昔 東京の片隅で 第1話 帰郷

第1話

　ぼくの携帯が鳴った。

　病院からだった。

　覚悟はしていた。

　その瞬間が、とうとうやってきたのだ。

　もどかしく耳に押し当てた携帯から、おそらく担当看護師であろう女性の、押し殺した声が聞こえてくる。

「奥様が危篤です。こちらに来て頂けますか」

　病院に着いた。

　妻はもう、いつもの病室にはいないに違いない。

　ぼくは受付で、妻と面会したいことを告げた。

　受付の警備員はPCにその名前を打ち込んでから、案内担当の警備員にその行先を告げる。

「スペルベンです」

　スペルベン。

　ぼくは学生の頃、ドイツ語を選択していたので、その言葉の意味を知っていた。

　スペルベン。死亡。

　その言葉はおそらく病院では、亡くなった患者のことを指す隠語なのだ。

　警備員に案内され、ぼくは地下の慰安室で、顔を白い布で覆われた妻と対面した。

　冷たくなっている身体を除けば、そこに横たわっている妻は静かに眠っているようにしか見えない。

　病室の窓から沈む夕陽を眺めながら、

「ねえ、あなた。わたし、もう一度、鎌倉の七里ガ浜のレストランから、江ノ島に落ちる夕陽が見たいな」

　妻は一度言葉を切り、そして続けた。

「見られるかなぁ。あの松明（たいまつ）が灯るテラスレストランから、夕陽が沈む江ノ島の灯台を」

　今にも消え入りそうな声でそう言う妻に、ぼくは彼女の瘦せ細った手を握りながら、

「見られるよ。いつか絶対」

　と言って励ますしかなかった。

　けれど妻は、とうとう還らぬ人となってしまった。

　子供には恵まれなかったけど、それでもぼくにとって、きみと暮らした十年は幸せだったよ。

　その妻は今、小さな白い骨壺に収まってぼくと一緒に機上の人になっている。

　全日空。羽田発北海道千歳行き航空便。

　ぼくは妻を生まれ故郷の北海道稚内に連れて行き、日本海とオホーツク海に面した墓地に埋葬するつもりだった。

　旅客機に搭乗し、妻の骨が入った骨壺を天井の収納スペースに入れようとしたところ、ひとりのCAがぼくに声をかけた。

「失礼ですが、この骨壺に入ってる方はどなたでしょうか」

　ややあって、ぼくは答えた。

「これは妻です。十年連れ添った妻なんです」

　ぼくが答えるとそのCAは微笑みながら、

「どうぞ。隣の窓際の席が空いてますから、そこに奥様を座らせてあげてください」

　ぼくはその言葉に甘えて、妻の骨壺を窓際の席に置いた。

　旅客機が離陸してしばらくすると、先ほどのCAがソフトドリンクを持ってぼくの方に歩いてきた。そしてぼくと隣の窓際の席にソフトドリンクを置くと、

「お客さまと奥様のドリンクをお持ちしました。どうぞご一緒に召し上がりください」

　こみあげてくるものがあった。

　CAのホスピタリティに触れた、ぼくの涙だった。

　窓の外には、果てしなく広がる雲海が見えた。

　そしてぼくが乗っている旅客機を見守っているかのような夕陽も見える。

　そのときぼくの脳裏には、妻が好きだったスコーピオンズの歌と演奏がリフレインした。

　I'm still loving you・・・

　ぼくはまだ、きみを愛してる。