」を無意識の内に文章化し続ける、「執筆者」になってしまうんよ」


 トレーン?執筆者?何を言い出すんだ?この少女は。

 パンドラの話に、頭というより、気持ちがついていかない。


「こんなの、ただの本じゃないか。そんな魔法みたいな話、あるわけ……」

「これは魔法じゃなか。科学ばい」

「科学?」

「そう。時に科学は、ファンタジーさえ、超えてくる。今の空君にとって身近なもんでも、昔の人から見たら、魔法の道具に見えるもんがたくさんあるはずたい。それと同じ。この本は、「先」を行っとるんよ」


 パンドラの話には、そうだと納得できる根拠は見当たらない。しかし、目の前で起こっている事実が、何かに取り憑かれたようにペンを走らせる川澄透子の姿が、状況の異常性を物語っていた。異常な現象を解釈するために、異常な説明が必要なのは、物理学ではよくあることだ。そういう意味では、パンドラの話を否定する根拠もまた、すぐには見当たらないのだった。


 パンドラの話は正しい。

 多少なりとも物理をかじっている者としての直感だった。


「「執筆者」、今の場合、それは川澄透子だけれど、彼女は今、自分自身を視点にして、語り部にして、自らの「トレーン」を描写しとる」

「川澄さん自身が、川澄さんの世界を語っているってことか?」

「うん。まあ、自分の「トレーン」を認識し、理解できるんは、自分だけやから。それが自然ということばい」


 少なくとも、昨晩の僕には、川澄さんの世界観を理解することができなかった。それどころか、その世界観に恐怖して、僕は、逃げ出したんだ。


「つまり、本の中には、「川澄透子」という登場人物が、語り部として、そして主人公として、存在しとるんよ。それを、川澄透子の「アバター」と呼ぶことにするね。実は、「執筆者」は「アバター」と感覚を共有しとる」

「それって、例えば、テレビゲームとかで、キャラクターが攻撃を受けた時、操作しているだけの自分も「痛い」って、反射的に言ってしまうことと同じイメージ?」


「まあ、そげんもんやな。それの超強力版みたいなイメージ。ただ、共有と言っても、「執筆者」は暗示を受けて動けないから、実際のところ、「執筆者」は「アバター」の感覚を一方的に感じるだけ。つまり、今、川澄透子の魂は実質、本の中の「アバター」に宿っていると言えるんよ」

「だから、川澄さんはこの中にいると、君は言うのか?」

「そういうことたい」


 理屈は、一応掴めてきた。要は、川澄さんは今、夢を見ていて、自分の作り出した世界を旅しているのだと、僕は解釈した。


 しかし、肝心なことが、まだわかっていない。僕はパンドラに、「実戦的な状況」を聞くことにした。


「仮に、君の言っていることが本当だとして、「執筆者」は……川澄さんは……これから、どうなるんだ?魂は、いずれ現実の世界に戻ってこれるんだよな?」

 パンドラは目を伏せ、弱々しい口調で話し出す。


「このまま、川澄透子が自らの「トレーン」を書き続け、執筆を終えた時、川澄透子は、魂の抜け殻になってしまうたい」

「魂の抜け殻?」

「執筆を終える……それはつまり、「執筆者」の心の全てが、この本に食べられてしまうことと同じ。心が、消滅することと同じ。そうなってしまったら……人間的には、生きとるとは言えない状態になってしまうんよ」



 その時だった。



 川澄さんのペンが、止まった。



 川澄さんは、苦渋の表情を浮かべ、脂汗をかきながら、机に体を突っ伏しながら、苦しみ始めた。

「パンドラ!これってまさか……執筆が、終わってしまったのか!?」


「ううん。そういう感じやなかけど」



 パンドラは、「白い本」を覗き込んだ後、安堵の表情を浮かべた。

「なるほど。安心して。なかなか大変みたいだけれど、この子は、まだまだ大丈夫ばい。空君、本の最後の一文、読んでみて」

「あ、ああ」

 僕も、川澄さんの「白い本」を覗き込む。最後の一文を読んでみた。



<やばい……トイレに、行きたくなっちゃった……>



「ね?大丈夫やろ?」

「全然、大丈夫じゃなくね!?」

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