透子編

透子編 第1話 初日

 8月16日。僕、藤宮空ふじみやそらは、一週間後の大学院入試に向けて、所属している研究室の学生部屋で勉強をしていた。興味のある物理の勉強であれば、アドレナリンがとめどなく溢れ出て、苦痛など全く感じないのだが、今回のような「試験のための勉強」は、物理の勉強といえど、なかなかの苦痛を伴うものだった。


 僕の右隣の席では、同じ研究室に所属する川澄透子かわすみとうこが勉強している。川澄透子は、成績は物理学専攻の中でもトップクラスで、おまけに容姿端麗。目立つタイプではないものの、男子達から根強い人気を集めていた。僕自身、例外に漏れず、彼女を魅力的な女性だと認識していた。そんな女性の隣で勉強をできるというだけで、男として、テンションが上がらないはずがなく、むしろそうでなければ、失礼とさえ言えるのではないだろうか。


 ちなみに僕は、いわゆる「青春」みたいなものを経験していない。決まりきった、テンプレート型の「青春」に、意味を見いだせず、そもそも求めてこなかった部分もあるが、求めたところで、僕のような人間が経験できるものでもなかっただろう。


 つまり、僕は彼女いない歴=年齢であり、いわゆる一般クソ雑魚童貞会員である。そんな僕にとって、学園のマドンナが隣の席にいるという、このシチュエーションは、純粋に特殊な環境で、試験勉強なんてものに集中できるはずがなかった。


 僕は、ちらっと横目で川澄透子を見てみた。白い肌に、黒髪のセミロングの髪がよく似合っている。彼女が、髪を左耳にかける。こんな仕草を眺めるだけで、僕の心臓の鼓動は速くなっていく。僕は反射的に目を逸らした。これ以上見ていると、本当に好きになってしまう。こんな高嶺の花を好きになっても、いいことなど一つもない。無駄な望みなど、持たないのが賢い。

「ねえ、藤宮君」

 ドキッとして、川澄さんの方を振り返る。

「さっき私のこと見てたけど、何か顔についてた?」

「いや、そんなことないよ。そもそも川澄さんを見てたわけじゃない。ちょっと首の体操してただけ。ちょっと凝り気味で」

「ずっと勉強してると、首凝るよねえ。わかる」

 こんな軽い会話でも、ドギマギしてしまう。自分の恋愛耐性の無さに、愕然とする。


 僕と川澄さんは今年の4月に研究室に配属されたが、僕は4月から今日まで休学していたから、僕がこの研究室に来たのは、今日が初めてだった。また、川澄さんとは同じ物理学専攻ではあったものの、接点がなかった。だから、川澄さんと話したのも今日が初めてだ。

「大学院入試、お互い上手くいくといいね」

「川澄さんは、院生になっても、この研究室に残るの?」

「うん。そのつもり。藤宮君は?」

「僕も、そのつもり」


 僕らの研究室は、今年度に設立された研究室である。だから、先輩の学生はいない。現状、この研究室に学生で所属しているのは、僕と川澄さん、二人の学部4年生だけだ。本来であれば、4人程度の所属が想定されていたようだが、生物物理学という、ややマイナーな分野の研究室ということもあり、他の学部4年生からの人気が高くなかったようだ。

「ところで、藤宮君はどうして、この研究室を選んだの?」

「それは……あまり言いたくないかな」

「えっ?どうして?」


 真面目に話せば、引かれることがわかっている。世の女性は、「変な人間」を嫌う。それくらいは、さすがの僕でも知っている。嫌われたくはないさ。誰にだって。ことさら、かわいい女の子には。


 でもいっそ、変人だと思われて、距離ができたほうがいいのかもしれない。その方が、川澄さんを意識する必要もなくなり、物理の勉強にも集中できる……僕は意を決して、80%くらい本気の答えを返した。20%緩くなったのは、僕の弱さだ。

「生物物理学を研究すれば、自分自身が何者なのか、知ることができるかもしれないと思ったから」

「えっ?」

「生物物理学を究極的に突き詰めれば、物理学という論理的な学問で、心とか精神とか、そういう非論理的な類の概念を全部、解明できるかもしれないだろ?そんなの、最強で最高じゃん。それができたら、人間は、人生を最大限に効率よく過ごす方法を見つけられるはずだ。そして、自分自身がどういう存在なのかを、哲学なんていう曖昧なものに頼らなくても、明確に定義できる気がしてさ」


 どうだ?引いただろ?こんな中二病バリバリの考え方を披露すれば、女という生き物は、対象を毛嫌いするに決まっている。自分で話していても、自分の考えに対して、虫唾が走るほどだ。夢見がちで、幼稚で、カッコ悪い。僕は、教科書に視線を戻した。

「私も同じ!」

「えっ?」

 視線も気持ちも、川澄さんに引き寄せられる。

「私も、そう思って、この研究室を選んだんだ。生物を物理学で解き明かしたい。自分自身を論理的に説明できる物理学、そんな夢の理論を見つけたいと思ったの!」


 こんな人間が、この世に存在していいのだろうか。

 こんなことを言ってくれる女の子を、それでも好きになるなというのは、いくらなんでも酷だろ。

「へえ……意外だな。君みたいな優等生が、そんなこと思ってたなんて」

「私が優等生?そんなことないよ。私なんて、何の取り柄もないし。周りに迷惑をかけてばかりで」


 傍から見ていた時は、「別のランク」の人だった川澄さんが、僕と同じ思想を持ち、謙遜なのか卑屈なのかわからない事を、平然と言ってのけている。人間というのは、つくづく訳がわからない。

「川澄さんが何の取り柄もないなら、僕なんてもう、立場ないんだけど」

「藤宮君は凄いじゃん。ほら……えーと、ちょっとだけ、背が高いし!」

「絞り出してそれかよ」

「ごめんね。藤宮君のこと、まだあまり知らないから」

「僕の方こそ……ごめん。傍から見ていただけなのに、知ったようなこと言って。でも、川澄さんが本当に自分のことをそんな風に思っているなら、やっぱり悲しいから」

「優しいんだね。藤宮君は」


 川澄さんの笑顔がまぶしい。まぶしすぎて、目を逸らしてしまう。

「そんなことない。本当のこと、言っているだけさ。みんな、川澄さんのこと、凄いと思ってるんだぜ」

 川澄さんのスマホから、アラーム音が鳴り響く。

「あっ、もうこんな時間なんだ。バイト行かなきゃ」

 川澄さんが帰り支度を始めた。ああ、もう……行っちゃうのか。せめて、あともう少しだけ、話したかった。

「じゃあ、また明日ね」

「うん……お疲れ。また明日」

 川澄さんが、研究室を出ていった。


 僕は、深呼吸をした後、徐にノートパソコンを開く。検索エンジンに「席 隣 好きな人」と検索をかける。「仲良くなるための方法」「アピールするための方法」。そんな類のアドバイスをしてくれるウェブサイトが、ごろごろ出てくる。これらのサイトのノウハウを全て身につければ、川澄さんと……そんなことが、起こり得るものなのだろうか?妄想が暴れ始めてしまう。頭がバカになりそうだ。


 僕は、更に、ブラウザの新しいタブを開き、エロサイトのページにアクセスする。

スクロールしていき、川澄さんに似ている女優を探す。なんと浅ましい人間なんだう、僕は。罪悪感に苛まれながらも、目も指も気持ちも、馬車馬のように走っていく。


 その時、右肩をポンポンと、後ろから叩かれた。心臓が一瞬止まった後、バクバクと蠢き出した。

 川澄さんだとしたら……舌を噛んで死のう。

 僕は、後ろを振り向いた。




 僕の肩を叩いたのは、矢貫教授だった。

 矢貫葉子。本研究室のボス。35歳の若さで大学教授になった、正真正銘の天才である。

「青春してるねえ。感心感心」


 身長は170cmくらい。肩ぐらいまで髪を伸ばし、白衣を着ている。わずかに開いた胸元と黒ストッキングが、大人の女性らしさを醸し出していた。片手でスマホをいじりながら、矢貫先生はニヤついた表情で、僕のことを見ている。とっさに、僕はパソコンを閉じた。


 死にたい。川澄さんではなかったけど、やっぱり死んでしまおうか。


 矢貫先生は僕の顔を覗き込んでくる。香水の甘ったるい香りに、ややくらっとする。

「そんな引き攣った顔をして。何か嫌な事でもあったの?まあ、今日、初めてに来たんだし、緊張して当然なのかも知れないけれど」

「いや、えーと……勉強します!すみませんでした!」

「何を謝ってるの?童貞の藤宮君が、隣の席の川澄ちゃんを意識したり、エロサイト見ちゃうのなんて、当たり前でしょ?君の心が、健全な証拠だよ」

「は、はあ……ご理解いただき、感謝します……てか、なんで僕が童貞って知ってんですか!?」


 矢貫先生が、僕の机に置かれた、院試の問題集を手に取った。

「院試の勉強か。こんな勉強、つまらないでしょ?やんなくていいよ。こんなの。答えがある問題を解いたって仕方ない。AIが台頭している現代において、全く実戦的じゃない。答えがない問題の最適解を模索するプロセスこそ、今の時代に必要な能力なんだから」

「は、はあ……まあ、そういう考え方は正論かもしれませんけど、現実問題、院試の点数低かったら、下手すれば院に進めなくなるし」

「変な点取っても、私が総長に土下座して、合格にしてあげるから、安心して大丈夫」

「いやいや。何言ってんすか」

「時間は有限なんだ。頭の悪い人たちが作った制度のために、自らの人生の貴重な時間を削るなんて、寿命を削ることと同じ。私は、そう思うね。君はいつまで、寿命を削る気かな?命は大事にしなければいけないと、小学校で教わったでしょう?ダメだよ。教わったことは、守らないと」


 こういう人だ。天才の発想というのは、僕みたいな凡人の発想を、軽く二手三手、飛び越えていく。この人の価値観からすれば、僕の中二病的な発想も、おままごとぐらいにしか見えないのかもしれない。

「おっと、こんな話をするために、ここに来たんじゃなかった。君に……君達に、渡すものがあるんだった」


 先生は、表紙も背表紙も真っ白な「白い本」を二冊、僕に差し出した。

「一冊は君の分。もう一冊は、川澄ちゃんの分だから、君から渡しといて」

 僕は、「白い本」を受け取った。大きさは一般的な図鑑くらいだろうか。見た目以上に、ずっしりと重い。

「ありがとうございます。これ、何の本ですか?論文集とかですか?」

 僕は、「白い本」を開こうと、ページの端に指をかけた。

「まだ、開かない方がいいよ」

「えっ?」

「死んじゃうかもだから」

「は?」

「パンドラの箱ならぬ「パンドラの本」ってとこかな」


 矢貫先生は、ふっと笑う。

「冗談だよ。冗談。あんまりびびんないでよ。要は、それくらいにこの本を大切にしてほしいってこと。君達にとっても、私にとっても、この本は「最後の希望」だからね。本当にピンチに陥らない限り、その本を開いてはいけないの。それは守ってほしいかな」

「最後の希望って……」

「言葉の通りだよ。すぐに分かるさ。まあ、この本が希望になるかどうかは、君達次第なのだけれど」


 矢貫先生は、僕に背を向けた。

「今日から二週間、出張なんだ。そろそろ出発するから、後は頼むね。川澄ちゃんにもよろしく伝えといて。院試の日には戻るから、それまで、どうか元気でいてね。藤宮君」

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