透子編 第2話 パンドラ

 家に帰った僕は、川澄透子のことばかり考えていた。色んな期待と不安感が、湧いたり消えたりして、心が波打ち続ける。早く明日になって、川澄さんに会えればいいのに。


 こういうのを、「明日が待ち遠しい」とか言うのだろうか。いや、待ち遠しいというより、待てないと言うべきだ。


 こんなに感情が揺さぶられ続けたら、一晩過ごせる気がしない。



 夜、僕は、飲みに出かけることにした。アルコールさえ入れれば、とりあえず眠くはなるはず。そうやって、明日までワープする他ない。


 夜の街を歩いていると、聞き覚えのある声が、微かに聞こえた。反射的に足が止まる。

「サラリーマンの方ですか?」


 声の方を振り返る。白いミニドレスを着て、セミロングの髪を、後ろで団子型にまとめて……研究室にいた時よりも、濃い化粧をしている。


 川澄透子だ。川澄さんは、中年のサラリーマンの男に体を密着させている。

「君、かわいいねえ」

「そんなことありませんよ。今日も1日、お疲れ様でした」

「おっ、ありがとう。ホントさあ、今日もバカみたいな仕事をバカみたいにやってきたからさあ、もうバカみたいに疲れてるんだよ。毎日こんな感じでさ。神も仏も、この世にはいやしないのかね」

「それはそれは。大変でしたねえ。よろしければ、私の体で、ひと時の癒しはいかがですか?」

「うーん……癒されたいのは山々なんだけど、今月はもう、金ないしなあ」

「お金?とんでもない!そんなもの、いただきません!」

「えっ!?タダ!?マジで!?」

「もちろんです!今日も1日頑張ってくれたあなたを癒すのに、どうしてお金を取ることができるんですか!?神様や仏様がいないなら、微力ではありますが、私が代わりに、無料でご奉仕させていただきます」

「そ、そんな都合のいい話、あるわけ……」

「大丈夫です。私を、信じてください」

「じゃあ……お願いしちゃおっかなあ」


 僕は、川澄さんと男の元へ駆け寄り、二人の体を引き離した。

「待ってください!」

「おい!何すんだよ!?」

「すみません。この子、僕の知り合いなんです。ちょっと、話をさせてください」


 僕は、川澄さんの手を取り、全力で駆け出した。

 男は何か叫んでいたが、僕達を追ってはこなかった。

「藤宮君!?」

「川澄さん、どうして……」


 ああ、ますます、アルコールが欲しくなってきた。


 僕と川澄さんは、路地裏に駆け込んだ。川澄さんの手を離す。

「藤宮君……えっと……ちょっと驚かせちゃったかな?私、夜はこういうこと、やってるんだ」

 川澄さんは、照れ笑いを浮かべている。でも、本当に困っている感じじゃない。むしろ、平然としている風だった。

「なんで、そんなに普通でいられるんだ?意味わかんねえよ」


 そう、意味がわからない。川澄さんだって、一人の女性だ。そっちの方向に興味を持つことは、自然なことかもしれない。とはいえ、さっき、あの中年男性に対して彼女が行った行為は、ある種の一線を優に超えている。川澄透子のように美人で優等生の女性が、自ら自分の身を売るという行為が、単純に、僕には理解できなかった。


「そんなに君の家、お金に困ってたりするの?」

「そんなんじゃないよ。これだって、無償でやってるし」

 えっ?今、この子、なんて言った?

「何それ……無償って……あの男に言ってたこと、冗談じゃなかったのか?」

「だって、私が世の中のためにできることなんて、それくらいしかないでしょ?私って、容姿は多少いいみたいだからさ。それを生かすしかないじゃない」

「いや……えーと……そういうことじゃなくて」

「私は、世界中のみんなが幸せになって、笑顔でいてほしい。それが私の夢なの。そのためにできることなら、私、なんでもするわ!そうだ!藤宮君、どう?あなたも、院試の勉強で疲れているでしょ?私の体を使っても、いいんだよ?」


 呆気に取られ、言葉を失う。


 この人間は、一体、何なんだ!?どういう人間なんだ!?

 体の力が一瞬のうちに抜けていく。思わずその場にへたり込んだ。

「藤宮君!?大丈夫!?」


 自分の感覚と相容れない言葉を浴びすぎている。シンプルに、気持ち悪い。


 いや、厳密に言うならば、彼女の気持ちや考え方は、部分的にだが、僕には理解できる。しかし、それを「川澄透子」が話していることが、実行していることが、理解できないのだ。「川澄透子」が、「川澄透子の立場」にいながらにして、なぜ、そういう生き方を選択したいのか、あるいはしなければならいのか、全くわからない。


 くっそ、体に力が入らねえ。極度のストレスが、僕の魂に襲いかかってくる。「わからない」ことは、何もかも知りたくて物理を学んでいる僕にとって、「猛毒」なのだ。


 なんてことしてくれるんだよ……川澄透子。ムズすぎるんだよ。お前の問題。


 「川澄透子」を解けない自分自身に、一番腹が立つし、がっかりしている。


 足元に、「白い本」があった。へたり込んだ時、自分のカバンから、こぼれ落ちたようだ。「白い本」を持ち、僕は徐に立ち上がった。


「そういえば……君に渡すものがあるんだった」

 僕は、「白い本」を拾い上げ、川澄さんに渡した。

「これ、矢貫先生から。川澄さんに渡せって。よくわからないけれど、この本、開けちゃいけないんだってさ。開けたら、死んじまうみたいだぜ」

「へえ。そうなんだ」

 川澄さんは、興味深そうに「白い本」を眺め回している。


 偶然ながら、ひとまずミッションをこなすことができて、良かった。正直、明日、川澄さんとまともに話せる自信を持てそうになかったから、今のうちに渡せて、良かった。

「じゃあ、僕は、もう行くから」

 僕の手を、川澄さんがつかんだ。

「藤宮君……私じゃ、ダメなの?」


 僕は、弱々しく呟いた。

「いい加減にしてくれよ……僕、童貞なんだ……そういうの、よくわからないんだよ」

 僕は、川澄さんの手をふりほどき、背を向け、歩き出した。どうしようもなく、気分が悪い。気持ちが、感情についてこない。


 早く、飲みたかった。多分、酔えないだろうけれど。




 8月17日、朝。

 

 自分の部屋のベッドで目が覚めた僕は、起きて早々、信じられない光景を目にする。


 隣に、小学生くらいの少女が眠っていたのだ。一瞬にして目を見開き、少女を凝視し続ける。


 大丈夫……「間違え」は犯していないはず!


 だって、昨日はハイボールを一杯飲んだ後、結局、それ以上飲む気力がなくなって、すぐに家に帰ったじゃあないか!

 そして、そのままベッドに倒れ込んだはず!こんな少女のこと、身に覚えがない!あるもんか!


 では……今、目の前に見えるこの少女は……一体、何者なんだ?


 ただの幻覚?そうだよな。そうに違いないよ!昨日は色々あったからさ、疲れてたんだよ!きっと!


 僕は、少女のほっぺたを指でつっついてみた。柔らかい感触……僕の指を、すぐにはね返そうとする、力強い弾力を持った、若々しい頬。感触が気持ち良い。数回つっついてみて、確信した。


 この少女は、確かにここに存在している……幻覚ではない。


 少女の瞼が微かに動いた。

 まずい。やりすぎたか。


 少女が、愛らしい笑みを浮かべながら、ゆっくりと目を開け、起き上がる。肌は白く、瞳は青色。髪はブロンドのショートカット。一見ロシア人のようだが、顔立ちは日本人で、ふっくらとした頬が、癒し系の雰囲気を醸し出している。


「ほっぺた、くすぐったかばい。空君」


 は、博多弁!?外国人みたいなこの見た目で!?どういうキャラなんだよ!

「ウチのほっぺた、そげん気に入ったと?」

「えっと……えっと……ごめんなさい!」


 僕は、ベッドから降りて、その場で土下座した。

「つ、つい出来心で……い、いや、ほっぺを触る以外のことは、何もしておりませんので!これからしっかり責任持って、ちゃんと親御さんの元へお返ししますんで!今回のことは、どうかご勘弁を!」

「そっかあ。ほっぺただけかあ……もっと色んなこと、教えてほしかったのに」

「えっ?」

「なーんてね」


 僕は、頭を上げた。少女が、いたずらっぽい笑みを浮かべている。なんてことだ……こんな小さな子の手のひらの上で、21歳の大学生が踊らされている。

「お、大人をからかっちゃ、いけないんだぞ!」

「ふふふっ、空君、かわいい」

 僕の精一杯の抵抗も、少女は軽くあしらうのだった。


 でも、今、この子、「空君」って言った?どうして僕の名前を知っているんだ?初めて会うはずなのに。

「ばってん、遊んでばかりもいられんね……ウチのことが、空君に見えとるって事は、急がないと」

 少女は目を閉じ、右手を胸に当てている。

「始まっとるんやなあ……新しい物語が」


「新しい……物語?」

 少女は、僕の部屋を見回した。部屋に貼られているアイドル水無葵衣のポスターに目が止まる。

「この子、誰なん?」

「こ、これは……アイドルの水無葵衣」


 茶色がかった髪のショートボブで、やや勝気な顔立ちをしたアイドル、水無葵衣。彼女の笑顔は太陽のように輝いていて、年がら年中陰鬱な顔をしている僕には、同じ「人間」とは思えない、異次元の存在だった。 


「こげな女の子が、空君の好みなんやねえ」

 少女は薄ら笑いを浮かべつつ、問い詰めるような鋭い眼差しで、僕を見てくる。適当にごまかしたら、通報とかされそうな雰囲気だ。

「はい……好みです」

「ふうん……まあ、今はよか」


 少女は、「白い本」を見つけ、手に取った。

「あったあった!これこれ!空君、他に、この本を持っとる人は知らん?」

「えっ?その本を持ってるって言えば……川澄透子?」

 昨晩のことを思い出す。川澄さん……今、どこで、何をやっているんだろう?


「ちっ、女か」

 少女が舌打ちした。一瞬、どこかのヤクザかと思った。

「その川澄透子が死ぬとしたら、空君は助けたい?」

「川澄透子が、死ぬ?何を言って……」

 僕は、矢貫先生の言葉を思い出す。

「その川澄透子が、本を開いてしもうたみたい」


「いや、本を開いたら死ぬだなんて、そんなの先生の冗談に決まって……ちょっと待って……なんで君が、そのことを知っているんだ?そもそも、僕の名前だって、どうして君が知っていたんだ?君とは、今日、初めて会ったと思うのだけれど」

「空君……やっぱり、覚えてないんやね」


 悲しい顔をする少女。何かまずいことでも言ってしまったのだろうか?「やっぱり、覚えてない」?この少女と、前に会ったことがあるのだろうか?

「君は一体、何者なんだ?」

「ごめんなさい。それは、話せんの。ウチの主との大事な約束やけん。ウチにできる事は、空君に、知識と力と選択肢ば、授けることだけ。それをどう使うかは、空君次第ばい」

 

 少女はキリッとした表情を僕に向けて、僕に選択を迫る。

「もう一度、聞くね。川澄透子が死ぬとしたら、空君は助けたい?」



 川澄透子を助けたいのかどうか。そんなの決まっている。


 川澄透子がどんな人間なのか、僕はまだ、何もわかっていない。だからこそ、知りたい。理解したい。彼女の本質を、彼女の見ている景色を、彼女の本当の気持ちを。彼女は、僕の気持ち悪さを肯定してくれた、「奇跡」なのだから。

 

 僕は、少女の目をまっすぐ見て、迷いなく宣言する。


「助けたい。僕は、川澄透子を助ける」


 少女が、ふっと笑う。

「わかった。じゃあ、一緒に行こう。川澄透子のところへ」

 少女は、僕に手を差し伸べる。僕は、その手を取った。

「君、名前は?それも、話せないの?」

「ううん。大丈夫。ウチん名前は、パンドラ。主の付けてくれた、大切な名前ばい」

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